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越川駅逓所跡

住所 斜里郡斜里町越川

NPO法人 知床斜里町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
越川の由来は、アイヌ語の「イクシナベツ」(山の処を横切っている川)で、道に沿っていた川が根室へ越すための川だからということでイクシナ川を「越川」と呼び部落名となったようである。
斜里郡斜里町光陽町にある、国道334号線国道244号線の分岐から国道244号線を標津町方向に約12.0kmの緩いカーブ左手。標津町伊茶仁の国道335号線と国道244号線の分岐から国道244号線を斜里町方向に約37.8kmほど右手。

越川駅逓は、官設となる以前から私設の駅逓所があったようで、1885(明治18)年に開鑿された根室標津〜留辺斯(るべす)経由で斜里に至る約15里の斜里山道の開鑿に始まる。 この地方では1885(明治18)年に留辺斯駅逓が道路の整備とともに設置され、1888(明治21)年には斜里駅逓所設置、越川駅逓所は1894(明治27)年設置された。
当時の山道は、原始林の中の雑木や熊笹を刈り倒しただけの刈り分け道路であり、越川付近では春から秋にかけて熊の出没がひどかったようで、冬は吹雪などで凍死者をだすほどの交通の難所だったようである。
このことから道庁では、この山道にある標津〜斜里間の駅逓に至る中間2里半ごとに旅行者などが休むことの出来る休泊所を設け、旅行者の便宜を図った。
根室標津〜2里半のところに椴山休泊所、さらに2里半のところに金山休泊所、留辺斯駅逓〜国境を越えて斜里領には、平取休泊所と、赤上休泊所を設け危険な冬道への配慮がなされた。
しかし休泊所とは名ばかりで、わらぶきの掘立て小屋で、斜里町史によると「赤上休泊所は、1889(明治22)年頃設けたもので、位置は現在の越川小学校向かいにある商店付近だった。建物は間口一間半、奥行き二間の笹小屋で、入り口にはむしろを下げている掘立て小屋だった。ここには浅野某というアイヌを妻にした六十代の老人が居たという。」このことから宿泊の設備などない粗末なものだったことがわかる。

このことから当時の斜里郡戸長では、越川付近に施設の完備した官設駅逓を請願していたところ、1894(明治27)年の秋にイクシナベツに建坪36坪5合(120.4平方m)の駅逓所が新設された。
当初はイクシナベツ駅逓所と仮称したが、開設のときに根室へ越す為の川という意味で、イクシナ川を越川と呼び、それが部落名となり駅逓の名称も越川駅逓所と命名された。
斜里駅逓所から4里6町(約16.7km)、留辺斯駅逓所から3里10町(約12.1km)の距離にあり、旅人宿、人馬継ぎ立て、郵便逓送が主な仕事であった。
最初の取扱人は、中山道で出身は不明、1895(明治28)年10月5日付けで取扱人を命ぜられ、開拓の草分けとなった。
駅舎一棟と、官馬10頭が備えられ、 越川駅逓所への補助金は、1897(明治30)年は5円50銭だったようである。このときの小清水が一ヵ年金1円、蒼瑁は2円だったようで、越川の補助金が多いのは、根室留辺斯から斜里までは、七里十六町十四間で、一日行程であったことから泊まり客が少ないためであった。1898(明治31)年斜里戸長は値上げを上申したが、野川と越川だけ6円に上がったようだ。
宿泊料は、1908(明治41)年調べによると50銭、65銭、80銭の三段階があり、他の駅逓でも料金はまちまちだったようである。

初代中山道の取扱いは1902(明治35)年まで続き、同年9月には斜里の赤平庄助に代わった。このころには入植者の往来も増えたこともあり、25坪(82.5平方m)を増築して51坪(168.3平方m)とし、1905(明治38)年4月には郵便の継ぎ立て業務も行うようになった。
このため、常時二名の逓送夫を置き、越川〜留辺斯、越川〜斜里間の郵便逓送も行った。
その後、1906(明治39)年10月には赤平庄助から斜里市街地で雑貨商を営んでいた半沢真吉に代わったが、半沢の取扱いは名義だけで、実質的な取扱人は同年宮城県亘理郡山下村(現・亘理郡山元町北部)から移住した平田久治が半沢(平田の叔父にあたる)の代理人として駅逓業務を行っていた。
1911(明治44)年1月には、半沢真吉に代わって平田久治の名義となり、取扱人となった。平田の取扱いは1941(昭和16)年3月31日まで行われ廃止となった。
駅逓廃止後は、建物施設、畑地、牧場等一切を無償譲渡され、そのまま旧駅逓舎跡に住み着き農業に従事していた。
私が行ったときには、碑の後ろには木が立っていたが、当時は碑の後ろに廃屋があり、駅逓所だったことがわかるが、現在は跡形もなく碑だけが現存している。
開道百年、斜里町開基90年、町制施行30年を記念して、1968(昭和43)年10月に建立された。高さ1.5mの二段構えの台石の上に高さ1.1mの知床産の自然石を使い碑文は当時の町長藤谷氏が揮毫した。

碑文
 官設越川駅逓は明治二十七年十二月
斜里山道の開さくに伴い、その開設が
許可され、以来昭和十六年三月廃止に
至る間、北見管内拓殖移民の宿所、人
馬の継立、郵便逓送の引継所となり、
祭文語りや、根室への護送囚人等も泊
り、北見根室の両国を結ぶ交通の要所
として明治大正昭和の三代に及ぶ開発
の拠点としての役割を果した。
 昭和八年国道の変更により幾品川沿
より現在地越川二百三十四番地へ移転
した。
 この駅逓の取扱人は
初代 中山道 自 明治二十八年十月五日 至 明治三十五年九月二十九日
二代 赤平庄助 自 明治三十五年九月三十日 至 明治三十九年十月二十四日
三代 半沢真吉 自 明治三十九年十月二十五日 至 明治四十年一月八日
四代 平田久治 自 明治四十四年一月九日 至 昭和十六年三月三十一日
 四代平田久治は明治三十九年、宮城県
より渡道、取扱人となり駅逓廃止まで
の三十一年間に亘り、自然の猛威にも
屈せず専心職務に励み、廃止後も同地
で牧畜兼農業を営み八十八歳の高齢に
もかかわらず、現在なお健在である。
開道百年、斜里町開基九十年
町制施行三十年を記念して
昭和四十三年十月十七日 
斜里町長 藤谷豊 建立

ちなみに越川駅逓所〜留辺斯の間には、平取駅逓所が1902(明治35)年設置された。 留辺斯から一里十町、越川から二里のところに平取休泊所を作り、大家安次郎が名義人となって三浦某に実際の仕事をさせていたようである。
三浦某は1905(明治38)年頃に病気になり辞め、その後に平賀某を雇入れたが、1908(明治41)年死んでしまい一時廃業しようとしたが、支庁では継続の判断がでたこともあり、ラウスからきた「ラウスオト」という老人が、1912(大正元)年頃まで番人を勤め、その間大家安次郎名義で経営された。
その後白橋長三郎が取扱人となり、釧網線全通により越川山道の利用者が少なくなったので、1934(昭和9)年9月廃止となった。

越川部落は、1885(明治18)年に開鑿された根室標津〜留辺斯(るべす)経由で斜里に至る約15里の斜里山道の開鑿に始まる。 この地方では1885(明治18)年に留辺斯駅逓が道路の整備とともに設置され、1888(明治21)年には斜里駅逓所設置、越川駅逓所は1894(明治27)年設置された。
当時の山道は、原始林の中の雑木や熊笹を刈り倒しただけの刈り分け道路であり、越川付近では春から秋にかけて熊の出没がひどかったようで、冬は吹雪などで凍死者をだすほどの交通の難所だったようである。
元は斜里町大字朱円村・斜里村の一部だった。1906(明治39)年に島津農場の開拓が始まった事から入植者が増えて行く。
 1914(大正3)年元木農場開設される。1915(大正4)年二級町村制を施行。斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁の5ヶ村を合併して斜里村と改称し各村を大字と改める。栃木団体が入植する。越川小学校が開校する。1923(大正12)年の戸数は98戸となるが前後して離農者が増える。
 戦後には島津・元木農場の農地は解放され、小作農に解放される。1949(昭和24)年には越川中学校校舎を建設する。1952(昭和27)年斜里〜越川間にバス運行される。1971(昭和46)年越川小学校校舎を新築する。
ちなみにこの碑から標津方向に約500mほど進んだところに越川橋梁がある。


1635(寛永12)年、松前家臣村上掃部左衛門広儀、北海道(蝦夷)内を巡行し斜里に来る。
1670(寛文10)年、斜里の地名が記録に現れる。
1685(貞享2)年、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1775(安永4)年、三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を設けアイヌに漁労を教える。
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1785(天明5)年、最上徳内が、金山を開く目的で蝦夷地を調査する。
1789(寛政元)年、飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝兵衛が請け負う。飛騨屋の手船が斜里にきて、ウラシペツの大酋長マウタラケ、大豪族チョウサマから、場所開設の要請を受ける。
1790(寛政2)年、村山伝兵衛、斜里場所運上屋差配人となる。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが根室に来航。最上徳内が樺太を調査する。
1798(寛政10)年、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。幕府が松平忠明を蝦夷地御取締御用掛とする。
1800(寛政12)年、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛が択捉に場所を開設し、漁場17箇所を開く。幕府が蝦夷を直轄し、津軽、南部に命じ約500人を蝦夷に派遣させ、要所警備を行う。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。津軽藩兵100名斜里警備のため派遺された最上徳内が指揮をとる。 宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、会津、仙台藩の兵が蝦夷地に派遣される。柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、北見国斜里郡となる。
1872(明治5)年、斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマン知床半島鉱物資源踏査を行なう。
1875(明治8)年、斜里・網走・紋別・枝幸・宗谷に郵便局が設けられる。村名が漢字の斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村となる。
1877(明治10)年、斜里村役場設置。鈴木養太斜里赤上に入地、農業を始める。
1879(明治12)年、斜里村ほか四ヶ村戸長役場を設ける。
1880(明治13)年、北見国に網走郡役所が設けられる。知床硫黄山大爆発する。
1885(明治18)年、越川山道を開鑿、根室と斜里を結ぶ。
1888(明治21)年、斜里駅逓官設となる。
1892(明治25)年、藤野家、斜里川の両端をはじめ目ぼしい漁場を経営する。
1894(明治27)年、官設越川駅逓所開設。
1896(明治29)年、鈴木養太赤上で水稲札幌赤毛種を試作する。
1901(明治34)年、斜里にはじめて定期船が寄港。
1913(大正2)年、三井農場、内地府県から移民を入れて未開地3000町歩の開墾に着手。
1915(大正4)年、二級町村制を施行。斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁の5ヶ村を合併して斜里村と改称し各村を大字と改める。
1917(大正6)年、斜里市街地に電燈が灯る。
1919(大正8)年、小清水村(現・小清水町)を分村。
1925(大正14)年、釧網線 (現JR釧網本線) 網走〜斜里間開通。
1929(昭和4)年、釧網線(現・釧網本線)斜里〜札鶴間開通する。
1931(昭和6)年、釧網線斜里〜釧路間全通する。
1932(昭和7)年、殖民軌道斜里〜チプドマリ間開通。
1938(昭和13)年、根北線斜里・越川間工事竣工一部軌条敷設。
1939(昭和14)年、町制施行し斜里町となる。
1940(昭和15)年、根北線工事中止。
1943(昭和18)年、上斜里村(現・清里町)を分村。ウトロ幌別間道路完成。
1949(昭和24)年、ウトロ漁港着工。
1957(昭和32)年、根北線斜里〜越川間開通。
1959(昭和34)年、斜里漁港起工する。
1963(昭和38)年、開発道路ウトロ・ラウス道路工事着工。知床岬灯台完成。
1968(昭和43)年、総合庁舎完成。斜里町90年・町制30年記念祭施行。
1970(昭和45)年、国鉄根北線廃止。しれとこ資料館、町立図書館オープン。
1973(昭和48)年、津軽藩士殉難慰霊碑建立。ウトロ香川台地に温泉湧出。
1975(昭和50)年、道道知床公園線、国道334号線に昇格。
1977(昭和52)年、しれとこ国立公園内100平方メートル運動スタート、全国に大きな反響を呼ぶ。
1978(昭和53)年、斜里町100年・町制40年記念式典挙行。
1980(昭和55)年、国道334号線知床横断道路開通。しれとこ100平方メートル運動第1次目標(120へクタール)達成。斜里岳道立自然公園に指定(15番目)。第1回しれとこ産業まつり開催。
1982(昭和57)年、知床100平方メートル運動5周年記念式典。あわせてシンポジウムを開催。日本のナショナル・トラスト運動に大きな影響を及ぼす。
1983(昭和58)年、第1回しれとこ斜里ねぷた運行。通産省による石油資源開発探査作業を斜里沖で実施。
1984(昭和59)年、国立公園指定20周年。知床100平方メートル運動で環境保全功労団体として環境庁長官表彰を受ける。
1985(昭和60)年、知床100平方メートル運動が緑化推進運動功労として内閣総理大臣表彰受ける。
1986(昭和61)年、知床100平方メートル運動ハウス着工。
1988(昭和63)年、知床森林センターが開庁。知床自然センターオープン。
1989(平成元)年、ウトロ地区字名改正。
1990(平成2)年、斜里市街地町名地番改正。林野庁が知床国立公園内を森林生態系保護地域に指定。
1991(平成3)年、ウトロペレケ新港一部開港。
1994(平成6)年、町鳥・町木制定。知床国立公園指定30周年記念式典開催。
1995(平成7)年、知床100平方メートル運動が(財)石川記念財団の山本有三記念「郷土文化賞」を受賞。
1996(平成8)年、第5回環境自治体会議が斜里(ウトロ)で開催。
1997(平成9)年、しれとこ100平方メートル運動目標額達成。100平方メートル運動の森トラストを開始。
1998(平成10)年、JR釧網本線、斜里駅を知床斜里駅に改称する。
1999(平成11)年、知床国立公園カムイワッカ地区で自動車通行規制始まる。
2001(平成13)年、知床五湖駐車場有料化。
2004(平成16)年、知床がユネスコ世界自然遺産に推薦される。
2005(平成17)年、知床がユネスコ世界自然遺産に登録される。
2007(平成19)年、道の駅うとろ・シリエトク、道の駅しゃりがオープン。JR知床斜里駅リニューアル。
斜里町史参考

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