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斜里駅逓所跡

住所 斜里郡斜里町本町42-8(星印刷工業(株)所有)

NPO法人 知床斜里町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
本町(ほんまち)は、当初斜里原野・斜里と呼ばれていたが、1953(昭和28)年に市街地の字名改正され「もとまち」から「ほんまち」へと変更になった。1990(平成2)年斜里市街地町名地番改正した際に、朝日町の一部と港町の一部を「本町」(ほんまち)とした。ほんちょうにすると言う議論もあったようだが、日常的に使われてきたほんまちにしたものである。
道道92号斜里停車場線道の駅 しゃりから海の方向に約170mほど住宅街を進み、突き当りのT字路を右折し約150mほど。

北方開拓のため開拓使が設置されたのは1869(明治2)年、この制度は1882(明治15)年まで続けられ、その後「札幌」「函館」「根室」の三県が設置された。1886(明治19)年にはこの三県制度も廃止され「北海道庁」が設置される事となったころ、斜里管内に最初に開設されたフレトイ駅逓所塚本命助は、小清水町最初の和人定住者で、当初は「蒼瑁駅逓所」と呼ばれていたが、1892(明治25)年フレトイ駅逓所となった。
その後、1888(明治21)年の斜里駅逓所、1891(明治24)年の小清水駅逓所野川駅逓所の開設、越川駅逓所は1894(明治27)年設置された。

斜里場所の場所請負人であった藤野家の番屋がもとになり、明治初年から取り扱いがあった駅逓で、1888(明治21)年4月に官設となり、1902(明治35)年9月から下川玉蔵が取扱名義人となり、取り扱いは1919(大正8)年11月まで続き、その後を清水粂太郎に譲り、1928(昭和3)年6月清水一郎名義になった。 その後1929(昭和4)年、釧網線(現・釧網本線)斜里〜札鶴間開通すると駅逓所も廃止となった。
斜里警察署の裏手、星印刷所斜め向かいに建物が現存しているが改修・補修などを繰り返したからか昔の面影はない。内部も面影はないそうで、星印刷さんで突然の訪問にも快く応じていただき感謝致します。(撮影許可も頂いております)
ちなみに碑や案内板などは一切ない。

すぐ近くにはシャリ運上屋(会所)跡や、津軽藩士シャリ陣屋跡などの斜里町指定史跡が点在している。

斜里駅逓の補助金は、当初1ヶ年金100円だったが、その後宿泊客の寡多によって一ヶ月いくらというようになったようであるが年代は不明である。
1897(明治30)年このときの小清水が一ヵ年金1円、蒼瑁は2円、野川は5円50銭、越川も5円50銭、斜里は1円50銭だった。野川と越川の補助金が多いのは、野川は川湯の駅逓から四里足らずで、半日行程だったからで、川湯から小清水まで(七里二十町四十九間・約29.7km)を一日行程で行き来していたこと。越川も、根室留辺斯から斜里まで(七里十六町十四間・約29.2km)を、一日行程で泊まり客が少ないためであった。1898(明治31)年斜里戸長は値上げを上申したが、野川と越川だけ6円に上がったようだ。
宿泊料は、1908(明治41)年調べによると越川駅逓では、50銭、65銭、80銭の三段階があり、斜里駅逓では、1円、75銭、65銭と他の駅逓でも料金はまちまちだったようである。

1894(明治27)年時点の各駅逓の人夫は、蒼瑁3人、斜里5人、野川5人、小清水3人、越川2人だった。
1898(明治31)年の人夫の負担は一人七貫目で、労働時間は日の出から日没と決まっていた。一里について人夫費は10銭で、夜中や道が特別悪い場所、冬の雪の中などの場合では五割以内の割増料金が請求された。
1898(明治31)年当時の道路は完全ではなかったこともあり馬車はなく、馬橇は各駅逓に1〜2台づつ用意され通行人の求めに応じたが、荷物の重量は九〇貫(約337.5kg)までだった。駄馬は荷物のい目方で三十ニ貫(約120kg)、賃銭は一里12銭だった。
乗馬は、1896(明治29)年まで一里九銭だったが、翌年からは乗鞍付乗馬賃貸は一里十五銭に改められ、山道や悪路、夜道では三割以内の割増料金となった。馬一頭の継ぎたてには馬追いを付けないのが普通であるが、婦人や老人の旅行者には必ず馬追いをつけて保護しなければならなかったようである。
しかし、当時の官馬の実態は、斜里で六頭でそのうち二頭は17歳と22歳の老馬で継ぎ立ては出来なかったようである。小清水駅逓では、十頭の官馬のうち老馬三頭、腺疫のため役に立たない馬が一頭、野川駅逓では大雪のため官馬を斃し、1899(明治32)年には僅か四頭だった。古樋駅逓は四頭、三頭はいずれも老馬で、越川駅逓も五頭のうち老馬一頭、腺疫二頭、かろうじて使えるのは二頭だったという有様だった。
このことから斜里戸長から網走支庁へ報告書が提出される「官馬拾頭以下ノ馬数ナレハ疲労シテ永ク使役ニ堪ヘサルカ故ニ、放牧ノ便ヲ得、爾来野草止メ牧草蒔付一層飼養方法ヲ計画中ナリ」
各駅逓取扱人個人所有の馬がいたのでそれらの馬が主に駅逓馬として働かされていたのが現実のようである。
大正に入っても駅逓の重要性はまだまだ健在で、農業開拓は無理と思われていた知床半島にも延びていき、1918(大正7)年にはチプトマリ、1919(大正8)年にはウトロにそれぞれ駅逓が設置された。


1635(寛永12)年、松前家臣村上掃部左衛門広儀、北海道(蝦夷)内を巡行し斜里に来る。
1670(寛文10)年、斜里の地名が記録に現れる。
1685(貞享2)年、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1775(安永4)年、三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を設けアイヌに漁労を教える。
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1785(天明5)年、最上徳内が、金山を開く目的で蝦夷地を調査する。
1789(寛政元)年、飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝兵衛が請け負う。飛騨屋の手船が斜里にきて、ウラシペツの大酋長マウタラケ、大豪族チョウサマから、場所開設の要請を受ける。
1790(寛政2)年、村山伝兵衛、斜里場所運上屋差配人となる。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが根室に来航。最上徳内が樺太を調査する。
1798(寛政10)年、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。幕府が松平忠明を蝦夷地御取締御用掛とする。
1800(寛政12)年、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛が択捉に場所を開設し、漁場17箇所を開く。幕府が蝦夷を直轄し、津軽、南部に命じ約500人を蝦夷に派遣させ、要所警備を行う。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。津軽藩兵100名斜里警備のため派遺された最上徳内が指揮をとる。 宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、会津、仙台藩の兵が蝦夷地に派遣される。柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、北見国斜里郡となる。
1872(明治5)年、斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマン知床半島鉱物資源踏査を行なう。
1875(明治8)年、斜里・網走・紋別・枝幸・宗谷に郵便局が設けられる。村名が漢字の斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村となる。
1877(明治10)年、斜里村役場設置。鈴木養太斜里赤上に入地、農業を始める。
1879(明治12)年、斜里村ほか四ヶ村戸長役場を設ける。
1880(明治13)年、北見国に網走郡役所が設けられる。知床硫黄山大爆発する。
1885(明治18)年、越川山道を開鑿、根室と斜里を結ぶ。
1888(明治21)年、斜里駅逓官設となる。
1892(明治25)年、藤野家、斜里川の両端をはじめ目ぼしい漁場を経営する。
1894(明治27)年、官設越川駅逓所開設。
1896(明治29)年、鈴木養太赤上で水稲札幌赤毛種を試作する。
1901(明治34)年、斜里にはじめて定期船が寄港。
1913(大正2)年、三井農場、内地府県から移民を入れて未開地3000町歩の開墾に着手。
1915(大正4)年、二級町村制を施行。斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁の5ヶ村を合併して斜里村と改称し各村を大字と改める。
1917(大正6)年、斜里市街地に電燈が灯る。
1919(大正8)年、小清水村(現・小清水町)を分村。
1925(大正14)年、釧網線 (現JR釧網本線) 網走〜斜里間開通。
1929(昭和4)年、釧網線(現・釧網本線)斜里〜札鶴間開通する。
1931(昭和6)年、釧網線斜里〜釧路間全通する。
1932(昭和7)年、殖民軌道斜里〜チプドマリ間開通。
1938(昭和13)年、根北線斜里・越川間工事竣工一部軌条敷設。
1939(昭和14)年、町制施行し斜里町となる。
1940(昭和15)年、根北線工事中止。
1943(昭和18)年、上斜里村(現・清里町)を分村。ウトロ幌別間道路完成。
1949(昭和24)年、ウトロ漁港着工。
1957(昭和32)年、根北線斜里〜越川間開通。
1959(昭和34)年、斜里漁港起工する。
1963(昭和38)年、開発道路ウトロ・ラウス道路工事着工。知床岬灯台完成。
1968(昭和43)年、総合庁舎完成。斜里町90年・町制30年記念祭施行。
1970(昭和45)年、国鉄根北線廃止。しれとこ資料館、町立図書館オープン。
1973(昭和48)年、津軽藩士殉難慰霊碑建立。ウトロ香川台地に温泉湧出。
1975(昭和50)年、道道知床公園線、国道334号線に昇格。
1977(昭和52)年、しれとこ国立公園内100平方メートル運動スタート、全国に大きな反響を呼ぶ。
1978(昭和53)年、斜里町100年・町制40年記念式典挙行。
1980(昭和55)年、国道334号線知床横断道路開通。しれとこ100平方メートル運動第1次目標(120へクタール)達成。斜里岳道立自然公園に指定(15番目)。第1回しれとこ産業まつり開催。
1982(昭和57)年、知床100平方メートル運動5周年記念式典。あわせてシンポジウムを開催。日本のナショナル・トラスト運動に大きな影響を及ぼす。
1983(昭和58)年、第1回しれとこ斜里ねぷた運行。通産省による石油資源開発探査作業を斜里沖で実施。
1984(昭和59)年、国立公園指定20周年。知床100平方メートル運動で環境保全功労団体として環境庁長官表彰を受ける。
1985(昭和60)年、知床100平方メートル運動が緑化推進運動功労として内閣総理大臣表彰受ける。
1986(昭和61)年、知床100平方メートル運動ハウス着工。
1988(昭和63)年、知床森林センターが開庁。知床自然センターオープン。
1989(平成元)年、ウトロ地区字名改正。
1990(平成2)年、斜里市街地町名地番改正。林野庁が知床国立公園内を森林生態系保護地域に指定。
1991(平成3)年、ウトロペレケ新港一部開港。
1994(平成6)年、町鳥・町木制定。知床国立公園指定30周年記念式典開催。
1995(平成7)年、知床100平方メートル運動が(財)石川記念財団の山本有三記念「郷土文化賞」を受賞。
1996(平成8)年、第5回環境自治体会議が斜里(ウトロ)で開催。
1997(平成9)年、しれとこ100平方メートル運動目標額達成。100平方メートル運動の森トラストを開始。
1998(平成10)年、JR釧網本線、斜里駅を知床斜里駅に改称する。
1999(平成11)年、知床国立公園カムイワッカ地区で自動車通行規制始まる。
2001(平成13)年、知床五湖駐車場有料化。
2004(平成16)年、知床がユネスコ世界自然遺産に推薦される。
2005(平成17)年、知床がユネスコ世界自然遺産に登録される。
2007(平成19)年、道の駅うとろ・シリエトク、道の駅しゃりがオープン。JR知床斜里駅リニューアル。
斜里町史参考

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