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ナラワラ

住所 野付郡別海町野付

別海町観光協会

野付の由来は、アイヌ語の「ノッケウ」(あご)から。昔ここへ大きな鯨が流れ寄り、その下顎がこの埼(さき)になったという説と砂嘴の形状から名づけられたという説がある。
別海町の由来は、アイヌ語の「ベッ・カイェ」(川の折れ曲がっているところ)から。元禄年間には「べけるる」、安政年間には、「ヘッカイ」と呼ばれ、1872(明治5)年に別海となった。
国道244号線から道道950号野付風蓮公園線に入り約9.7kmほど右手に駐車帯がある。

オホーツク海に突出する野付半島は、標津町から北の知床半島部から根室海峡の潮流によって選ばれた砂礫(されき)が長い年月にわたって堆積したもので標高は3mほど。延長約26kmと日本最大の砂嘴(さし)である。砂礫はほとんどが安山岩質であり、供給地である地域の地質と一致するという。
ちなみに野付半島で一番古い地形は、エドチ岬、ポンオンニクリあたりで、その後トドワラなどの中間部の砂嘴ができた。最も新しく形成されたのは野付崎付近である。
オンニクルの森では、擦文時代と思われる竪穴住居もあり、古くから先人達が暮らしていたことがわかる。

1923(大正12)年には、大町桂月が訪れ野付湾に映える半島の森林美と海岸美を絶賛し「北海の天の橋立て」と名付けた。
半島には、原生花園、トドマツ、エゾマツ、ミズナラなどの原生林が広がり、地盤沈下で海水に浸食されて塩害で立ち枯れたトドマツの森が「トドワラ」、ミズナラの森が立ち枯れた「ナラワラ」と呼ばれる荒涼とした独特の景観が広がり、別海十景のひとつにもなっている。
トドワラの木々は、ほとんど樹齢100年前後のトドマツである。いまも侵食が進んでおり、風化のために倒木も多くいずれは湿原と化すと予想されているようである。
ナラワラは、トドワラに比べれば腐朽が進んでおらず、枯木が原形をとどめている。ナラワラは樹齢100年以上のミズナラの森がこのように立ち枯れして白くなった場所の事で、他にもダケカンバ・ナナカマド・エゾイタヤなどが生えているがミズナラが大半である。何百本という木々が立ち枯れし荒涼とした景観を臨むことができる。このパーキングは東屋もトイレもなく木道等の整備もされていないが、ここは野鳥の楽園でもあり、丹頂鶴も頻繁に見ることが出来るポイントでもある。
野付半島と野付湾は、トドワラやナラワラのような奇観や原生花園などの自然が残っており、 その豊かさからラムサール条約登録湿地となっており、野付風蓮道立自然公園に含まれ、北海道遺産に登録されている。
渡りの時期には約6万羽の水鳥が飛来し、タンチョウ、オジロワシ、アカアシシギの繁殖地にもなっている。


冬のナラワラ。撮影日は2015(平成27)年2月4日です。


別海十景とは、別海町の名所、景勝地を町内外に広く宣伝しようと町民から公募し、観光協会からの候補地の中から、自然景観を重視し容易に観賞できる適地を、1989(平成元)年に指定したもので、野付半島、野付湾、野付半島原生花園、トドワラ、白鳥台、風蓮湖、茨散沼、ヤウシュベツ川河口、町立小野沼公園、新酪農村展望台である。

野付半島が文献に現れるのは、1670(寛文10)年の記録で、その数十年前の話として「みむろよりのしけ着・・・是よりらっこ島くなしりへ渡り申候」とはじめてのしけ(のつけ)の地名が現れるそうだ。
このことから野付は国後島に渡る要所であったことがわかる。
さらに、幕府は東蝦夷地を直轄領とし北辺の警備と場所請負制により和人の進出が増え、交易と漁場を開き、山道を開削し、1799(寛政11)年にはノツケに他の10箇所とともに旅宿所、ノツケ通行屋が設けられ国後島へ渡る要所となったのである。
この頃の航路は、風蓮湖のアツウシベツ止宿所(風蓮湖畔)から西別〜野付〜国後の航路と根室へ至る航路があった。
陸路は、風蓮越えといって根室あるいは西別から風蓮湖を通りアツウシベツへ、ここから風蓮川を遡り、厚岸へ至る。
また西別から陸路走古丹に至る道もあったようだ。クスリ越えは標津川を遡り標茶に至り釧路へ出るのと標菜から斜里へ行く道もあった。幕府要人の巡察や幕府御用船の往来が増えたこともあり東蝦夷地は活気を呈していき、根室勤番所では普請役が越冬するようになり冬でも人の往来が行われるようになった。
根室地方の漁業は、飛騨屋久兵衛が罷免され、村山伝兵衛がアイヌ保護と正しい取引、漁業の奨励を行ったことで景気が上向き、運上屋を会所と改め、魚網を与え漁法を教え、漁場の開発を行いアイヌに漁撈を奨励した。このことにより山間のアイヌまで漁業に従事し、会所の周りには倉庫や番屋などが建てられ、次々と漁場が開かれ、西別や野付にも漁会所、坂蔵や出張番屋などの建物が建った。
野付の外海は鰊の漁場で、春になると根室場所の各番屋から人々が集まってきたようで、鰊漁は1万石も獲れたこともあったようだが次第に不漁となったようだ。
1830(天保元)年加賀伝蔵が野付(現・野付郡別海町野付半島の先端)に住み通辞役となる。この頃野付では農作物があまり採れなかったが、茶右衛門(アイヌ)が畑を耕すことを勧め、土を他所から持ってきて番屋裏手にてアイヌ達と共に開墾し野菜などを栽培する。(後の加賀文書として多くの文献を残した)他にもオン子ニクル・ホンニクルで森林内を開墾し畑作をする。1859(安政6)年11月シベツ(標津)が会津藩領地となる。1860(万延元)年加賀伝蔵が標津場所大通辞となる。1862(文久2)年山寺権次、吉川次郎助が標津場所を経営する。伝蔵氏は標津場所支配人となる。開拓使時代まで標津にて勤務した。
 明治期には交通が発達し、制度も変わったため要津としての役割を終え、漁も減少し漁師も減っていった。1869(明治2)年根室国野付郡に属する。1870(明治3)年1月野付村に44人団体移住する。1872(明治5)年3月ノツケ村となる。1875(明治8)5月村名は全て本字使用となり野付村となる。1877(明治10)年野付郡のアイヌの世帯数は41戸、153人。1882(明治15)年2月廃使置県により野付郡が根室県の直轄下におかれる。1886(明治19)年1月北海道庁を設置。野付郡が根室支庁の管轄となる。1891(明治24)年野付の世帯数は2戸、12人。1898(明治31)年に能登から10戸28人・南部津軽から3戸7人が野付に入植する。18ヶ月の補助で漁業と開墾に従事させるも補助の期間が終わると全員が転出してしまう。春は鰊、秋は鮭と季節的に数百人の出稼ぎ労働者が入るが越年するものは漁舎などの番人だけだったようである。
 1923(大正12)年4月二級町村制の施行により、別海村、平糸村、野付村、根室郡西別村、走古潭村、厚別村の区域をもって別海村が誕生する。別海村の大字となる。根室郡と野付郡の境界を風蓮湖口の中央とする。標津郡と野付郡の境界はトーポロ川とする。
 1934(昭和9)年野付半島一帯の道立公園認定を申請。1953(昭和28)年野付半島に灯台が設置される。1962(昭和37)年12月野付風蓮道立自然公園に指定される。1971(昭和46)年4月町制施行、別海町となる。別海町の大字となる。1972(昭和47)年1月区画整理による新字名番地が施行される。大字が廃止され字野付となる。1981(昭和56)年トドワラ駐車場まで改良舗装化する。


1593(文禄2)年、蠣崎慶広、豊富秀吉に謁見し封彊禁制の朱印の書を得て蝦夷の島主と認められる。
1599(慶長4)年、慶広、蠣崎氏を松前氏に改め徳川家康に謁見する。
1604(慶長9)年、慶広、徳川家康に謁見し黒印の制書を得て、さらに強力な統治権を握る。
1624〜1643(寛永年間)年、松前藩が厚岸場所を開設し、運上屋を設ける。
1644(正保元)年、幕府が松前藩の領地図を基に、北方領土を含む「正保御国絵図」を作成。
1701(元禄14)年、厚岸場所の奥地を分離して、霧多布場所を設ける。
1754(宝暦4)年、和船が初めて納沙布水道をの難所を越え国後場所を開設する。
1774(安永3)年、霧多布外3場所を飛騨屋久兵衛に請負わす。クナシリ酋長人ツキノエ飛弾屋の交易船を妨害する。
1785(天明5)年、最上徳内、幕府の命により国後、択捉島へ向かい調査する。和人の越冬が始まる。
1789(寛政元)年、国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村山伝兵衛に場所請負を命ず。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが西別に上陸し、根室湾に越冬する。
1794(寛政6)年、運上屋をノッカマップより根室へ移し、根室領と称す。
1796(寛政8)年、村山伝兵衛は根室、国後場所を罷免される。
1796(寛政9)年、小林宗九郎、熊野屋忠右衛門、根室場所請負人となる。
1798(寛政10)年、近藤重蔵、最上徳内らが択捉島に渡り「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。
1799(寛政11)年、高田屋嘉兵衛、国後・択捉島間に航路を開く。幕府は東蝦夷地(箱舘から知床までの東海岸)を7ヶ年を限り仮直轄。夏、松平信濃守忠明東蝦夷地を巡視、標津川をさかのぼり釧路川に出る。幕府道路を開削し、野付と厚別に通行屋できる。
1800(寛政12)年、伊能忠敬東蝦夷地を測量して作図する。
1801(享和元)年、幕府、石川忠房奉行に根室、標津、知床を巡視させる。7月江戸よりの探検船凌風丸忠類沖に碇泊。標津で始めて引網を試みる。
1802(享和2)年、幕府、東蝦夷地を本格的に直轄、箱舘に蝦夷奉行所を設置。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。
1810(文化7)年、高田屋嘉兵衛根室場所請負。
1811(文化8)年、6月露将ゴローニンほか7人捕えられて、野付を経て松前へ護送する。
1812(文化9)年、根室場所を材木屋七郎右エ門の請負となる。国後場所は米屋藤兵衛が請け負う。野付水道にて高田屋嘉兵衛露艦に捕えられ、カムチャッカに抑留される。
1815(文化12)年、高田屋金兵衛場所請負となる。
1816(文化13)年、根室場所を高田屋喜兵衛、伊達林右エ門、栖原半助、亀屋武兵衛の共同請負となる。
1818(文政元)年、根室場所を高田屋単独の請負となる。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還。
1831(天保2)年、高田屋金兵衛密貿易の嫌疑により失脚し、藤野喜兵衛場所請負となり、根室8、花咲1、野付14、標津3、目梨5、計31ヶ所の漁場を引き継ぐ。
1839(天保10)年、山田文右衛門場所請負となる。
1843(天保14)年、3月根室国地方に大津波あり。
1845(弘化2)年、白鳥宇右衛門、浜田兵四郎共同請負となる。松浦武四郎始めて東蝦夷地を知床まで探検し知床日誌を著す。
1849(嘉永2)年、根室場所藤野喜兵衛の請負となる。
1855(安政2)年、幕府、松前・江差地方を除く全島を直轄。東蝦夷地は仙台藩の警備地となる。日露通好条約を結び、国境を択捉島とウルップ島の間に決める。
1857(安政4)年、加賀伝蔵が野付半島オンネニクルにて畑作をする。
1859(安政6)年、11月別海は、西別川を境に南を仙台藩、北を会津藩領地とする。
1865(慶応元)年、山田屋寿兵衛漁場請負となる。
1869(明治2)年、8月蝦夷を北海道と名づけ、11国86郡を設定。場所請負人を廃止し漁場持と改称。10月根室開拓使に出張所を設け、根室、野付、花咲三郡を所轄。12月山田屋寿兵衛より漁場を引きあげ、開拓使物産掛の管理下におく。
1870(明治3)年、1月野付村に44人団体移住する。10月別海駅逓を藤野により取扱われる。
1871(明治4)年、諸藩分領が廃止され、開拓使に帰属される。
1872(明治5)年、3月野付郡内に、別海村、平糸村、野付村、茶志骨村、根室郡内に西別村が誕生する。8月別海〜標津間8里47間新道完成。9月根室出張所を改め、根室支庁と称す。本別海の部落形成が始まる。
1873(明治6)年、7月根室支庁出張所を野付におき、目梨、標津、野付三郡を管轄する。
1875(明治8)年、樺太千島交換条約成立。シュムシュ島からウルップ島までの18島の千島列島が日本領となる。5月村名は全て本字使用となる。
1876(明治9)年、9月走古譚村が発足する。
1879(明治12)年、7月別海に戸長役場が設置され、走古譚、西別、平糸、野付、別海の五村を統轄し、別海外4ヶ村戸長役場と称する。
1880(明治13)年、根室支庁管下、根室、厚岸、網走、振別の四郡役所が設けられる。
1881(明治14)年、遠太に駅逓所設置される。
1882(明治15)年、2月廃使置県により野付郡が根室県の直轄下におかれる。
1885(明治18)年、3月春別に駅逓所を開設、取扱人に玉熊重吉となる。
1886(明治19)年、1月北海道庁を設置。野付郡が根室支庁の管轄となる。西別村ヤマカシムイで佐々木忠太郎農耕始める。8月道庁技師内田瀞ら15名によって根室原野の調査を行う。12月野付郡は根室外九郡役所の管轄下となる。
1887(明治20)年、尾岱沼に定住者が出始める。
1890(明治23)年、根室、別海、羅臼間の定期航路が開かれる。
1896(明治29)年、西別原野に畠沢石太郎、渡辺仁太郎が入植する。
1897(明治30)年、11月郡役所が廃止され、根室支庁の管轄となる。
1906(明治39)年、12月和田村管轄の厚別村を編入し別海外5ヶ村戸長役場と改める。
1910(明治43)年、9月奥行臼に駅逓所を設置する。馬3頭与えられた。
1911(明治44)年、西別原野に畑中団体33戸、133人入植する。
1917(大正6)年、4月西別駅逓所を開設し、取扱人を相山虎次郎とする。風蓮原野に斉藤栄六が入植する。
1918(大正7)年、奥行臼駅逓の一部を改築。
1921(大正10)年、10月風蓮原野に駅逓所を開設し、取扱人を早坂善次とする。
1923(大正12)年、1月走古譚村、西別村を野付郡に編入し、茶志骨村が標津郡標津村の一部となる。4月二級町村制の施行により、別海村、平糸村、野付村、根室郡西別村、走古潭村、厚別村の区域をもって別海村が誕生する。根室郡と野付郡の境界を風蓮湖口の中央とする。標津郡と野付郡の境界はトーポロ川とする。
1924(大正13)年、10月中春別に駅逓所設置される。厚床〜西別間に殖民軌道敷設され、西別駅が開設。
1929(昭和4)年、10月西別〜中西別間に軌道敷設される。
1930(昭和5)年、4月中西別駅逓所開設される。5月上春別駅逓所開設される。6月奥行臼駅逓廃止。
1931(昭和6)年、10月西春別駅逓所開設される。西別神社建立される。
1933(昭和8)年、12月厚床〜西別間が標津線として開業し、奥行臼・西別駅を新設する。
1934(昭和9)年、10月村役場を本別海地区から西別地区(現・別海地区)に移転する。10月西別〜中標津間が延伸開業し、春別・中標津駅を新設する。11月殖民軌道上春別線開通。野付半島一帯の道立公園認定を申請。
1936(昭和11)年、10月標茶〜計根別間が標茶線として開業し、西春別・計根別駅を新設し、殖民軌道標茶線廃止となる。殖民軌道中春別線開通。
1937(昭和12)年、10月計根別〜根室標津間が延伸開業し全通する。標茶線に標津線を編入して標津線となる。当幌・上武佐・川北・根室標津駅を新設し、殖民軌道計根別線廃止となる。
1943(昭和18)年、5月西春別飛行場の建設が着手される。
1945(昭和20)年、日本がポツダム宣言を受諾し、終戦。その後ソ連軍が北方四島を不法占拠する。引揚者454戸3302人が開拓移民として入植する。
1947(昭和22)年、5月地方自治法の施行により北海道根室支庁の管轄となる。
1953(昭和28)年、12月中標津・別海が町村境界を決める。野付半島に灯台が設置される。
1955(昭和30)年、4月中標津との境界変更を行い、別海村の一部(現・協和・豊岡)が標津郡中標津町に編入。
1962(昭和37)年、12月野付風蓮道立自然公園に指定される。
1970(昭和45)年、簡易軌道奥行臼〜上風蓮間廃止となる。
1971(昭和46)年、4月町制施行、別海町となる。6月森永乳業別海工場操業開始。町営バスの路線運行開始。
1972(昭和47)年、1月区画整理による新字名番地が施行される。
1976(昭和51)年、12月西別駅を別海駅に改称し、駅舎を新築する。
1978(昭和53)年、10月別海町開基百年記念式典挙行。
1981(昭和56)年、4月文化センター郷土資料館開館する。
1982(昭和57)年、11月奥行臼駅逓が、別海町文化財に指定される。
1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化によりJR北海道に継承。
1989(平成元)年、4月標津線全線廃止し、バス転換となる。
1993(平成5)年、4月別海町郷土資料館オープン。
1994(平成6)年、6月北海道指定文化財に奥行臼駅逓指定される。
2010(平成22)年、4月根室支庁が廃止され、根室振興局の管轄となる。
2011(平成23)年、9月「旧奥行臼駅逓所」の名称で、国の史跡に指定される。
2014(平成26)年、保存・修繕作業に伴い、一時閉鎖。
2018(平成30)年、10月「旧奥行臼駅逓所」が修繕を終える。
別海町百年史別冊付録、別海町三十年史参考

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