北海道応援サイト!がんばれ北海道!!

津軽藩士殉難慰霊の碑

住所 斜里郡斜里町本町49番地2 町民公園内

NPO法人 知床斜里町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
本町(ほんまち)は、当初斜里原野・斜里と呼ばれていたが、1953(昭和28)年に市街地の字名改正され「もとまち」から「ほんまち」へと変更になった。1990(平成2)年斜里市街地町名地番改正した際に、朝日町の一部と港町の一部を「本町」(ほんまち)とした。ほんちょうにすると言う議論もあったようだが、日常的に使われてきたほんまちにしたものである。
国道244号線道道92号斜里停車場線の交差点から約900mの交差点を右折、約750mほどに斜里町立知床博物館館の駐車場があり、徒歩で町民公園へ、公園内に碑がある。

この供養碑は、1807(文化4)年の冬におきた津軽藩士殉難者の慰霊のために、1812(文化9)年、前田久太郎、尾本太吉、惣番人中を施主として下町に建立されたもので2基ある。
碑の一体は1894(明治27)年に皆月寺(後の西念寺)に安置、その後、1952(昭和27)年に町民公園に供養碑を移した。
もう一体は、大正年代の初期(年代は不明)に、当時、下町にあった禅龍寺に安置、その後、1917(大正6)年に朱円の日蓮宗説教所境内に移され、1923(大正12)年に日照寺へ再移設され津軽藩士死没者の供養碑 がある。花崗岩で出来ており、高さ1.24m、巾48cm、奥行33cm。1982(昭和57)年7月1日斜里町指定文化財に指定された。
この慰霊碑のデザインは、斜里町郷土研究会高桑華夷治会長の作によるもので、縦5m、横6m、高さ45cmの台座の上面はオホーツク海を表している。
本碑の根部には、藩士の警備区域であった地域より集めた100個の石のうち72個を中心に配し、手前の石は青森県より寄贈されたもの。よって「百石の碑」として後世に語り継ぐものである。
1973(昭和48)年7月に建立された。近くには有坂赤光車句碑もある。

碑文
北方の風雲急を告げる文化四年
(西暦一八〇七年)当地方は津軽
藩の警備地域となり同年七月より
翌文化五年六月まで津軽藩士百名
が僻地のこの地に駐留して蝦夷地
の守備に任じた。
 朔北辺境の気候風土は耐え難く
加えて厳しい越冬期間中衣服食糧
共に乏しく水腫病のまんえんする
ところとなりこの病による陣没者
相次ぎ国許津軽へ帰還した者わず
か十七名に過ぎずその多くは斜里
場所創成期の礎石と化した
 尓来悠久百六十余年藩命とはい
え北海道開拓の先駆者としてわが
町に果てた津軽藩士の幽魂を弔い
ゆかりの丘に慰霊の碑を建立する
昭和四十八年七月
青森県及び北海道の協力を得て
北海道斜里町長 藤谷豊
之を建てる。
(碑文の裏面には、津軽藩士殉難者氏名が刻まれている。)


説明板
斜里町指定有形文化財 津軽藩士死没者の供養碑
この碑は文化四年(1807)の北辺警備において、
当地に死没された津軽藩士供養のため文化九年に当
時のシャリ場所関係者によって建立された供養碑ニ
基のうちの一基である。
(他の一基は日照寺境内に設置)
(津軽藩士の墓所は西方向六十五米に設置)
昭和五十七年七月一日指定
北海道斜里郡 斜里町

供養碑からほど近くには、津軽藩士墓所跡がある。
1987(昭和62)年7月1日に斜里町の史蹟に指定された。


1806(文化3)年〜1807(文化7)年にかけて、ロシア通商使節のニコライ・レザノフの海軍がロシア皇帝の許しなく樺太や北海道の漁村で略奪を行ったり、番屋が襲われて放火されたりという事件が頻発していた。
そのため幕府は襲撃に備えるよう、1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄(天領)とされ、江戸幕府は仙台・会津・南部・秋田・庄内の各藩に蝦夷地警備と出兵を命じた。
このとき南部藩は692名、津軽藩500余名、秋田藩591名、庄内藩319名が出兵され、それぞれ警備についた。この頃択捉島を襲ったロシアの船が現れ、日本商船を襲って貨物を奪い船を焼き払うという事件も起っている。
このために宗谷、オホーツクの警備を強化するべく、すでにサハラ・エトロフに勤番所を設けていた津軽藩にも増員が掛けられ、さらに330名の津軽藩士が宗谷警備に送られ、うち100名が斜里警備の為送られてきた。
このとき、警備隊の一員に加わり、生きて帰った隊員の一人が斉藤勝利で、彼が残した「松前詰合日記」はそのときの状況を詳しく残している。


1635(寛永12)年、松前家臣村上掃部左衛門広儀、北海道(蝦夷)内を巡行し斜里に来る。
1670(寛文10)年、斜里の地名が記録に現れる。
1685(貞享2)年、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1775(安永4)年、三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を設けアイヌに漁労を教える。
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1785(天明5)年、最上徳内が、金山を開く目的で蝦夷地を調査する。
1789(寛政元)年、飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝兵衛が請け負う。飛騨屋の手船が斜里にきて、ウラシペツの大酋長マウタラケ、大豪族チョウサマから、場所開設の要請を受ける。
1790(寛政2)年、村山伝兵衛、斜里場所運上屋差配人となる。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが根室に来航。最上徳内が樺太を調査する。
1798(寛政10)年、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。幕府が松平忠明を蝦夷地御取締御用掛とする。
1800(寛政12)年、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛が択捉に場所を開設し、漁場17箇所を開く。幕府が蝦夷を直轄し、津軽、南部に命じ約500人を蝦夷に派遣させ、要所警備を行う。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。津軽藩兵100名斜里警備のため派遺された最上徳内が指揮をとる。 宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、会津、仙台藩の兵が蝦夷地に派遣される。柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、北見国斜里郡となる。
1872(明治5)年、斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマン知床半島鉱物資源踏査を行なう。
1875(明治8)年、斜里・網走・紋別・枝幸・宗谷に郵便局が設けられる。村名が漢字の斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村となる。
1877(明治10)年、斜里村役場設置。鈴木養太斜里赤上に入地、農業を始める。
1879(明治12)年、斜里村ほか四ヶ村戸長役場を設ける。
1880(明治13)年、北見国に網走郡役所が設けられる。知床硫黄山大爆発する。
1885(明治18)年、越川山道を開鑿、根室と斜里を結ぶ。
1888(明治21)年、斜里駅逓官設となる。
1892(明治25)年、藤野家、斜里川の両端をはじめ目ぼしい漁場を経営する。
1894(明治27)年、官設越川駅逓所開設。
1896(明治29)年、鈴木養太赤上で水稲札幌赤毛種を試作する。
1901(明治34)年、斜里にはじめて定期船が寄港。
1913(大正2)年、三井農場、内地府県から移民を入れて未開地3000町歩の開墾に着手。
1915(大正4)年、二級町村制を施行。斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁の5ヶ村を合併して斜里村と改称し各村を大字と改める。
1917(大正6)年、斜里市街地に電燈が灯る。
1919(大正8)年、小清水村(現・小清水町)を分村。
1925(大正14)年、釧網線 (現JR釧網本線) 網走〜斜里間開通。
1929(昭和4)年、釧網線(現・釧網本線)斜里〜札鶴間開通する。
1931(昭和6)年、釧網線斜里〜釧路間全通する。
1932(昭和7)年、殖民軌道斜里〜チプドマリ間開通。
1938(昭和13)年、根北線斜里・越川間工事竣工一部軌条敷設。
1939(昭和14)年、町制施行し斜里町となる。
1940(昭和15)年、根北線工事中止。
1943(昭和18)年、上斜里村(現・清里町)を分村。ウトロ幌別間道路完成。
1949(昭和24)年、ウトロ漁港着工。
1957(昭和32)年、根北線斜里〜越川間開通。
1959(昭和34)年、斜里漁港起工する。
1963(昭和38)年、開発道路ウトロ・ラウス道路工事着工。知床岬灯台完成。
1968(昭和43)年、総合庁舎完成。斜里町90年・町制30年記念祭施行。
1970(昭和45)年、国鉄根北線廃止。しれとこ資料館、町立図書館オープン。
1973(昭和48)年、津軽藩士殉難慰霊碑建立。ウトロ香川台地に温泉湧出。
1975(昭和50)年、道道知床公園線、国道334号線に昇格。
1977(昭和52)年、しれとこ国立公園内100平方メートル運動スタート、全国に大きな反響を呼ぶ。
1978(昭和53)年、斜里町100年・町制40年記念式典挙行。
1980(昭和55)年、国道334号線知床横断道路開通。しれとこ100平方メートル運動第1次目標(120へクタール)達成。斜里岳道立自然公園に指定(15番目)。第1回しれとこ産業まつり開催。
1982(昭和57)年、知床100平方メートル運動5周年記念式典。あわせてシンポジウムを開催。日本のナショナル・トラスト運動に大きな影響を及ぼす。
1983(昭和58)年、第1回しれとこ斜里ねぷた運行。通産省による石油資源開発探査作業を斜里沖で実施。
1984(昭和59)年、国立公園指定20周年。知床100平方メートル運動で環境保全功労団体として環境庁長官表彰を受ける。
1985(昭和60)年、知床100平方メートル運動が緑化推進運動功労として内閣総理大臣表彰受ける。
1986(昭和61)年、知床100平方メートル運動ハウス着工。
1988(昭和63)年、知床森林センターが開庁。知床自然センターオープン。
1989(平成元)年、ウトロ地区字名改正。
1990(平成2)年、斜里市街地町名地番改正。林野庁が知床国立公園内を森林生態系保護地域に指定。
1991(平成3)年、ウトロペレケ新港一部開港。
1994(平成6)年、町鳥・町木制定。知床国立公園指定30周年記念式典開催。
1995(平成7)年、知床100平方メートル運動が(財)石川記念財団の山本有三記念「郷土文化賞」を受賞。
1996(平成8)年、第5回環境自治体会議が斜里(ウトロ)で開催。
1997(平成9)年、しれとこ100平方メートル運動目標額達成。100平方メートル運動の森トラストを開始。
1998(平成10)年、JR釧網本線、斜里駅を知床斜里駅に改称する。
1999(平成11)年、知床国立公園カムイワッカ地区で自動車通行規制始まる。
2001(平成13)年、知床五湖駐車場有料化。
2004(平成16)年、知床がユネスコ世界自然遺産に推薦される。
2005(平成17)年、知床がユネスコ世界自然遺産に登録される。
2007(平成19)年、道の駅うとろ・シリエトク、道の駅しゃりがオープン。JR知床斜里駅リニューアル。
斜里町史参考

Copyright (C) がんばれ北海道 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system