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野川駅逓跡

住所 斜里郡小清水町水上

小清水町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
小清水町の由来は、アイヌ語の「ポン・ヤワンペッ」(止別川の支流)が 、1891(明治24)年駅逓所設置の際に、「ポン・ヤンペッ」(小さな冷たい川)と意訳したもの。
水上の由来は、水元姓の経営者だった水元(水本)が野川と小清水駅逓の中間に休泊所を設けたことに由来する。
野川の由来は、アイヌ語の「ヌプカコサンペツ」(野に下る川)止別川の上流で、峠より野に流れる川。この川のほとりに駅逓を置き野川駅逓と称した。
国道391号線沿いにあり、野上峠方向に約14.4kmほど。

1891(明治24)年の釧路道路の開通に伴い、野川と小清水に駅逓が開設された。
野川は、「ヌプカクサンベツ」(野に下る川)継立所と呼んでいたが、開業時には日本語訳に改められた。初代取扱人は水本栄助(生没不明・出身地不明)。
野川駅逓は、放牧地に恵まれず駅逓の近くに放牧地がなかったことから、斜里の方までもってきて放牧をしていた。しかし1892年(明治25)年の大雪のときに官馬六頭と私有馬七頭を死なせてしまった。このことから駅逓を何処か適当な所に移して欲しいと願い出たが、網走支庁を怒らす結果となったようである。
支庁では、駅逓移転は許されず、駅逓は通行人のためのものであるから、通行人に不便を与える所へ移設することは出来ない。不都合があれば解任すると言って脅したようだ。
これに対して、水本取扱人から「馬の放牧は10里あまりも離れた場所であったため、手の施しようがなかったから、元止別に厩舎を新築して冬期間はここで管理する」という歎願書をだしたが、これらのことが原因してか野川駅逓の取扱人を解かれ、塚本伊勢太に代わった。
馬の斃死は、三代小宮山儀助の請負になっても大雪のため度々あった。1909(明治42)年3月に斜里〜川湯間の「野川道路」開通により通行人の便宜を図るため、元のとこから約五町ほど北の釧路道路の分岐点に移され、四代小宮山捨蔵が取扱人となった。この年に旧斜里原野7線19号に上斜里駅逓所跡も設置された。その後1931(昭和6)年9月国鉄釧網線の全通にともない同年5月にその役目を終えた。
 今となっては道路脇に開けた小さな草地があり、石碑と小清水町教育委員会が建てた案内板以外に何の痕跡も残っていない。草地というより湿地っぽく近くまで行くのは困難で諦めた。

ちなみに二代目、野川駅逓管理人であった塚本伊勢太氏(塚本命助の弟)が1897(明治30)年に神威9線19号(神威10線21号とあるが1978(昭和53)年発刊の清里町史を優先する)に転住入地したのが清里町の和人定住のはじまりとされている。
塚本伊勢太は、1864(元治元)年に岩手県茂一村( 現・岩手県宮古市茂市付近)に生まれ、1880(明治13)年に渡道。根室に定住し 1891(明治24)年に野川駅逓所に定住。
1897(明治30)年に取扱人を辞め、神威9線19号に転住入地し開拓に従事し、清里町の開拓入地者の指導と協力を惜しまず、清里町開拓に寄与し、神威小学校建設にも協力した。1923(大正12)年に転住したようだが清里町史・小清水町史にも詳細は載っていなかった。

説明板
 明治24年、釧路道路の開通にともない、水本栄助を初代取扱人
として開設。翌年、塚本伊勢太が取扱人となった。
 この駅逓は放牧地に恵まれず、川湯、小清水から半日の道程に
あったので宿泊客もなく経営は極めて苦しかった。明治42年、
野川〜札鶴(札弦)間の開通により下手の分岐点に移転したが、
釧網線全通により昭和6年5月廃止になった。
(現在の水上地区野上峠登坂付近に所在した)
小清水町教育委員会


1635(寛永12)年、松前家臣村上掃部左衛門広儀、北海道(蝦夷)内を巡行し斜里に来る。
1670(寛文10)年、斜里の地名が記録に現れる。
1685(貞享2)年、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1700(元禄13)年、幕府へ提出した御国絵図に浦士別、斜里等の地名が載る。
1775(安永4)年、三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を設けアイヌに漁労を教える。
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1785(天明5)年、最上徳内が、金山を開く目的で蝦夷地を調査する。
1789(寛政元)年、飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝兵衛が請け負う。飛騨屋の手船が斜里にきて、ウラシペツの大酋長マウタラケ、大豪族チョウサマから、場所開設の要請を受ける。
1790(寛政2)年、村山伝兵衛、斜里場所運上屋差配人となる。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが根室に来航。最上徳内が樺太を調査する。
1798(寛政10)年、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。幕府が松平忠明を蝦夷地御取締御用掛となる。フレトイ〜ヤムベツの間にアイヌの民家14戸の記載あり。ウラシベツに番屋があり大きな川には渡船があった。
1800(寛政12)年、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛が択捉に場所を開設し、漁場17箇所を開く。幕府が蝦夷を直轄し、津軽、南部に命じ約500人を蝦夷に派遣させ、要所警備を行う。
1801(享和元)年、エゾ地御用掛松平信濃守忠明一行、西エゾ地巡検途上に斜里に立ち寄る。シラヌカ駐在の八王子同心が、シベチャ〜シャリ間の山道を開鑿する。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。津軽藩兵100名斜里警備のため派遺された最上徳内が指揮をとる。 宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、会津、仙台藩の兵が蝦夷地に派遣される。柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。このときシャリ附近にアイヌの家が60〜70戸あり、トーフツに小休所と渡船あり、フレトイ小休所、トコタン小休所ありと記す。
1857(安政4)年、堀田備中守の家臣須藤秀之助外2名が村(現・清里町)を探検、従者・仙台藩の玉虫左太夫「入北記」にアバシリ・シャリ地方の役アイヌ人名など記す。これが文献に現れた和人最初の足跡といわれている。
1858(安政5)年、斜里廻りで太平洋岸の厚岸に行き、再度知床半島を舟で周廻して、斜里から陸路網走に入る。旧暦5月現在の道東の根室を出発し、案内のアイヌ数名と海岸沿いに舟で北上、シュンベツ(現・尾岱沼)、ノツケ(現・野付半島)、シベツ(現、標津町)、そして知床半島のラウシ(現・羅臼町)を経て、半島沿岸を調査し半島の突先を廻り、斜里町に至る「知床日誌」1863(文久3)年を著した。
1859(安政6)年、会津藩に属し、斜里に役所を置く。
1862(文久2)年、シャリ・モンベツにおける藤野家の場所請負を罷免される。アバシリは幕領のため存続となる。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道とし、11国86郡を定め、北見国斜里郡と称する様になり9月北見国を分領(網走・斜里郡は名古屋藩領、網尻・常呂郡は広島藩領、宗谷・枝幸・礼文は金沢藩領) する。10月場所請負人の名目を廃し漁場持と改める。
1870(明治3)年、斜里郡を名古屋藩より引上げ開拓使の直轄とする。
1871(明治4)年、4月札幌に開拓使庁をおき、函館・根室の開拓出張所を出張開拓使庁と改める。 7月開拓判官松本十郎が、はじめて北見国内を巡検する。 12月藤野伊兵衛、北見国東部及び根室国標津・目梨両郡の漁場持を命じられる。
1872(明治5)年、斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。4月戸長を置く。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマン知床半島鉱物資源踏査を行なう。
1875(明治8)年、管内の村名を漢字に改める。村名が漢字のシャリを斜里村・シュマトカリを朱円村・オンネベツを遠音別村・アオシマナイを蒼瑁村・ヤムベツを止別村か改称する。北見土人に対しオムシャ全廃する。
1879(明治12)年、郡区町村編成法により斜里郡斜里村外4ヶ村、蒼瑁村、止別村、朱円村、遠音別村の行政区確定。網走村に郡役所設置決定する。
1880(明治13)年、北見国に網走郡役所が設けられる。知床硫黄山大爆発する。
1885(明治18)年、越川山道を開鑿、根室と斜里を結ぶ。濤沸駅逓設置する。塚本命助が濤沸川渡守を申付けられる。
1886(明治19)年、蒼瑁村にフレトイ駅逓設置し、塚本命助を取扱人とする。中間休泊所を止別河口(浜止別)におく。止別川、濤沸湖に渡船をおく。
1888(明治21)年、斜里駅逓官設となる。
1890(明治23)年、網走〜釧路を結ぶ釧路道路が開削される。
1891(明治24)年、小清水駅逓を設置し、宮城県人半沢真吉を取扱人とする。野川駅逓を設置し水本栄助が取扱人となる。
1892(明治25)年、蒼瑁(アヲシマイ)駅逓所がフレトイ駅逓所と改称し、官設となる。
1894(明治27)年、小清水駅逓を新潟県人竹中安之助が引き継ぐ。
1901(明治34)年、山田慎牧場を経営するに当り、管理人更科鉄太郎外4名来住し、農家定住の基となる。
1902(明治35)年、山田牧場に岩田朔太郎外19名来住する。
1905(明治38)年、水稲種子を移入し、山田牧場附近で更科鉄太郎が試作する。
1909(明治42)年、小清水神社創建9月鎮座祭、本祭行われる。
1915(大正4)年、2級町村制を施行。斜里、朱円、遠音別、蒼瑁、止別5ヶ村合併して斜里村となる。
1919(大正8)年、旧斜里村から止別、蒼瑁を分村し、小清水村となる。役場を市街六区の中田儀十の建物にて執務開始する。11月役場新築落成する。
1920(大正9)年、小清水〜上斜里、小清水〜浦士別への道路開削される。
1921(大正10)年、神威佐々木源三郎、砥草原稲川寅吉、浦士別牛渡吉之助が水稲栽培を始める。小清水〜21線を開削し、古樋駅逓〜網走に至る道路が開設される。
1924(大正13)年、11月網走本線(現・釧網本線)、網走〜北浜間延伸開業し、鱒浦、藻琴、北浜の駅を設置。
1925(大正14)年、小清水神社に社殿を増築、天御中主神の御神霊を合祀する。11月釧網線、北浜〜斜里間延伸開業し、浜小清水、止別、斜里の駅を設置。
1929(昭和4)年、古樋駅逓所が廃駅となる。
1930(昭和5)年、小清水市街から止別駅まで北見鉄道輸送開始。
1938(昭和13)年、小清水集乳所設置される。
1939(昭和14)年、8月北見鉄道路線廃止となる。
1943(昭和18)年、神威、札鶴、上札鶴、東萱野を分割し上斜里村を分村する。蒼瑁、止別地区の一部を軍基地に解放する。
1946(昭和21)年、樺太、満州等から145戸の引揚者、復員者が入植する。
1951(昭和26)年、字名改正し、浜小清水、美和、神浦、上徳、共和、倉栄、北斗、止別、旭、東野、萱野、中里、小清水、泉、水上となる。
1952(昭和27)年、古樋駅を浜小清水駅に改称する。
1953(昭和28)年、町制施行し小清水町となる。
1962(昭和37)年、小清水町役場新築落成する。
1966(昭和41)年、簡易水道工事完了する。
1980(昭和55)年、浜小清水前浜キャンプ場設置。
1981(昭和56)年、温泉保養センター完成。
1983(昭和58)年、開基百年記念公園完成。
1989(平成元)年、フレトイ展望台完成。
1993(平成5)年、小清水温泉ふれあいセンター完成。
1995(平成7)年、ハイランド小清水725完成。
1998(平成10)年、ゆりの郷こしみずリリーパークオープン。
1999(平成11)年、小清水原生花園インフォメーションセンターHana完成。
2000(平成12)年、道の駅はなやか小清水開駅する。
2004(平成16)年、小清水原生花園が北海道遺産に選定される。
2005(平成17)年、11月第9回ラムサール条約締結国会議で濤沸湖がラムサール登録湿地に正式決定。
斜里・小清水町史・小清水を拓いた人々参考

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