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清里町発祥の地碑

住所 斜里郡清里町神威787

清里町

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
清里町の由来は、清らかな里の意。小清水村と斜里町から分村した経緯を将来に残すため「清」は小清水の清、「里」は斜里の里と、両町村から一文字ずつもらい名付けられた。
神威の由来は、かつて「カムイ・ノミ・ウシ・イ・ビラ」(いつでもそこで神に祈りを捧げるところ)といい、斜里岳に向かって祈りを捧げた神聖な場所であった。松浦武四郎の「西蝦夷日誌」には、「名義神酒を呑処の平と云り。前に土人等舎利岳の神え手向のエナヲ多し」とあり、現・斜里郡清里町神威(かもい)付近だという。1914(大正3)年に当時の斜里戸長和知金次郎氏がアイヌが名付けた「カムイノミユシ」の地名にちなんで「神威」とした。1955(昭和30)年町制が施行され、町名を清里町と改称する。このとき区域及び字名変更も併せて行われ、上斜里原野と止別原野は字神威となった。
道道1115号摩周湖斜里線沿いにあり道道857号江南清里停車場線の交差点から札弦方向に約5.5km右手の集会所敷地内。道の駅 パパスランドさっつるから清里町市街地方向へ約1.7km左手。

1857(安政4)年堀田備中守の家臣須藤秀之助外2名が村(現・清里町)を探検、これが文献に現れた和人最初の足跡といわれている。窪田子蔵著の協和私役には「カムイノミウシビラニ至リ宿ス。斜里ヨリ五里一丁番屋アリ小狭ナリ、旅人ノ止宿に供ス」と記されている。番屋は斜里川と札弦川の合流地点から6kmほど隔たった付近にあったものと推測される。その後塚本伊勢太氏が駅逓管理人を退任し、神威10線21号に転住入地したのが清里町の和人定住のはじまりとされている。

清里町発祥の地
明治三十年(西暦一八九七)年)
岩手県人塚本伊勢太氏
の手により、この地に初めて
開拓の鍬がおろされた。
清里町開基八十年を記
念しこの碑を建立す
る。
昭和五十三年十一月十五日
清里町神威地区住民一同

神威地区は、文政年間頃からアイヌが10戸ほど神威9線20号の斜里川流域に住んでいたのが確認されている。野川駅逓管理人であった二代目の塚本伊勢太氏(塚本命助の弟)が1897(明治30)年に神威10線21号に転住入地したのが清里町の和人定住のはじまりとされている。
1907(明治40)年には、兵庫県人の前中庄太郎が10線20号に入地し、その後11戸ほどが相次いで入地した。1913(大正2)年には太田惣助が12線20号に太田農場を開設し、塚田春松を管理人として10戸が入地した。1914(大正3)年には岩手県人の佐々木春松を団長とする7戸の南部団体が入地する。1915(大正4)年には黒島農場が8線に開設される。1916(大正5)年には泉井辰治他12戸の越後団体が入植する。1917(大正6)年には増平俊雄を団長とする7戸の福島団体が入地する。これで開発の基礎が整うものの斜里まで出て物資を調達するのは難儀だった。

教育に熱心だった塚本氏は、1908(明治41)年8線にウエンベツ教授所を開設する。岩崎弥惣田を教師に、17名の児童がいた。これが上斜里小学校の前身となった。1910(明治43)年に上斜里小学校が開設され、児童も上斜里小学校に通うことになったため廃校となる。しかし、通学路での熊の出没が甚だしく危険なこともあり、塚本氏と前中庄太郎氏が発起人となり、学校敷地1町ほどを塚本氏が寄付し、前中氏が備品などを拠出し、神威教授所を開設する。1919(大正8)年に神威小学校に昇格するまで運営は続けられた(後の光岳小学校、2019(平成31)年3月に閉校)。
1913(大正2)年、塚本氏と前中氏が発起人となり、8線19号に八幡神社を建立する。同じく8線19号には上斜里駅逓所もあった。
その後、この地でも水稲の栽培を試みて、土功組合を設立するが、凶作により廃止となる。苦労して作った水田も畑地に戻したいきさつがある。
大正年間に入植者が続々と入地し、1929(昭和4)年11月釧網線の斜里〜札鶴間が延伸開業し、猿間川、上斜里、札鶴の駅を設置する。これにより移住者が増え、1943(昭和18)年斜里町及び小清水村一部を分かち上斜里村(現・清里町)が誕生し開村となる。
塚本伊勢太は、1864(元治元)年に岩手県茂一村( 現・岩手県宮古市茂市付近)に生まれ、1880(明治13)年に渡道。根室に定住し 1891(明治24)年に野川駅逓所に定住。
1897(明治30)年に取扱人を辞め、神威9線19号(神威10線21号)に転住入地し開拓に従事し、清里町の開拓入地者の指導と協力を惜しまず、清里町開拓に寄与し、神威小学校建設にも協力した。1923(大正12)年に転住したようだが清里町史・小清水町史にも詳細は載っていなかった。


1635(寛永12)年、松前家臣村上掃部左衛門広儀、北海道(蝦夷)内を巡行し斜里に来る。
1670(寛文10)年、斜里の地名が記録に現れる。
1685(貞享2)年、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1775(安永4)年、三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を設けアイヌに漁労を教える。
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1785(天明5)年、最上徳内が、金山を開く目的で蝦夷地を調査する。
1789(寛政元)年、飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝兵衛が請け負う。飛騨屋の手船が斜里にきて、ウラシペツの大酋長マウタラケ、大豪族チョウサマから、場所開設の要請を受ける。
1790(寛政2)年、村山伝兵衛、斜里場所運上屋差配人となる。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマン(アダム・ラックスマン)が根室に来航。最上徳内が樺太を調査する。
1798(寛政10)年、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。幕府が松平忠明を蝦夷地御取締御用掛となる。
1800(寛政12)年、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛が択捉に場所を開設し、漁場17箇所を開く。幕府が蝦夷を直轄し、津軽、南部に命じ約500人を蝦夷に派遣させ、要所警備を行う。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。津軽藩兵100名斜里警備のため派遺された最上徳内が指揮をとる。 宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、会津、仙台藩の兵が蝦夷地に派遣される。柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。
1857(安政4)年、堀田備中守の家臣須藤秀之助外2名が村(現・清里町)を探検、これが文献に現れた和人最初の足跡といわれている。
1859(安政6)年、会津藩に属し、斜里に役所を置く。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、北見国斜里郡となる。
1872(明治5)年、斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマン知床半島鉱物資源踏査を行なう。
1875(明治8)年、斜里・網走・紋別・枝幸・宗谷に郵便局が設けられる。村名が漢字の斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村となる。
1877(明治10)年、斜里村役場設置。鈴木養太斜里赤上に入地、農業を始める。
1879(明治12)年、斜里村ほか四ヶ村戸長役場を設ける。
1880(明治13)年、北見国に網走郡役所が設けられる。知床硫黄山大爆発する。
1882(明治15)年、根室県に属す。
1885(明治18)年、越川山道を開鑿、根室と斜里を結ぶ。
1886(明治19)年、根室県廃止により、北海道庁の管轄となる。
1888(明治21)年、斜里駅逓官設となる。
1890(明治23)年、網走〜釧路を結ぶ釧路道路が開削される。
1891(明治24)年、塚本命助の実弟である、岩手県人の塚本伊勢太氏が野川駅逓の管理人として定住。
1892(明治25)年、藤野家、斜里川の両端をはじめ目ぼしい漁場を経営する。
1894(明治27)年、官設越川駅逓所開設。
1896(明治29)年、鈴木養太赤上で水稲札幌赤毛種を試作する。
1897(明治30)年、神威10線21号に塚本氏転住入地し、現・清里町における和人初の移住となる。
1901(明治34)年、斜里にはじめて定期船が寄港。
1909(明治42)年、斜里・川湯間の道路開通。斜里原野7線19号に上斜里駅逓所が設置される。
1913(大正2)年、三井農場、内地府県から移民を入れて未開地3000町歩の開墾に着手。
1915(大正4)年、二級町村制を施行。斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁の5ヶ村を合併して斜里村と改称し各村を大字と改める。
1917(大正6)年、斜里市街地に電燈が灯る。
1919(大正8)年、小清水村(現・小清水町)を分村。
1925(大正14)年、釧網線 (現・JR釧網本線) 網走〜斜里間開通。
1928(昭和3)年、上斜里市街に電灯がついた。
1929(昭和4)年、釧網線(現・釧網本線)斜里〜札鶴間開通する。
1941(昭和16)年、小清水・札鶴間にバス定期運行開始。
1943(昭和18)年、斜里町及び小清水村一部を分かち上斜里村(現・清里町)が誕生し開村となる。
1950(昭和25)年、上斜里村観光協会設立。
1951(昭和26)年、斜里〜上札鶴間のバス定期運行開始。
1955(昭和30)年、町制が施行され、町名を清里町と改称する。
1963(昭和38)年、清里・中標津間開発道路工事着工。開基65周年・開町20周年記念式典を挙行。
1965(昭和40)年、裏摩周林道竣工。清里〜中標津間開発道路開通。
1968(昭和43)年、開基70周年開町25周年記念式典を挙行。
1973(昭和48)年、役場庁舎、町営野球場、簡易水道施設完成。
1977(昭和52)年、裏摩周地区阿寒国立公園に指定される。
1980(昭和55)年、斜里岳道立自然公園に指定される。第1回「ふるさと産業まつり」開催。
1983(昭和58)年、開基85周年開町40周年式典挙行。記念碑建立する。
1990(平成2)年、裏摩周展望台にログハウス建設する。
1991(平成3)年、パパスランド落成する。
1998(平成10)年、斜里岳山小屋「清岳荘」焼失する。
1999(平成11)年、江南オートキャンプ場オープン。
2003(平成15)年、「日本一きれいな河川・斜里川」 環境省が発表した2003年度の水質測定で、斜里川の上流・中流が日本一きれいな河川として評価された。
2004(平成16)年、斜里岳山小屋完成。
2005(平成17)年、清里町制施行・町名改称50周年記念式典を挙行。
2007(平成19)年、「パパスランドさっつる」が道内101番目の道の駅に登録される。
2010(平成22)年、第1回きよさとにぎわいまつり開催。
清里町史・斜里町史参考

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