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天まで続く道

住所 斜里郡斜里町峰浜
時期 4月初旬〜12月中旬(冬期は除雪されてないため通行不可)

NPO法人 知床斜里町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
峰浜の由来は、1872(明治5)年、斜里郡が根室支庁管轄となり、斜里郡の村名が定められシャリ村、朱円(シマトカリ)村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。この辺りは、朱円(シュマトカリ)村とされ、1915(大正4)年、二級町村制を施行し、「朱円」が「しゅえん」と呼ばれ、 1953(昭和28)年頃から、海岸付近の地域が峰浜と呼ばれるようになった。
斜里郡斜里町光陽町にある、国道334号線国道244号線の分岐からウトロ方向に約7.3kmほど。朱円小学校を過ぎると、直線だった国道が左に45度程度カクンと曲がる。この交差点を曲がらずに南三号に入り坂を登ると丘の頂上に木製の展望台が見えてくる。

国道334号線と国道244号線の全長約18kmの直線道路で、名前の由来は、まっすぐな道が遠くまで続き、その先が天まで続いているように見えることからついた。(「天国に続く道」とも呼ばれている)峰浜から斜里方向へ進む道順を進むのがおすすめである。
この道には、「名もなき展望台」と呼ばれている展望台がある。ここからの眺めは、広大な畑と防風林、オホーツク海、そして全長約18kmの直線道路と180度の素晴らしいパノラマを見ることが出来るが、トイレや東屋などはない。


近くには、ウナベツ自然休養村管理センターウナベツスキー場がある。

峰浜は、かなり古くからウナベツ川とシュマトカラベツ川の河口付近にアイヌのコタンがあったようだ。現在の東七線北一号付近にはコタン集落の跡が残っている。海岸沿いの丘陵地には朱円千穴遺跡(朱円堅穴住居跡群)がある。1846(弘化3)年松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。「知床日誌」を著した。「ウナベツ川の川幅は七・八間で西側に人家五軒あり、この辺の海岸はみな遠浅で美しい。水源はウナベツ岳であるがその流れは緩い。・・・・・シュマトカリからシャリまでの海岸には石は一つもない。人家は二軒、浜には見慣れぬ小貝が多い」とある。この頃のウナベツコタンのアイヌの人々が当時の斜里運上屋の酷使に苦しんでいる状況も記されていた。
和人の進出は1775(安永4)年三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を設けアイヌに漁労を教える。1790(寛政2)年村山伝兵衛、斜里場所運上屋差配人となる。1815(文化12)年宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。又十藤野の番屋は東八線北一号付近だったようである。この頃の漁業は春のニシン、夏の鱒、秋の鮭に終わる三漁業を中心に営んでいた。サケ・マスは塩蔵し、ニシンは絞り粕にして松前に送っていた。
 1872(明治5)年斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。この地域はシマトカリ村(朱円)に属し、現在の峰浜と幌泊も含まれていた。1875(明治8)年村名が漢字の斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村と改められた。1877(明治10)年斜里村役場設置。1896(明治29)年の戸数は3戸、29人。概ねアイヌの人々で草小屋に住み夏秋は漁場に赴き、冬は山猟に従事していたようである。3戸は谷川三太郎、宮島啓吉、谷川三七がウナベツコタン(現在の東七線墓地付近)に住んでいた。1898(明治31)年には当地未開地がアッカンベツ原野殖民地として開放され、開拓が進んでいく。製軸工場が二軒開設され水力を動力とした斜里郡最大の工場だったという。1911(明治44)年羽田野耕三が飽寒別小学校(現・朱円小学校の前身)のシマトカリ特別教授所として開設する。明治末期には島戸狩神社を建立した。
 1913(大正2)年11月に字名を改正したがシマトカリ(朱円)地域は、東はノカマプ川(現・糠真布川と思われる)より西はマクシベツ川を東9線。南は海別岳を含む新旧区画境界。現在のウナベツは畝別(ウネベツ)、糠真布川流域は糠舞(ヌカマイ)と字名が付けられていた。大正に入って益々木材景気が活発となり、蒸気機関の動力で動く機械なども導入。鉛筆の軸材の製造が斜里の特産品となるほどだった。1914(大正3)年には青森県人の田向治三郎を団体長とする青森団体10戸が入植する。1915(大正4)年二級町村制を施行。斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁の5ヶ村を合併して斜里村と改称し各村を大字と改める。村越定吉が引率する神奈川団体4戸が入植する。その後阿波団体が入植する。10月シマトカリ特別教授所は部落民の寄付金で東十線北一号に校舎を新築する。1924(大正13)年にはこの地域を総称して東朱円と呼んだ。小林製材工場は1925(大正14)年に田中敏が木工場を引き継いだが昭和初期に火災に遭い焼失。再建されなかった。
 1927(昭和2)年10月朱円部落は朱円南・朱円中・朱円東区に分離される。1939(昭和14)年町制施行し斜里町となる。1953(昭和28)年大字斜里村・朱円村を廃し、港町・本町・分光町・朝日町の4町と、字大栄・美咲・川上・来運・豊里・三井・中斜里・豊倉・以久科南・以久科北・富士・越川・朱円西・朱円・朱円東・峰浜・日の出を編成する。
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