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湧水の碑

住所 目梨郡羅臼町岬町

知床羅臼町観光協会

目梨の由来はアイヌ語の「メナシ」(東方または東隅)で、知床と北方領土を含む一帯を指していたようであり、松浦武四郎は「女那志」と記した。
羅臼の由来は、アイヌ語の「ラウシ」(低いところ・獣の骨のあるところ)からで、この一帯はアイヌの狩猟地であった。羅牛、良牛とも古文書にもみられる。
岬町の由来は、建根別(ケンネベツ)、知円別(チエンベツ)、茂瀬刈別(モセカルベツ)が字名改正により岬町となる。モセカルベツの名は川や橋などに残る程度で、松浦武四郎が著した知床日誌には(イラクサが取れるところ)と解説している。
目梨郡羅臼町本町30番1(国道334号線国道335号線の起点)から道道87号知床公園羅臼線を相泊方向に9.5kmほど進んだ左手の急坂を上ったところにある。近くには天狗岩もある

この碑に関しては、羅臼町史・羅臼百年史には載っておらず不明である。
2012(平成24)年建立と言う事もあり載っていないのであろう。

碑文
ひろ川 湧水
この湧水に出逢い
この湧水と共に

昭和二十五年、茂瀬刈別を移住の地とした津山博志により
ひろ川に湧水源を発見する。以後、集落の生活用水として
利用され現在の水道の基礎となる。昭和三十五年、飲用水
としての施設造りが行われる。昭和五十四年、余剰水を
モセカル別ふ化場に供給し、この地域の鮭資源を安定的に
増す漁業貢献として、羅臼漁業協同組合からの申し出を受
け、今日迄協力を続ける。平成二十二年、羅臼町の助成を
受け地区住民からも出資を募り、水利権を持つ取水、配水
減菌の各施設を要する近代的な水道施設が完成し、安心で
安全な湧水をモセカル別住民に提供し今日に至る。
先人各位の偉業を讃え未来に引き継ぎ
守り続ける事をこの碑に記す。
平成二十四年十一月吉日
モセカル別水道利用組合 組合長 津山昭 贈


そばには小さな茂瀬刈別神社もあるが、こちらの由緒も調べてみたが不明である。

1618(元和4)年、東隅夷(メナシ)の酋長螺羅稀阿犬猿虎の皮を松前氏に献上するとあり、「メナシ」の言葉が初めて出る。
1701(元禄14)年、霧多布場所の開設、知床の夷人この地で交易をする。
1774(安永3)年、飛騨屋久兵衛霧多布外三場所の請負人となる。
1789(寛政元)年、寛政蝦夷の乱起る。クナシリ、メナシのアイヌ和人71名を殺害する。
1790(寛政2)年、根室場所開設される。
1791(寛政3)年、飛騨屋が請負人を免ぜられ、村山伝兵衛に場所差配を命じる。
1796(寛政8)年、村山伝兵衛は根室、国後場所を罷免され、小林屋、熊野屋の共同差配を命じる。
1812(文化9)年、根室場所を材木屋七郎右エ門の請負となる。
1816(文化13)年、根室場所を高田屋喜兵衛、伊達林右エ門、栖原半助、亀屋武兵衛の共同請負となる。
1818(文政元)年、根室場所を高田屋単独の請負となる。
1822(文政5)年、高田屋金兵衛「オロマップ」の高台に小社を建立し、植別神社の起源となる。
1832(天保3)年、根室場所は藤野喜兵衛の請負となる。「ルシヤ」に鮭鱒場一ヶ所開設する。
1840(天保11)年、根室場所は山田屋文右衛門の請負となる。
1845(弘化2)年、根室場所は和賀屋宇右エ門、浜田屋兵四郎の共同請負となる。
1849(嘉永2)年、根室場所は藤野喜兵衛(四代目)の請負となる。標津場所の名称が出る。
1850(嘉永3)年、藤野喜兵衛は、「タッカルウス」「レブンシラリ」に鰊、鮭小舌網場二ヶ所新設する。
1858(安政5)年、5月松浦武四郎が知床探索の途次「ウエンベツ」に立ち寄る。
1859(安政6)年、会津藩の警備管轄となる。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、北見国斜里郡となる。
1871(明治4)年、5月仙台藩の支配となる。8月仙台藩の支配終わり、根室開拓使出張所の所轄となる。
1872(明治5)年、4月戸長が置かれ、上林藤右エ門が標津、目梨郡の戸長に任命される。
1873(明治6)年、7月根室支庁出張所を「野付」に置き、目梨、標津、野付三郡を管轄する。
1876(明治9)年、9月漁場持ち制を廃止し、一般に開放される。佐藤久右衛門が漁場を自営し定住する。
1882(明治15)年、1月開拓使根室支庁を廃し、根室県を置く。
1888(明治21)年、羅臼温泉に初めて温泉宿が設けられる。
1891(明治24)年、鱈、鰈、大平目釣り漁はじまる。越中方面からの定住者が増えだす。
1893(明治26)年、6月西井賢誠師(誠諦寺)民家を借りて寺子屋を開設。教育の始まりとなる。
1897(明治30)年、春苅古丹にて医師川上又吉が私塾を開く。
1901(明治34)年、標津、羅臼間道路開通する。6月羅臼、春苅古丹に駅逓設置する。9月標津外六ヶ村戸長役場より分村し、植別村戸長役場を設置する。
1905(明治38)年、羅臼昆布が始めて大阪方面に出荷される。
1907(明治40)年、戸長が半島横断路線(羅臼〜岩尾別間)の踏査。
1916(大正5)年、9月開拓功労者佐藤久右衛門表彰記念碑を建立。羅臼〜サシルイ間道路新設。
1929(昭和4)年、9月標津〜羅臼間に乗り合い自動車運行される。
1930(昭和5)年、7月植別村を羅臼村に村名変更する。
1945(昭和20)年、8月羅臼〜ウトロ間の防衛道路完成(現・登山道)。11月国後島より脱出の漁民陸志別原野に入植する。
1962(昭和37)年、7月共同浴場横に、町営温泉「らうす荘」がオープンした。
1963(昭和38)年、12月「ひかりごけ」北海道天然記念物に指定される。開発道路ウトロ・ラウス道路工事着工。
1964(昭和39)年、1月羅臼温泉郷に頻発地震起る。5月知床半島巡り観光船就航する。6月「知床」国立自然公園に指定される。面積は斜里郡斜里町と目梨郡羅臼町にまたがる3万8636haを知床国立公園に指定した。
1968(昭和43)年、3月羅臼間歇泉が北海道天然記念物に指定される。
1970(昭和45)年、松浦武四郎の歌碑(マッカウス)建立する。
1974(昭和49)年、3月知床突端のフーセン岩が流氷で押し倒されていることが確認される。
1978(昭和53)年、8月露天風呂「熊の湯」完成。町立しおかぜ公園完成。
1981(昭和56)年、1月町民スキー場スキーリフト運転開始。
1982(昭和57)年、12月ビジターセンター完成。
羅臼町史、羅臼町史第二巻参考

知床日誌とは、1858(安政5)年4月27日〜5月8日(旧暦)に根室を出発して、知床半島をまわり、斜里まで旅した行路を記したものである。
地名や山、川などの名前と由来が詳しく書かれ、当時のアイヌ人がどんな生活をしていたかをかいま見ることのできる記述もある。


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