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道の駅 しゃり

住所 斜里郡斜里町本町37番地
TEL 0152-26-8888
開館時間 9時〜19時、有料施設利用時間 9時〜22時まで
休館日 12月31日〜1月5日

道の駅 しゃり公式HP

NPO法人 知床斜里町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
本町(ほんまち)は、当初斜里原野・斜里と呼ばれていたが、1953(昭和28)年に市街地の字名改正され「もとまち」から「ほんまち」へと変更になった。1990(平成2)年斜里市街地町名地番改正した際に、朝日町の一部と港町の一部を「本町」(ほんまち)とした。ほんちょうにすると言う議論もあったようだが、日常的に使われてきたほんまちにしたものである。
道道92号斜里停車場線沿いにあり、国道244号線の交差点から約1.8km。JR釧網本線知床斜里駅から約300mほど。

メイン施設は、斜里町情報交流センターで、開駅は2007(平成19)年4月27日。
JR知床斜里駅から徒歩5分、斜里市街地の中心に位置するこの駅は、休憩スペースとインターネット検索が可能な情報検索スペースを有した道の駅。コミュニティルームなども備えた地域住民の情報交流センターとなっている。
インターネットコーナーでは、5台のパソコンが設置され、観光などの情報検索ができ自家用ノートPC利用にも対応しており、有料ではあるがプリントアウトもできる。ちなみに店内は人が多くて撮影できなかった。

道の駅施設内には、毎年7月に行われる「しれとこ斜里ねぷた」の大きな山車が展示されている。

道路をはさんで隣接する「斜里工房しれとこ屋」では新鮮な海の幸など知床の恵みを販売している。
水産加工会社直営の土産店では、水産加工品が所狭しと並び、地元漁師や漁協、市場から直接仕入れた新鮮魚介も手に入る。
「知床キッチン熊湖」では、開きホッケ定食、鮭親子漬丼、サチク赤豚の豚丼など地元食材を使ったメニューを味わうことが出来る。


斜里の地名が記録に現れるのは1670(寛文10)年ころである。シャリ運上屋の創設は1790(寛政2)年に斜里場所は、宗谷場所から分かれて網走市と常呂町の境から東側を範囲として設けられた。1872(明治5)年斜里郡が根室支庁管轄となり、斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生した。1875(明治8)年には村名が漢字の斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村となる。
1877(明治10)年に斜里村役場が設置され、鈴木養太が斜里赤上に入地、農業を始める。1888(明治21)年に斜里駅逓官設となる。斜里市街地は、斜里小学校が開校したのは1892(明治25)年3月である。それ以前は当時の永田戸長の協力で、仙台出身の永田泰亮が私塾を開き寺子屋式の教育をしていた。後に永田泰亮は小学校校長となった。
商店は、石橋、小山田、半沢真吉、平田嘉吉、藤沢純一、本間鉄蔵らが古くから商店を営み、食料品、一般雑貨類、呉服洋物、履物、小間物などがあった。仕入れは定期船が港に入港し、函館や小樽の商人が取引の大半だったようである。
お風呂の一号店は、下町(現在の星印刷東側)にある高橋旅館を経営していた高橋亀太である。
当時の下町は、料理屋、商店が軒を並べ夜間ともなると街路燈(家の前にある門灯)が灯されたという。夕方になるとこれに火を入れて歩く商売もあったようである。料理屋は、大正初期に全盛期を迎えていた。大小合わせて20軒ほどあったようで、芸者は大きい店だと10〜20人くらいを抱えていたようだ。当時の繁華街は現在の役場付近だったようで親不孝通りとも呼ばれていた。
1915(大正4)年二級町村制を施行し、斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁の5ヶ村を合併して斜里村と改称し各村を大字と改める。1917(大正6)年には斜里市街地に電燈が灯る。現在の前浜町にある斜里第一漁業協同組合付近に発電所があり、木炭を燃やした。
網走本線(後の釧網本線)が1925(大正14)年11月北浜〜斜里間延伸開業し、浜小清水、止別、斜里の駅を設置。鉄道が開通したことにより、市街の中心は下町から上町(現在の市街地に当たる)に移った。これにより斜里神社も海を向いていたが山の方へと向きを変えた。

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