一位樹霊塔住所 斜里郡斜里町本町49番地2 町民公園内NPO法人 知床斜里町観光協会 斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。 本町(ほんまち)は、当初斜里原野・斜里と呼ばれていたが、1953(昭和28)年に市街地の字名改正され「もとまち」から「ほんまち」へと変更になった。1990(平成2)年斜里市街地町名地番改正した際に、朝日町の一部と港町の一部を「本町」(ほんまち)とした。ほんちょうにすると言う議論もあったようだが、日常的に使われてきたほんまちにしたものである。 国道244号線と道道92号斜里停車場線の交差点から約900mの交差点を右折、約750mほどに斜里町立知床博物館の駐車場があり、徒歩で町民公園へ、公園内に碑があり、津軽藩士殉難慰霊の碑のすぐそばに一位樹霊塔がある。 江戸時代、宗谷場所請負人だった飛騨屋久兵衛が斜里地方で伐木事業をしていたことがあったが、1898(明治31)年この頃から本格的に林業がはじまった。 このころはマッチの軸木をつくるためにドロノキという木がたくさん切られ、明治期終盤には斜里の木はどんどん切られるようになり、斜里川を流送して市街地まで木が運ばれ、斜里の前浜の沖には大きな木材積取船が停泊していたという。 大正時代には、斜里川付近の木を切ることが認められなくなり、斜里川流送も出来なくなったため、馬で木を運ぶようになった。 エゾマツやトドマツ、ハリギリ、キハダのほかミズナラやシナノキなどが切られ、斜里でも1916(大正5)年に木材加工工場がつくられた。 その後、大正時代に木を切りすぎたために昭和になっても斜里の林業は不振を続けるも、鉛筆用の木としてイチイ(一位)の木がたくさん切られた。 鉛筆材として切り出されたオンコの木(一位の木)に感謝し、1976(昭和51)年に建てられた碑である。 説明板 一位(オンコ)樹と鉛筆の由来 斜里岳海別知床三峰の山麓一帯朔北の清れつな流れに沿って繁茂する通称 水松(オンコ・アララギ・イチイ)の見事な樹林は し日本一と してはばからない。我国鉛筆製造歴史 明治十二年第一回勧業博覧会に国産鉛筆が姿を見せ明治二十年頃東京四谷 日暮里に小工場散見が抑々の創りで当時鉛筆原板に本洲樹を使い削り難い曲りなど 苦慮したが斜里原産オンコは優れた木質が最高適材に選ばれ北海道鉛筆原板発 祥の地となった 斜里川(上流)、ニキレイ川、秋の川、越川等に添び群帯植の習性オンコ は殊に多く大正二年から大正十三年の間に鉛筆原板工場が河川水車原動力利用十五 工場の操業生産二百万グロス金額百万円余にして斜里町財政を支え大正十年度 推定これらに消費オンコは年間八万石立木四万本余が伐採されたその後昭和初年 より鉛筆板企業広域し当地方中心に道東一円三十工場が操業輸出も拡大し オンコ樹身替でシナ、ハン樹登上生産一躍三倍に達し鉛筆原板もオンコ、シナ ハン米国産シダーと樹種多様であるが過去多年に亘る鉛筆文化と此の地方 住民の生活に美しい青葉と枯したオンコに感謝し一位樹霊塔を建立し永く 後世に傳える 昭和五十一年十月十二日 北海道鉛筆板工業組合 東京鉛筆工業組合 建立 土橋勝利 |