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ウナベツ自然休養村管理センター

住所 斜里郡斜里町字峰浜110
TEL 0152-28-2203
日帰り入浴 斜里町では公有財産の「自然休養村管理センター」を売却しており、2020(令和2)年2月3日に問い合わせたところ新年度になれば何か進展があるかも、現段階ではまだ何とも言えないとのお話でした。
定休日 
駐車場 100台程度

NPO法人 知床斜里町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
峰浜の由来は、1872(明治5)年、斜里郡が根室支庁管轄となり、斜里郡の村名が定められシャリ村、朱円(シマトカリ)村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。この辺りは、朱円(シュマトカリ)村とされ、1915(大正4)年、二級町村制を施行し、「朱円」が「しゅえん」と呼ばれ、 1953(昭和28)年頃から、海岸付近の地域が峰浜と呼ばれるようになった。
ウナベツの由来は、「海別」この山を水源とする海別川からで、アイヌ語の「ウナペッ」(灰の川)に由来し、かつては海別川全体が火山灰で埋まったことがあったようだが、有史以来この山自体が噴火した事実はないようである。
斜里郡斜里町光陽町にある、国道334号線国道244号線の分岐からウトロ方向に約11.2kmの峰浜市街地から右折し、約400mを左折、約1kmほど。(峰浜市街地に看板があるので分かりやすいだろう)

知床半島の付け根にあたるところに、峰浜の集落があり、海別岳の裾野にスキー場がある。ここから見る景色は、遠くに斜里町、右手には蒼く広がるオホーツク海が見え、冬には流氷の原野に変わる。そんな風景を眼下に望みながらスキー・スノボを楽しめる。スノーボードは全コース滑走可能で、ナイター設備も整っており、初心者から上級者まで楽しめるウナベツスキー場と隣接しているので、スキーと温泉の組合せなどもいいだろう。
この温泉は、1979(昭和54)年に地域の農林漁業者が入浴や宿泊などに活用する保養・研修を目的とし出来た施設だが、一般利用も出来る。
リーズナブルな入浴料金で温泉を楽しむことができるが、浴槽は小さく、3〜4人入ればいっぱいになってしまうほどだが、このホテルのロビーや外の階段から望むオホーツク海に沈む夕日は絶景だという。
お湯は、ほぼ透明でかすかに硫黄臭を感じるお湯、湯に浸かるとかなりヌルヌルとした感触。
男女とも浴槽が1つずつ、露天はなし、カランも各5台。1979(昭和54)年に斜里町が丘陵地において深度750m掘削した「斜里町峰浜泉源」から約3km先の「ウナベツ自然休養村管理センター」まで引湯している。源泉温度が44.3度と低いため熱交換器を使って加温している。(現在は閉館しているが現在数社からのオファーがありそちらに今後引き継がれるものと思われる)

泉質 アルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性温泉)、旧泉質名 単純温泉
温泉温度が低いため、熱交換器を使用し加温している。 源泉温度44.3度、PH9.1
効能 火傷、切り傷、皮膚病、糖尿病、痛風、胆石症など

峰浜は、かなり古くからウナベツ川とシュマトカラベツ川の河口付近にアイヌのコタンがあったようだ。現在の東七線北一号付近にはコタン集落の跡が残っている。海岸沿いの丘陵地には朱円千穴遺跡(朱円堅穴住居跡群)がある。1846(弘化3)年松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。「知床日誌」を著した。「ウナベツ川の川幅は七・八間で西側に人家五軒あり、この辺の海岸はみな遠浅で美しい。水源はウナベツ岳であるがその流れは緩い。・・・・・シュマトカリからシャリまでの海岸には石は一つもない。人家は二軒、浜には見慣れぬ小貝が多い」とある。この頃のウナベツコタンのアイヌの人々が当時の斜里運上屋の酷使に苦しんでいる状況も記されていた。
和人の進出は1775(安永4)年三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を設けアイヌに漁労を教える。1790(寛政2)年村山伝兵衛、斜里場所運上屋差配人となる。1815(文化12)年宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。又十藤野の番屋は東八線北一号付近だったようである。この頃の漁業は春のニシン、夏の鱒、秋の鮭に終わる三漁業を中心に営んでいた。サケ・マスは塩蔵し、ニシンは絞り粕にして松前に送っていた。
 1872(明治5)年斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。この地域はシマトカリ村(朱円)に属し、現在の峰浜と幌泊も含まれていた。1875(明治8)年村名が漢字の斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村と改められた。1877(明治10)年斜里村役場設置。1896(明治29)年の戸数は3戸、29人。概ねアイヌの人々で草小屋に住み夏秋は漁場に赴き、冬は山猟に従事していたようである。3戸は谷川三太郎、宮島啓吉、谷川三七がウナベツコタン(現在の東七線墓地付近)に住んでいた。1898(明治31)年には当地未開地がアッカンベツ原野殖民地として開放され、開拓が進んでいく。製軸工場が二軒開設され水力を動力とした斜里郡最大の工場だったという。1911(明治44)年羽田野耕三が飽寒別小学校(現・朱円小学校の前身)のシマトカリ特別教授所として開設する。明治末期には島戸狩神社を建立した。
 1913(大正2)年11月に字名を改正したがシマトカリ(朱円)地域は、東はノカマプ川(現・糠真布川と思われる)より西はマクシベツ川を東9線。南は海別岳を含む新旧区画境界。現在のウナベツは畝別(ウネベツ)、糠真布川流域は糠舞(ヌカマイ)と字名が付けられていた。大正に入って益々木材景気が活発となり、蒸気機関の動力で動く機械なども導入。鉛筆の軸材の製造が斜里の特産品となるほどだった。1914(大正3)年には青森県人の田向治三郎を団体長とする青森団体10戸が入植する。1915(大正4)年二級町村制を施行。斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁の5ヶ村を合併して斜里村と改称し各村を大字と改める。村越定吉が引率する神奈川団体4戸が入植する。その後阿波団体が入植する。10月シマトカリ特別教授所は部落民の寄付金で東十線北一号に校舎を新築する。1924(大正13)年にはこの地域を総称して東朱円と呼んだ。小林製材工場は1925(大正14)年に田中敏が木工場を引き継いだが昭和初期に火災に遭い焼失。再建されなかった。
 1927(昭和2)年10月朱円部落は朱円南・朱円中・朱円東区に分離される。1939(昭和14)年町制施行し斜里町となる。1953(昭和28)年大字斜里村・朱円村を廃し、港町・本町・分光町・朝日町の4町と、字大栄・美咲・川上・来運・豊里・三井・中斜里・豊倉・以久科南・以久科北・富士・越川・朱円西・朱円・朱円東・峰浜・日の出を編成する。
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