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シャリ運上屋(会所)跡

住所 斜里郡斜里町港町8-28

NPO法人 知床斜里町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
港町の由来は、当時は斜里原野、斜里市街地と呼ばれていた。1953(昭和28)年に市街地の字名改正され港町となった。1990(平成2)年斜里市街地町名地番改正したが、港町はそのまま残った。
道道802号斜里港線から住宅街に入り、約200mほど。

シャリ運上屋の創設は1790(寛政2)年斜里場所は、宗谷場所から分かれて網走市と常呂町の境から東側を範囲として設けられた。
斜里場所が開かれ、斜里の地域が開発されるようになり、やがて交易をする商人があらわれ、斜里場所に「運上屋」と呼ばれる事務所を開いた。運上屋は、当初和人とアイヌとの交易の場所として始まったが、役場のような仕事もするようになる。

斜里場所は、蝦夷地を東蝦夷(太平洋森付近〜知床岬)、西蝦夷(熊石〜知床岬)に分かれていた当時、最果ての地であったので、ロシア船が現れて騒動を起こすまではそれほど重要視されていなかったのである。
しかし、この辺りはアイヌ民族の大きな勢力圏にあり、1582(天正10)年松前藩領となり、1685(貞享2)年松前藩が宗谷場所を開設し、同時にこの場所は斜里を含むオホーツク海域と樺太も含まれる膨大な地域に亘るものだった。
このときの交易は、藩から派遣された者が土産物を持ってアイヌの方に遊びに行き、帰りに土産として産物を持って帰るか、もしくはアイヌが土地の産物を持って宗谷場所に遊びに来て帰りに和人の品物を土産に貰って帰るといった様子だったようである。
1706(宝永3年)年村山伝兵衛が、宗谷と留萌場所を請負うようになる。村山家は、能登国羽咋郡安部谷村の出身で、18歳で松前に来て1662(寛文2)年から漁業に従事していた。

 村山家の請負は、1755(宝暦5)年で満期となり、1756(宝暦6)年からは三印浜屋与右衛門、または天満屋専右衛門、材木屋七郎右衛門の三人が宗谷場所の請負となり、1760(宝暦10)年まで続いた。
1761(宝暦11)年からは、松前の支配下にあり、1774(安永3)年まで続いた。
1775(安永4)年からは、飛騨屋久兵衛が斜里を含む宗谷場所を請け負った。飛騨屋は、飛騨国益田郡湯島村(現・岐阜県下呂市)の出身で、武川久兵衛と言った。1702(元禄15)年松前に渡り尻別に蝦夷檜山の許可を得て、その材木を江戸や大阪に廻送、その後釧路、厚岸、石狩、天塩などでも蝦夷檜山を開き、北海道造材業の先駆者となった。

 実際の経営は村山伝兵衛で、1775(安永4)年〜1782(天明2)年まで続いたようである。このときアイヌに鯡(ニシン)、や鮭鱒の漁業法を教えるため斜里と紋別に「屋小屋番屋等漁業勝手能所へ建申候」、1775(安永4)年に斜里に漁場を新設した。
このときの村山家は、三代目になっており、村山家隆盛の時期でもあり積極的に事業の拡大を図ったようである。
しかし請負人名義は、飛騨屋久兵衛であり、この漁場は村山家個人的なものだった。
1782(天明2)年から1789(寛政元)年までは、飛騨屋名義であったが、村山家の経営が続いたかは不明であるという。
1789(寛政元)年東蝦夷地で起きたアイヌと和人の衝突「寛政蝦夷蜂起」がおき、名義人である飛騨屋は請負場所全て没収となった。(幕府はアイヌの蜂起の原因が、経済的な苦境に立たされ蜂起したと理解し、同年9月場所請負制も幕府直轄とした)
こうした僻地には番所を設け、東蝦夷は厚岸に、西蝦夷は宗谷にそれぞれ番所を設け、請負人の横暴とアイヌの行跡の取締りを行うようになった。
このときの勤番の役目は、
一、破船、漂流船の救助並に異国船の取締りをなすこと。
ニ、蝦夷人の不法を取締ること。
三、支配人、番人共が蝦夷人に対し不法なき様申聞かせ、又介抱が粗略にならぬよう注意すること。
四、軽物(絹布)の出産を増加するよう心がけること。
等であった。

1790(寛政2)年、斜里と樺太のアイヌの撫育を命ぜられ、この年を斜里場所開設の年とし、松前藩の命により村山伝兵衛が請負った。
各場所には、自己の船舶を以て、多量の米塩其他の諸貨物を送り、各種漁網を備えて漁法を伝習し、新たに数十箇所の漁場を開いた。
このときの斜里場所の支配範囲は、現在の斜里郡、網走郡、常呂郡、紋別郡に亘るものだった。
1792(寛政4)年6月に、松前地方を襲った大時化のため、荷物を乗せたままの船が沈没し大損害を被った。
その後も不運や、災難が続き1796(寛政8)年4月藩命を下し宗谷・斜里・樺太の三場所を伝兵衛から奪う。

1796(寛政8)年から宗谷・斜里・樺太の経営は、小山屋権兵衛、支配人板垣豊四郎、掛富永戸平となったが1799(寛政11)年経営は失敗する。
1800(寛政12)年から宗谷・斜里・樺太の経営は、松前藩の直轄となる。
1806(文化3)年〜1807(文化7)年にかけて、ロシア通商使節のニコライ・レザノフの海軍がロシア皇帝の許しなく樺太や北海道の漁村で略奪を行ったり、番屋が襲われて放火されたりという事件が頻発していた。
そのため幕府は襲撃に備えるよう、1807(文化4)年この頃運上屋は「会所」と呼ばれるようになった。蝦夷地(北海道)全島幕府直轄(天領)とされ、江戸幕府は仙台・会津・南部・秋田・庄内の各藩に蝦夷地警備と出兵を命じた。
このとき南部藩は692名、津軽藩500余名、秋田藩591名、庄内藩319名が出兵され、それぞれ警備についた。この頃択捉島を襲ったロシアの船が現れ、日本商船を襲って貨物を奪い船を焼き払うという事件も起っている。
このために宗谷、オホーツクの警備を強化するべく、すでにサハラ・エトロフに勤番所を設けていた津軽藩にも増員が掛けられ、さらに330名の津軽藩士が宗谷警備に送られ、うち100名が斜里警備の為送られてきた。これが後の津軽藩士殉難事件となる。

1808(文化5)年柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。藤野喜兵衛は、1782(天明2)年12歳の時松前に来て、1806(文化3)年に余市場所の漁場請負をはじめる。
1808(文化5)年〜1813(文化10)年の斜里場所は、恵比須屋順兵衛、坪田佐平と藤野の共同経営であった。
1815(文化12)年からは、藤野喜兵衛一人の請負となる。
また、1817(文化14)年には、国後島の請負もしている。

1821(文政4)年蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1855(安政2)年宗谷場所、再び天領となる。
1860(万延元)年奥羽六藩に北海道を分領し与え、斜里場所、標津場所、紋別場所は会津藩領地となり、これまでの場所請負制は一切会津藩のとなったものの、1866(慶応2)年まで藤野家は会津藩の用達をしていたようである。
1866(慶応2)年頃から、山田寿兵衛が会津藩から請負うが、政権が幕府から明治政府に変わり、斜里・紋別・標津の運上金は明治政府の箱館裁判所に納入したようである。
1869(明治2)年場所という制度がなくなり、それにともなって運上屋もなくなった。
1987(昭和62)年7月斜里町の史跡に指定された。

説明板
斜里町指定史跡
シャリ運上屋(会所)跡
シャリ運上屋の創設は寛政二年(一七九〇)以降と推定され、
その頃当地方を巡視した幕吏、谷口青山の絵図(寛政十年作)
にも当時の運上屋と弁天社の風景が描かれております。
運上屋は始め和人とアイヌ人との交易所として発足しました
が、のちに大規模な漁場経営や場所内の行政事務をも取扱う
ようになりました。
文化四年(一八〇七)幕府の蝦夷地直轄にともない、運上屋の
名称は会所と改められましたが、このとき北方探検家として
有名な最上徳内がシャリ会所詰を命ぜられ、当地に駐屯中の
津軽藩兵の指揮をとりました。
明治ニ年、場所請負制度の廃止と共に運上屋も廃止されまし
たが、以後その建物は藤野家(請負人)によって管理され、今
はその跡形もありません。
明治二十六年の斜里市街図によると運上屋跡のこのあたりに
斜里戸長役場、警察分署、駅逓などがあり南側の丘には弁天
社のあったことが記録されております。
津軽藩士斜里殉難百八十周年を記念し建立
昭和六十二年七月一日
北海道斜里郡 斜里町


1635(寛永12)年、松前家臣村上掃部左衛門広儀、北海道(蝦夷)内を巡行し斜里に来る。
1670(寛文10)年、斜里の地名が記録に現れる。
1685(貞享2)年、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1775(安永4)年、三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を設けアイヌに漁労を教える。
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1785(天明5)年、最上徳内が、金山を開く目的で蝦夷地を調査する。
1789(寛政元)年、飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝兵衛が請け負う。飛騨屋の手船が斜里にきて、ウラシペツの大酋長マウタラケ、大豪族チョウサマから、場所開設の要請を受ける。
1790(寛政2)年、村山伝兵衛、斜里場所運上屋差配人となる。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが根室に来航。最上徳内が樺太を調査する。
1798(寛政10)年、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。幕府が松平忠明を蝦夷地御取締御用掛とする。
1800(寛政12)年、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛が択捉に場所を開設し、漁場17箇所を開く。幕府が蝦夷を直轄し、津軽、南部に命じ約500人を蝦夷に派遣させ、要所警備を行う。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。津軽藩兵100名斜里警備のため派遺された最上徳内が指揮をとる。 宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、会津、仙台藩の兵が蝦夷地に派遣される。柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、北見国斜里郡となる。
1872(明治5)年、斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマン知床半島鉱物資源踏査を行なう。
1875(明治8)年、斜里・網走・紋別・枝幸・宗谷に郵便局が設けられる。村名が漢字の斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村となる。
1877(明治10)年、斜里村役場設置。鈴木養太斜里赤上に入地、農業を始める。
1879(明治12)年、斜里村ほか四ヶ村戸長役場を設ける。
1880(明治13)年、北見国に網走郡役所が設けられる。知床硫黄山大爆発する。
1885(明治18)年、越川山道を開鑿、根室と斜里を結ぶ。
1888(明治21)年、斜里駅逓官設となる。
1892(明治25)年、藤野家、斜里川の両端をはじめ目ぼしい漁場を経営する。
1894(明治27)年、官設越川駅逓所開設。
1896(明治29)年、鈴木養太赤上で水稲札幌赤毛種を試作する。
1901(明治34)年、斜里にはじめて定期船が寄港。
1913(大正2)年、三井農場、内地府県から移民を入れて未開地3000町歩の開墾に着手。
1915(大正4)年、二級町村制を施行。斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁の5ヶ村を合併して斜里村と改称し各村を大字と改める。
1917(大正6)年、斜里市街地に電燈が灯る。
1919(大正8)年、小清水村(現・小清水町)を分村。
1925(大正14)年、釧網線 (現JR釧網本線) 網走〜斜里間開通。
1929(昭和4)年、釧網線(現・釧網本線)斜里〜札鶴間開通する。
1931(昭和6)年、釧網線斜里〜釧路間全通する。
1932(昭和7)年、殖民軌道斜里〜チプドマリ間開通。
1938(昭和13)年、根北線斜里・越川間工事竣工一部軌条敷設。
1939(昭和14)年、町制施行し斜里町となる。
1940(昭和15)年、根北線工事中止。
1943(昭和18)年、上斜里村(現・清里町)を分村。ウトロ幌別間道路完成。
1949(昭和24)年、ウトロ漁港着工。
1957(昭和32)年、根北線斜里〜越川間開通。
1959(昭和34)年、斜里漁港起工する。
1963(昭和38)年、開発道路ウトロ・ラウス道路工事着工。知床岬灯台完成。
1968(昭和43)年、総合庁舎完成。斜里町90年・町制30年記念祭施行。
1970(昭和45)年、国鉄根北線廃止。しれとこ資料館、町立図書館オープン。
1973(昭和48)年、津軽藩士殉難慰霊碑建立。ウトロ香川台地に温泉湧出。
1975(昭和50)年、道道知床公園線、国道334号線に昇格。
1977(昭和52)年、しれとこ国立公園内100平方メートル運動スタート、全国に大きな反響を呼ぶ。
1978(昭和53)年、斜里町100年・町制40年記念式典挙行。
1980(昭和55)年、国道334号線知床横断道路開通。しれとこ100平方メートル運動第1次目標(120へクタール)達成。斜里岳道立自然公園に指定(15番目)。第1回しれとこ産業まつり開催。
1982(昭和57)年、知床100平方メートル運動5周年記念式典。あわせてシンポジウムを開催。日本のナショナル・トラスト運動に大きな影響を及ぼす。
1983(昭和58)年、第1回しれとこ斜里ねぷた運行。通産省による石油資源開発探査作業を斜里沖で実施。
1984(昭和59)年、国立公園指定20周年。知床100平方メートル運動で環境保全功労団体として環境庁長官表彰を受ける。
1985(昭和60)年、知床100平方メートル運動が緑化推進運動功労として内閣総理大臣表彰受ける。
1986(昭和61)年、知床100平方メートル運動ハウス着工。
1988(昭和63)年、知床森林センターが開庁。知床自然センターオープン。
1989(平成元)年、ウトロ地区字名改正。
1990(平成2)年、斜里市街地町名地番改正。林野庁が知床国立公園内を森林生態系保護地域に指定。
1991(平成3)年、ウトロペレケ新港一部開港。
1994(平成6)年、町鳥・町木制定。知床国立公園指定30周年記念式典開催。
1995(平成7)年、知床100平方メートル運動が(財)石川記念財団の山本有三記念「郷土文化賞」を受賞。
1996(平成8)年、第5回環境自治体会議が斜里(ウトロ)で開催。
1997(平成9)年、しれとこ100平方メートル運動目標額達成。100平方メートル運動の森トラストを開始。
1998(平成10)年、JR釧網本線、斜里駅を知床斜里駅に改称する。
1999(平成11)年、知床国立公園カムイワッカ地区で自動車通行規制始まる。
2001(平成13)年、知床五湖駐車場有料化。
2004(平成16)年、知床がユネスコ世界自然遺産に推薦される。
2005(平成17)年、知床がユネスコ世界自然遺産に登録される。
2007(平成19)年、道の駅うとろ・シリエトク、道の駅しゃりがオープン。JR知床斜里駅リニューアル。
斜里町史参考

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