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斜里町立知床博物館

住所 斜里郡斜里町本町49-2
TEL 0152-23-1256
開館時間 9時〜17時
休館日 4〜10月は、月曜日(祝日、振休日は開館)  11〜3月は、月曜日、祝日、月曜日が祝日のときは翌火曜日も休館
入館料 大人300円(小・中学生無料)
駐車場 バス5台、乗用車20台(料金は無料)

NPO法人 知床斜里町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
本町(ほんまち)は、当初斜里原野・斜里と呼ばれていたが、1953(昭和28)年に市街地の字名改正され「もとまち」から「ほんまち」へと変更になった。1990(平成2)年斜里市街地町名地番改正した際に、朝日町の一部と港町の一部を「本町」(ほんまち)とした。ほんちょうにすると言う議論もあったようだが、日常的に使われてきたほんまちにしたものである。
国道244号線道道92号斜里停車場線の交差点から約900mの交差点を右折、約750mほどに知床斜里博物館の駐車場があり、徒歩で博物館へ。

斜里町の歴史を物語る資料が豊富に展示されており、これで300円とはと思わせるほどの充実した施設である。
地質、先史時代からの土器や遺物、知床半島の歴史、野生動物の剥製、植物の生態などを様々な観点から紹介されている。
1階では、知床の歴史を紹介している。
知床半島の生いたち、知床半島立体模型、硫黄結晶、オホーツク文化やアイヌ先住民の歴史など縄文時代から始まる知床半島や斜里の歴史を紹介。
厳しい自然に育まれた人間の歴史や文化、漁具、生活用品、鉄道の歴史も紹介され、根北線の越川駅の駅名標やジオラマなども置かれている。


朱円周堤墓に関しても紹介されている。
朱円環状土籬は、斜里郡斜里町朱円西に位置し、1952(昭和27)年1月29日に北海道指定史跡に登録された。
発掘調査は、1949(昭和24)年〜1950(昭和25)年にかけて、北海道学芸大学(現・北海道教育大学)の河野広道教授らによって行われ、出土した土器より今から3000年前頃の縄文後期に構築された遺跡だと分かった。
周提墓は、A・B号と、2つの土提から構成され、ドーナツ状に盛土された内側に土坑墓を作ってそのうえに石を乗せている。
出土した遺物は、土器や石器の他、ヒスイの飾り玉、サメの歯、炭化した布、焼けた人骨などがあった。
他にも、周提墓から見ると夏至の太陽は羅臼岳山頂から上がり、冬至の太陽は藻琴山に沈むことも分かった。当時の人々は天体の動きなどでおおよその暦を知る人々だったのかも知れないとロマンを馳せてしまう自分も居た。


2階では、知床の自然を紹介している。
迫力満点の大型クジラ骨格標本が階段上にあったり、まるで生きているかのようなはく製や、樹木や花の標本、森林の動物やヒグマ・アザラシの全身骨格など、動植物に関する資料を収蔵・展示しており、様々な角度で知床を知ることができる。


交流記念館が併設されており、連絡通路で繋がっている。順路を進むと、そのまま「姉妹町友好都市交流記念館」に入る事ができる。
この施設は、1993(平成5)年に沖縄県竹富町との姉妹町盟約20周年、友好都市青森県弘前市との盟約10周年を記念して「姉妹町友好都市交流記念館」が隣接して完成したものである。
両市町の自然や文化を紹介し、たくさんの展示物があり、毎年斜里町で行われる夏の祭り「しれとこ斜里ねぷた」で使われるねぷたが保管展示されている。


野外観察園では、ハマナスエゾスカシユリなどの海岸草原を観察でき、天然記念物に指定されているオジロワシ、オオワシなど、保護された動物を飼育している。


すぐそばに隣接して町民公園があり、園内には有坂赤光車句碑一位樹霊塔津軽藩士殉難慰霊の碑9600形蒸気機関車などもある。


斜里の地名が記録に現れるのは1670(寛文10)年ころである。シャリ運上屋の創設は1790(寛政2)年に斜里場所は、宗谷場所から分かれて網走市と常呂町の境から東側を範囲として設けられた。1872(明治5)年斜里郡が根室支庁管轄となり、斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生した。1875(明治8)年には村名が漢字の斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村となる。1877(明治10)年に斜里村役場が設置され、鈴木養太が斜里赤上に入地、農業を始める。1888(明治21)年に斜里駅逓官設となる。斜里市街地は、斜里小学校が開校したのは1892(明治25)年3月である。それ以前は当時の永田戸長の協力で、仙台出身の永田泰亮が私塾を開き寺子屋式の教育をしていた。後に永田泰亮は小学校校長となった。商店は、石橋、小山田、半沢真吉、平田嘉吉、藤沢純一、本間鉄蔵らが古くから商店を営み、食料品、一般雑貨類、呉服洋物、履物、小間物などがあった。仕入れは定期船が港に入港し、函館や小樽の商人が取引の大半だったようである。
当時の下町は、料理屋、商店が軒を並べ夜間ともなると街路燈(家の前にある門灯)が灯されたという。夕方になるとこれに火を入れて歩く商売もあったようである。料理屋は、大正初期に全盛期を迎えていた。大小合わせて20軒ほどあったようで、芸者は大きい店だと10〜20人くらいを抱えていたようだ。当時の繁華街は現在の役場付近だったようで親不孝通りとも呼ばれていた。
 1915(大正4)年二級町村制を施行し、斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁の5ヶ村を合併して斜里村と改称し各村を大字と改める。1917(大正6)年には斜里市街地に電燈が灯る。現在の前浜町にある斜里第一漁業協同組合付近に発電所があり、木炭を燃やした。網走本線(後の釧網本線)が1925(大正14)年11月北浜〜斜里間延伸開業し、浜小清水、止別、斜里の駅を設置。鉄道が開通したことにより、市街の中心は下町から上町(現在の市街地に当たる)に移った。これにより斜里神社も海を向いていたが山の方へと向きを変えた。
 1929(昭和4)年釧網線(現・釧網本線)斜里〜札鶴間開通する。1931(昭和6)年斜里〜釧路間全通する。1932(昭和7)年殖民軌道斜里〜チプドマリ(現・日の出)間馬力により開通する。1939(昭和14)年1月町制施行し斜里町となる。1943(昭和18)年上斜里村(現・清里町)を分村。1953(昭和28)年大字斜里村・朱円村を廃し、港町・本町・分光町・・朝日町の4町と、字大栄・美咲・川上・来運・豊里・三井・中斜里・豊倉・以久科南・以久科北・富士・越川・朱円西・朱円・朱円東・峰浜・日の出を編成する。


1635(寛永12)年、松前家臣村上掃部左衛門広儀、北海道(蝦夷)内を巡行し斜里に来る。
1670(寛文10)年、斜里の地名が記録に現れる。
1685(貞享2)年、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1775(安永4)年、三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を設けアイヌに漁労を教える。
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1785(天明5)年、最上徳内が、金山を開く目的で蝦夷地を調査する。
1789(寛政元)年、飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝兵衛が請け負う。飛騨屋の手船が斜里にきて、ウラシペツの大酋長マウタラケ、大豪族チョウサマから、場所開設の要請を受ける。
1790(寛政2)年、村山伝兵衛、斜里場所運上屋差配人となる。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが根室に来航。最上徳内が樺太を調査する。
1798(寛政10)年、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。幕府が松平忠明を蝦夷地御取締御用掛とする。
1800(寛政12)年、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛が択捉に場所を開設し、漁場17箇所を開く。幕府が蝦夷を直轄し、津軽、南部に命じ約500人を蝦夷に派遣させ、要所警備を行う。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。津軽藩兵100名斜里警備のため派遺された最上徳内が指揮をとる。 宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、会津、仙台藩の兵が蝦夷地に派遣される。柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、北見国斜里郡となる。
1872(明治5)年、斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマン知床半島鉱物資源踏査を行なう。
1875(明治8)年、斜里・網走・紋別・枝幸・宗谷に郵便局が設けられる。村名が漢字の斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村となる。
1877(明治10)年、斜里村役場設置。鈴木養太斜里赤上に入地、農業を始める。
1879(明治12)年、斜里村ほか四ヶ村戸長役場を設ける。
1880(明治13)年、北見国に網走郡役所が設けられる。知床硫黄山大爆発する。
1885(明治18)年、越川山道を開鑿、根室と斜里を結ぶ。
1888(明治21)年、斜里駅逓官設となる。
1892(明治25)年、藤野家、斜里川の両端をはじめ目ぼしい漁場を経営する。
1894(明治27)年、官設越川駅逓所開設。
1896(明治29)年、鈴木養太赤上で水稲札幌赤毛種を試作する。
1901(明治34)年、斜里にはじめて定期船が寄港。
1913(大正2)年、三井農場、内地府県から移民を入れて未開地3000町歩の開墾に着手。
1915(大正4)年、二級町村制を施行。斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁の5ヶ村を合併して斜里村と改称し各村を大字と改める。
1917(大正6)年、斜里市街地に電燈が灯る。
1919(大正8)年、小清水村(現・小清水町)を分村。
1925(大正14)年、釧網線 (現JR釧網本線) 網走〜斜里間開通。
1929(昭和4)年、釧網線(現・釧網本線)斜里〜札鶴間開通する。
1931(昭和6)年、釧網線斜里〜釧路間全通する。
1932(昭和7)年、殖民軌道斜里〜チプドマリ間開通。
1938(昭和13)年、根北線斜里・越川間工事竣工一部軌条敷設。
1939(昭和14)年、町制施行し斜里町となる。
1940(昭和15)年、根北線工事中止。
1943(昭和18)年、上斜里村(現・清里町)を分村。ウトロ幌別間道路完成。
1949(昭和24)年、ウトロ漁港着工。
1957(昭和32)年、根北線斜里〜越川間開通。
1959(昭和34)年、斜里漁港起工する。
1963(昭和38)年、開発道路ウトロ・ラウス道路工事着工。知床岬灯台完成。
1968(昭和43)年、総合庁舎完成。斜里町90年・町制30年記念祭施行。
1970(昭和45)年、国鉄根北線廃止。しれとこ資料館、町立図書館オープン。
1973(昭和48)年、津軽藩士殉難慰霊碑建立。ウトロ香川台地に温泉湧出。
1975(昭和50)年、道道知床公園線、国道334号線に昇格。
1977(昭和52)年、しれとこ国立公園内100平方メートル運動スタート、全国に大きな反響を呼ぶ。
1978(昭和53)年、斜里町100年・町制40年記念式典挙行。
1980(昭和55)年、国道334号線知床横断道路開通。しれとこ100平方メートル運動第1次目標(120へクタール)達成。斜里岳道立自然公園に指定(15番目)。第1回しれとこ産業まつり開催。
1982(昭和57)年、知床100平方メートル運動5周年記念式典。あわせてシンポジウムを開催。日本のナショナル・トラスト運動に大きな影響を及ぼす。
1983(昭和58)年、第1回しれとこ斜里ねぷた運行。通産省による石油資源開発探査作業を斜里沖で実施。
1984(昭和59)年、国立公園指定20周年。知床100平方メートル運動で環境保全功労団体として環境庁長官表彰を受ける。
1985(昭和60)年、知床100平方メートル運動が緑化推進運動功労として内閣総理大臣表彰受ける。
1986(昭和61)年、知床100平方メートル運動ハウス着工。
1988(昭和63)年、知床森林センターが開庁。知床自然センターオープン。
1989(平成元)年、ウトロ地区字名改正。
1990(平成2)年、斜里市街地町名地番改正。林野庁が知床国立公園内を森林生態系保護地域に指定。
1991(平成3)年、ウトロペレケ新港一部開港。
1994(平成6)年、町鳥・町木制定。知床国立公園指定30周年記念式典開催。
1995(平成7)年、知床100平方メートル運動が(財)石川記念財団の山本有三記念「郷土文化賞」を受賞。
1996(平成8)年、第5回環境自治体会議が斜里(ウトロ)で開催。
1997(平成9)年、しれとこ100平方メートル運動目標額達成。100平方メートル運動の森トラストを開始。
1998(平成10)年、JR釧網本線、斜里駅を知床斜里駅に改称する。
1999(平成11)年、知床国立公園カムイワッカ地区で自動車通行規制始まる。
2001(平成13)年、知床五湖駐車場有料化。
2004(平成16)年、知床がユネスコ世界自然遺産に推薦される。
2005(平成17)年、知床がユネスコ世界自然遺産に登録される。
2007(平成19)年、道の駅うとろ・シリエトク、道の駅しゃりがオープン。JR知床斜里駅リニューアル。
斜里町史参考

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