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有坂赤光車句碑

住所 斜里郡斜里町本町 町民公園内

NPO法人 知床斜里町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
国道244号線道道92号斜里停車場線の交差点から約900mの交差点を右折、約750mほどに知床斜里博物館の駐車場があり、徒歩で町民公園へ、公園内に碑がある。

1945(昭和20)年、斜里砂丘吟社を作り、斜里町に多くの詩人が育成されたこともあり、1979(昭和54)年10月14日町民公園内に有坂赤光車の句碑が建立された。

雪晴れの
ふるさとの山
潔よし
赤光車


碑文
人を誹らず句を さず句格は即ち人格とした有
坂赤光車師は、大正時代より句作に情熱を傾注し
故郷の山川海そして温かい人情を詠い続けた。
戦後は後輩俳人の指導育成に当る。「赤光車師
の句碑を建立する」と町民誰の声ともなく湧き起
った願いは、遂に此処オホツクを守る森に結集、
実現されたのである。
 この碑を前にする時、吾々は師の謦咳に接する
の思いを新たにし鮮らげき詩情を醸し昇華されて
全人的向上を句作の精進を改めて誓うのである。
昭和五十四年十月十四日

斜里の地名が記録に現れるのは1670(寛文10)年ころである。シャリ運上屋の創設は1790(寛政2)年に斜里場所は、宗谷場所から分かれて網走市と常呂町の境から東側を範囲として設けられた。1872(明治5)年斜里郡が根室支庁管轄となり、斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生した。1875(明治8)年には村名が漢字の斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村となる。1877(明治10)年に斜里村役場が設置され、鈴木養太が斜里赤上に入地、農業を始める。1888(明治21)年に斜里駅逓官設となる。斜里市街地は、斜里小学校が開校したのは1892(明治25)年3月である。それ以前は当時の永田戸長の協力で、仙台出身の永田泰亮が私塾を開き寺子屋式の教育をしていた。後に永田泰亮は小学校校長となった。商店は、石橋、小山田、半沢真吉、平田嘉吉、藤沢純一、本間鉄蔵らが古くから商店を営み、食料品、一般雑貨類、呉服洋物、履物、小間物などがあった。仕入れは定期船が港に入港し、函館や小樽の商人が取引の大半だったようである。
当時の下町は、料理屋、商店が軒を並べ夜間ともなると街路燈(家の前にある門灯)が灯されたという。夕方になるとこれに火を入れて歩く商売もあったようである。料理屋は、大正初期に全盛期を迎えていた。大小合わせて20軒ほどあったようで、芸者は大きい店だと10〜20人くらいを抱えていたようだ。当時の繁華街は現在の役場付近だったようで親不孝通りとも呼ばれていた。
 1915(大正4)年二級町村制を施行し、斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁の5ヶ村を合併して斜里村と改称し各村を大字と改める。1917(大正6)年には斜里市街地に電燈が灯る。現在の前浜町にある斜里第一漁業協同組合付近に発電所があり、木炭を燃やした。網走本線(後の釧網本線)が1925(大正14)年11月北浜〜斜里間延伸開業し、浜小清水、止別、斜里の駅を設置。鉄道が開通したことにより、市街の中心は下町から上町(現在の市街地に当たる)に移った。これにより斜里神社も海を向いていたが山の方へと向きを変えた。
 1929(昭和4)年釧網線(現・釧網本線)斜里〜札鶴間開通する。1931(昭和6)年斜里〜釧路間全通する。1932(昭和7)年殖民軌道斜里〜チプドマリ(現・日の出)間馬力により開通する。1939(昭和14)年1月町制施行し斜里町となる。1943(昭和18)年上斜里村(現・清里町)を分村。1953(昭和28)年大字斜里村・朱円村を廃し、港町・本町・分光町・・朝日町の4町と、字大栄・美咲・川上・来運・豊里・三井・中斜里・豊倉・以久科南・以久科北・富士・越川・朱円西・朱円・朱円東・峰浜・日の出を編成する。

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