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ウトロ漁業発祥の地

住所 斜里郡斜里町ウトロ東172番地(北こぶし知床 ホテル&リゾート敷地内)

NPO法人 知床斜里町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
ウトロの由来は、漢字表記は「宇登呂」、アイヌ語の「ウトゥルチクシ」(その間を我々が通行する所)という意味で、岩と岩の間を通ったことからこの地となった。
国道334号線沿い、ウトロ市街地の北こぶし知床 ホテル&リゾート敷地内のエントランス左側に標柱が立つ。

第二次世界大戦後に漁港の造成工事が大々的に進めらたため、古い建物などは撤去され、昔の面影が全くなくなった。ウトロ漁業の歴史を永く後世に伝えるためにウトロ漁業協同組合が1988(昭和63)年9月に建てた標柱である。

案内板
ウトロ漁業発祥の地の由来
ウトロ近海は古来、サケ・マスなどの水産資源豊かな海域として知られ、
ここに漁場が開かれたのは遠く天保年間(一八三〇〜四四)シャリ場所
請負人であった藤野屋が当地前浜に番屋などの漁業施設を設けたこ
とに始まっております。
その頃の漁業は、春のニシン漁にはじまり、夏のマス漁とつづき秋のサ
ケ漁をもって終るいわゆる三漁業が中心で、産物は北前船により遠く
本州方面へ移出されていました。
幕末の北方探検家 松浦武四郎の「戊牛志礼登古誌」によると彼は安
政五年(一八五八)知床岬からの帰路ウトロ番屋に一泊したことが記さ
れており、当時の番屋の規模は梁四間・桁七間でほかに倉庫が二棟と附
近には弁天社のあったことなどが書かれています。
明治に入り場所請負制度は廃止され、漁場は一般に開放されましたが、
大正十一年に至りこの藤野番屋は網走の東出漁業部(東出重蔵)へ譲渡
され、以来東出番屋と呼ばれ、昭和五十五年頃まで遺されていました。
しかし、第二次世界大戦後は漁港の造成工事が大々的に進められたことか
ら、当時この前浜一帯に散在していた古い施設は次々と姿を消し、今日
では当時を偲ぶ遺構は全く皆無となりました。
よってここに記念の標柱を建てこの歴史を永く後世に伝えるものであ
ります。
昭和六十三年九月三十日
松浦武四郎没後百年記念協賛会
ウトロ漁業協同組合


宇登呂に和人が初めて入ったのは又十藤野が(またじゅうは一文字で又と十を上下に重ねた文字)最初と言われている。シャリ運上屋の創設は1790(寛政2)年斜里場所は、宗谷場所から分かれて網走市と常呂町の境から東側を範囲として設けられた。 斜里場所が開かれ、斜里の地域が開発されるようになり、やがて交易をする商人があらわれ、斜里場所に「運上屋」と呼ばれる事務所を開いた。現在はシャリ運上屋(会所)跡が残されている。
その後、1808(文化5)年、柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。ここウトロにも番屋を設けてアイヌの人々にニシン・サケ・マスなどの漁法を指導した(藤野喜兵衛は、1782(天明2)年12歳の時松前に来て、1806(文化3)年に余市場所の漁場請負をはじめる。1817(文化14)年には、国後島の請負もしている)。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。1855(安政2)年、宗谷場所、再び天領となる。
1858(安政5)年旧暦5月、松浦武四郎は現在の道東の根室を出発し、案内のアイヌ数名と海岸沿いに舟で北上、シュンベツ(現・尾岱沼)、ノツケ(現・野付半島)、シベツ(現、標津町)、そして知床半島のラウシ(現・羅臼町)を経て、半島沿岸を調査し半島の突先を廻り、斜里町に至る「知床日誌」1863(文久3)年を著した。宇登呂付近の状況が書かれている。「ウトルチクシ(宇登呂)にはマス・鰊番屋、板蔵がある。この辺りの岩の峨々突々たる有様は、すこぶる面白くその上にそびえるのをペレケ岳という。ポロベツ(幌別)幌別川の川幅は五〜六間で、ここには鰊、鱒漁の番屋や板蔵がある。オシュンクシエト(オシンコシンの滝付近)ここにも鰊、鱒の漁舎がある。オンネベツ(遠音別)オンネベツの川幅は五〜六間で、人家は6軒あり、川は急流である。水源は右はオンネ岳、左からペレケ岳でここから根室領のトシベツへ出る。」とあり、帰り道にウトロ番屋に一泊したことが記されている。
1860(万延元)年、奥羽六藩に北海道を分領し与え、斜里場所、標津場所、紋別場所は会津藩領地となり、これまでの場所請負制は一切会津藩のとなったものの、1866(慶応2)年まで藤野家は会津藩の用達をしていたようである。1866(慶応2)年頃から、山田寿兵衛が会津藩から請負うが、政権が幕府から明治政府に変わり、斜里・紋別・標津の運上金は明治政府の箱館裁判所に納入したようである。1869(明治2)年には場所という制度がなくなり、それにともなって運上屋もなくなった。しかし辺境の地にあったウトロなどは一般漁業者の入植などは期待できないため、藤野家には漁場持ちという資格を与えて継続させたが1876(明治9)年には廃止となり誰でも自由に漁を出来るようになった。

1872(明治5)年には、斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。ウトロ地区は斜里郡オンネベツ(遠音別)と呼ばれた。村と言っても当時はアイヌばかりが住む所で、土地の境界も漠然としたものだった。1875(明治8)年には村名が漢字の斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村となる。
1893(明治26)年には藤野以外の漁業者の進出も見られるようになった。小樽の人藤山要吉氏が遠音別、ペレケ(ウトロ市街)、オシンコシン、ツブランケナイ、フンベオマベツなどにニシン、鱒、鮭の建網漁業の許可を取り、活気づきはじめたが、いつごろまで藤山の漁場が続いたか不明である。その後久保田友吉、田中栄之助、岩田政蔵、坂井文吉、水野仁蔵、宮本伊太郎、川島新助などが遠音別で漁業許可を受けている。
ちなみにこのころの漁獲物は、サケ、マス、はほとんど塩蔵し、ニシンはしぼり粕に製造されたが、この頃の漁夫たちは季節労働であり、漁場が終われば越年する者は居なかった。

宇登呂湾の沿岸地域には、古くから又十藤野の番屋や漁舎が設けられ、その近くにはアイヌの村落があった。1910(明治43)年頃に高台の密林地帯だった場所の約500町歩(500ha)を農業用地として国有未開地に編入され、チャシコツ原野殖民地として一般に開放されることになった。しかし当時宇登呂へ行くには、網走・斜里から船で行くか、斜里〜宇登呂間の海岸道を歩くかのどちらかだったが、断崖の続く道が難渋を極め、大波の危険に晒されながら、海岸に突き出た崖を登ったり岩角を伝わりながら一日かかりで歩いた。冬には流氷に閉ざされ陸の孤島となった。
1912(大正元)年にチャシコツ原野8線地区に福島県人の関根久雄を団体長とした30戸の移住が始まりであるが、実際入植したのは関根久雄と一族、瀬古真二郎の6戸で、残りの人は網走・斜里までは来たようだがほとんどが名義だけで実際には現地に入らず退散してしまった。
1913(大正2)年には、宮城県人の川村嘉蔵が7線地区に、8線地区には群馬県人の小池猪之助が入植し、1917(大正6)年には佐藤吉助を団体長とする秋田団体の五戸も8線地区に入植した。
しかしこれらの入植者には、入植前に楽天地と聞かされていたこともあって、目の当たりにする密林を見て落胆し、到着早々引き上げるものも少なくなかった。
1919(大正8)年には、関根久雄氏は農業の傍ら岩尾別駅逓所(後の宇登呂駅逓)を開業し、高台の傾斜地には駅逓馬の放牧地があり、常時二頭の官馬がいた。 関根氏は区長なども務めた。1921(大正10)年1月まで経営したが駅逓所を弟の久四郎に譲り退去した。1924(大正13)年に漁業に失敗し、翌年に須田猪三郎にこれを譲り止別に引っ越しした。
須田氏は福島県人で、1947(昭和22)年3月まで勤め斜里町最後の駅逓としての役割を果たしたのである。須田氏は駅逓業務の傍ら部落の区長、森林防火組合長、初代郵便局長、村議会委員などの公職を歴任した。駅逓廃止後は、駅逓用土地一切を無償貸与され、施設を拡充し須田旅館を経営した。


1635(寛永12)年、松前家臣村上掃部左衛門広儀、北海道(蝦夷)内を巡行し斜里に来る。
1670(寛文10)年、斜里の地名が記録に現れる。
1685(貞享2)年、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1775(安永4)年、三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を設けアイヌに漁労を教える。
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1785(天明5)年、最上徳内が、金山を開く目的で蝦夷地を調査する。
1789(寛政元)年、飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝兵衛が請け負う。飛騨屋の手船が斜里にきて、ウラシペツの大酋長マウタラケ、大豪族チョウサマから、場所開設の要請を受ける。
1790(寛政2)年、村山伝兵衛、斜里場所運上屋差配人となる。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが根室に来航。最上徳内が樺太を調査する。
1798(寛政10)年、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。幕府が松平忠明を蝦夷地御取締御用掛となる。
1800(寛政12)年、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛が択捉に場所を開設し、漁場17箇所を開く。幕府が蝦夷を直轄し、津軽、南部に命じ約500人を蝦夷に派遣させ、要所警備を行う。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。津軽藩兵100名斜里警備のため派遺された最上徳内が指揮をとる。 宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、会津、仙台藩の兵が蝦夷地に派遣される。柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。
1858(安政5)年、斜里廻りで太平洋岸の厚岸に行き、再度知床半島を舟で周廻して、斜里から陸路網走に入る。1858(安政5)年旧暦5月、現在の道東の根室を出発し、案内のアイヌ数名と海岸沿いに舟で北上、シュンベツ(現・尾岱沼)、ノツケ(現・野付半島)、シベツ(現、標津町)、そして知床半島のラウシ(現・羅臼町)を経て、半島沿岸を調査し半島の突先を廻り、斜里町に至る「知床日誌」1863(文久3)年を著した。

1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、北見国斜里郡となる。
1872(明治5)年、斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマン知床半島鉱物資源踏査を行なう。
1875(明治8)年、斜里・網走・紋別・枝幸・宗谷に郵便局が設けられる。村名が漢字の斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村となる。
1877(明治10)年、斜里村役場設置。鈴木養太斜里赤上に入地、農業を始める。
1879(明治12)年、斜里村ほか四ヶ村戸長役場を設ける。
1880(明治13)年、北見国に網走郡役所が設けられる。知床硫黄山大爆発する。
1885(明治18)年、越川山道を開鑿、根室と斜里を結ぶ。
1888(明治21)年、斜里駅逓官設となる。
1892(明治25)年、藤野家、斜里川の両端をはじめ目ぼしい漁場を経営する。
1894(明治27)年、官設越川駅逓所開設。
1896(明治29)年、鈴木養太赤上で水稲札幌赤毛種を試作する。
1901(明治34)年、斜里にはじめて定期船が寄港。
1913(大正2)年、三井農場、内地府県から移民を入れて未開地3000町歩の開墾に着手。
1915(大正4)年、二級町村制を施行。斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁の5ヶ村を合併して斜里村と改称し各村を大字と改める。
1917(大正6)年、斜里市街地に電燈が灯る。
1919(大正8)年、小清水村(現・小清水町)を分村。
1925(大正14)年、釧網線 (現JR釧網本線) 網走〜斜里間開通。
1929(昭和4)年、釧網線(現・釧網本線)斜里〜札鶴間開通する。
1931(昭和6)年、釧網線斜里〜釧路間全通する。
1932(昭和7)年、殖民軌道斜里〜チプドマリ間開通。
1938(昭和13)年、根北線斜里・越川間工事竣工一部軌条敷設。
1939(昭和14)年、町制施行し斜里町となる。
1940(昭和15)年、根北線工事中止。
1943(昭和18)年、上斜里村(現・清里町)を分村。ウトロ幌別間道路完成。
1949(昭和24)年、ウトロ漁港着工。
1957(昭和32)年、根北線斜里〜越川間開通。
1959(昭和34)年、斜里漁港起工する。
1963(昭和38)年、開発道路ウトロ・ラウス道路工事着工。知床岬灯台完成。
1968(昭和43)年、総合庁舎完成。斜里町90年・町制30年記念祭施行。
1970(昭和45)年、国鉄根北線廃止。しれとこ資料館、町立図書館オープン。
1973(昭和48)年、津軽藩士殉難慰霊碑建立。ウトロ香川台地に温泉湧出。
1975(昭和50)年、道道知床公園線、国道334号線に昇格。
1977(昭和52)年、しれとこ国立公園内100平方メートル運動スタート、全国に大きな反響を呼ぶ。
1978(昭和53)年、斜里町100年・町制40年記念式典挙行。
1980(昭和55)年、国道334号線知床横断道路開通。しれとこ100平方メートル運動第1次目標(120へクタール)達成。斜里岳道立自然公園に指定(15番目)。第1回しれとこ産業まつり開催。
1982(昭和57)年、知床100平方メートル運動5周年記念式典。あわせてシンポジウムを開催。日本のナショナル・トラスト運動に大きな影響を及ぼす。
1983(昭和58)年、第1回しれとこ斜里ねぷた運行。通産省による石油資源開発探査作業を斜里沖で実施。
1984(昭和59)年、国立公園指定20周年。知床100平方メートル運動で環境保全功労団体として環境庁長官表彰を受ける。
1985(昭和60)年、知床100平方メートル運動が緑化推進運動功労として内閣総理大臣表彰受ける。
1986(昭和61)年、知床100平方メートル運動ハウス着工。
1988(昭和63)年、知床森林センターが開庁。知床自然センターオープン。
1989(平成元)年、ウトロ地区字名改正。
1990(平成2)年、斜里市街地町名地番改正。林野庁が知床国立公園内を森林生態系保護地域に指定。
1991(平成3)年、ウトロペレケ新港一部開港。
1994(平成6)年、町鳥・町木制定。知床国立公園指定30周年記念式典開催。
1995(平成7)年、知床100平方メートル運動が(財)石川記念財団の山本有三記念「郷土文化賞」を受賞。
1996(平成8)年、第5回環境自治体会議が斜里(ウトロ)で開催。
1997(平成9)年、しれとこ100平方メートル運動目標額達成。100平方メートル運動の森トラストを開始。
1998(平成10)年、JR釧網本線、斜里駅を知床斜里駅に改称する。
1999(平成11)年、知床国立公園カムイワッカ地区で自動車通行規制始まる。
2001(平成13)年、知床五湖駐車場有料化。
2004(平成16)年、知床がユネスコ世界自然遺産に推薦される。
2005(平成17)年、知床がユネスコ世界自然遺産に登録される。
2007(平成19)年、道の駅うとろ・シリエトク、道の駅しゃりがオープン。JR知床斜里駅リニューアル。
斜里町史参考

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