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越川橋梁

住所 斜里郡斜里町字越川

NPO法人 知床斜里町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
越川の由来は、アイヌ語の「イクシナベツ」(山の処を横切っている川)で、道に沿っていた川が根室へ越すための川だからということでイクシナ川を「越川」と呼び部落名となったようである。
斜里郡斜里町光陽町にある、国道334号線国道244号線の分岐から国道244号線を標津町方向に約12.5km。標津町伊茶仁の国道335号線と国道244号線の分岐から国道244号線を斜里町方向に約37.3kmほど。

国道244号線を斜里方面から根北峠方向に進むと、越川の集落を過ぎたあたりで突然コンクリートの橋が両側に架かっているのが見える。これは元国鉄根北線の工事線の跡で、一度も使用されることはなかった未成線である。正式には「第一幾品川橋梁」という10連のアーチ橋の跡だが、1973(昭和48)年に国道244号線の拡張工事のため、国道上の橋脚2本が撤去されたが、残りの部分は今も残っており1998(平成10)年に国の登録有形文化財に登録された。
 戦時中につくられたとは思えぬ堂々たるアーチは、川底からの高さ20mほど、全長147mのコンクリートアーチ橋(鉄筋は当時、軍事体制下で不足していたため、使われていない)で、1939(昭和14)年1月越川〜熊ノ巣(上越川)間着工する。国有鉄道根北線の第二工区の越川橋梁(第一幾品川橋梁)が完成。この橋は難関工事で、多くのタコ部屋労働者が使役され、11人の者が命を落としたと言われ、一説には橋脚の中に人骨が埋まっていると言う悲しい話も残っている。
夏は木々が生い茂っていて間近まで来ないとなかなか判りにくいが、冬季は枯れた木々の間からよく見渡せる。(冬は駐車場が雪で入れないので十分注意してほしい)特徴としては、鉄筋を使わずにコンクリートだけで作られている点で、鉄筋の代わりに竹を使ったという話もある。

工事は1938(昭和13)年に着工され、斜里から越川までの第一工区が完成。翌年、第二工区の越川橋梁(第一幾品川橋梁)が完成したが、第二次世界大戦の影響による物資欠乏のため根北線の建設は、1940(昭和15)年12月工事中止となり、1941(昭和16)年に敷設されていた線路も取り外された。
終戦後、もともと軍事路線としての国防の用途は薄れる中、1946(昭和21)年根北線の請願が国会にて採択される。1953(昭和28)年12月には再び札幌工事局による測量が開始された。
1957(昭和32)年11月斜里(現・知床斜里)〜越川間開業する。当時越川橋梁はほぼ完成した状況にあったが、戦後になっても根北線の越川より根室標津方が開通することのないまま、1970(昭和45)年12月根北線斜里〜越川間が廃止となる。開業からわずか13年であった。このことから橋上を列車が走ることはなかったのである。


説明板
第一幾品川橋梁(越川橋梁)
 この橋は旧国鉄根北線のために昭
和14年に着工完成した10連アーチ橋
で、全長147m、高さ20mあり、当時
のコンクリート建築技術を伝える建
造物として、また戦時下の過酷な労
働を伝える歴史遺産として貴重なも
のです。
 根北線は昭和32年に斜里〜越川間
が開通しましたが越川橋梁までは線
路が延びず、昭和45年に廃線となっ
ています。その後昭和48年の国道244
号線の拡幅工事のため橋脚が2本撤
去され現在の姿になりました。
斜里町

越川部落は、1885(明治18)年に開鑿された根室標津〜留辺斯(るべす)経由で斜里に至る約15里の斜里山道の開鑿に始まる。 この地方では1885(明治18)年に留辺斯駅逓が道路の整備とともに設置され、1888(明治21)年には斜里駅逓所設置、越川駅逓所は1894(明治27)年設置された。
当時の山道は、原始林の中の雑木や熊笹を刈り倒しただけの刈り分け道路であり、越川付近では春から秋にかけて熊の出没がひどかったようで、冬は吹雪などで凍死者をだすほどの交通の難所だったようである。
元は斜里町大字朱円村・斜里村の一部だった。1906(明治39)年に島津農場の開拓が始まった事から入植者が増えて行く。
 1914(大正3)年元木農場開設される。1915(大正4)年二級町村制を施行。斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁の5ヶ村を合併して斜里村と改称し各村を大字と改める。栃木団体が入植する。越川小学校が開校する。1923(大正12)年の戸数は98戸となるが前後して離農者が増える。
 戦後には島津・元木農場の農地は解放され、小作農に解放される。1949(昭和24)年には越川中学校校舎を建設する。1952(昭和27)年斜里〜越川間にバス運行される。1971(昭和46)年越川小学校校舎を新築する。
この橋から斜里方向に500mほど進んだところに越川駅逓の碑が建っている。


1635(寛永12)年、松前家臣村上掃部左衛門広儀、北海道(蝦夷)内を巡行し斜里に来る。
1670(寛文10)年、斜里の地名が記録に現れる。
1685(貞享2)年、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1775(安永4)年、三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を設けアイヌに漁労を教える。
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1785(天明5)年、最上徳内が、金山を開く目的で蝦夷地を調査する。
1789(寛政元)年、飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝兵衛が請け負う。飛騨屋の手船が斜里にきて、ウラシペツの大酋長マウタラケ、大豪族チョウサマから、場所開設の要請を受ける。
1790(寛政2)年、村山伝兵衛、斜里場所運上屋差配人となる。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが根室に来航。最上徳内が樺太を調査する。
1798(寛政10)年、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。幕府が松平忠明を蝦夷地御取締御用掛とする。
1800(寛政12)年、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛が択捉に場所を開設し、漁場17箇所を開く。幕府が蝦夷を直轄し、津軽、南部に命じ約500人を蝦夷に派遣させ、要所警備を行う。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。津軽藩兵100名斜里警備のため派遺された最上徳内が指揮をとる。 宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、会津、仙台藩の兵が蝦夷地に派遣される。柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、北見国斜里郡となる。
1872(明治5)年、斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマン知床半島鉱物資源踏査を行なう。
1875(明治8)年、斜里・網走・紋別・枝幸・宗谷に郵便局が設けられる。村名が漢字の斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村となる。
1877(明治10)年、斜里村役場設置。鈴木養太斜里赤上に入地、農業を始める。
1879(明治12)年、斜里村ほか四ヶ村戸長役場を設ける。
1880(明治13)年、北見国に網走郡役所が設けられる。知床硫黄山大爆発する。
1885(明治18)年、越川山道を開鑿、根室と斜里を結ぶ。
1888(明治21)年、斜里駅逓官設となる。
1892(明治25)年、藤野家、斜里川の両端をはじめ目ぼしい漁場を経営する。
1894(明治27)年、官設越川駅逓所開設。
1896(明治29)年、鈴木養太赤上で水稲札幌赤毛種を試作する。
1901(明治34)年、斜里にはじめて定期船が寄港。
1913(大正2)年、三井農場、内地府県から移民を入れて未開地3000町歩の開墾に着手。
1915(大正4)年、二級町村制を施行。斜里・朱円・遠音別・止別・蒼瑁の5ヶ村を合併して斜里村と改称し各村を大字と改める。
1917(大正6)年、斜里市街地に電燈が灯る。
1919(大正8)年、小清水村(現・小清水町)を分村。
1925(大正14)年、釧網線 (現JR釧網本線) 網走〜斜里間開通。
1929(昭和4)年、釧網線(現・釧網本線)斜里〜札鶴間開通する。
1931(昭和6)年、釧網線斜里〜釧路間全通する。
1932(昭和7)年、殖民軌道斜里〜チプドマリ間開通。
1938(昭和13)年、根北線斜里・越川間工事竣工一部軌条敷設。
1939(昭和14)年、町制施行し斜里町となる。
1940(昭和15)年、根北線工事中止。
1943(昭和18)年、上斜里村(現・清里町)を分村。ウトロ幌別間道路完成。
1949(昭和24)年、ウトロ漁港着工。
1957(昭和32)年、根北線斜里〜越川間開通。
1959(昭和34)年、斜里漁港起工する。
1963(昭和38)年、開発道路ウトロ・ラウス道路工事着工。知床岬灯台完成。
1968(昭和43)年、総合庁舎完成。斜里町90年・町制30年記念祭施行。
1970(昭和45)年、国鉄根北線廃止。しれとこ資料館、町立図書館オープン。
1973(昭和48)年、津軽藩士殉難慰霊碑建立。ウトロ香川台地に温泉湧出。
1975(昭和50)年、道道知床公園線、国道334号線に昇格。
1977(昭和52)年、しれとこ国立公園内100平方メートル運動スタート、全国に大きな反響を呼ぶ。
1978(昭和53)年、斜里町100年・町制40年記念式典挙行。
1980(昭和55)年、国道334号線知床横断道路開通。しれとこ100平方メートル運動第1次目標(120へクタール)達成。斜里岳道立自然公園に指定(15番目)。第1回しれとこ産業まつり開催。
1982(昭和57)年、知床100平方メートル運動5周年記念式典。あわせてシンポジウムを開催。日本のナショナル・トラスト運動に大きな影響を及ぼす。
1983(昭和58)年、第1回しれとこ斜里ねぷた運行。通産省による石油資源開発探査作業を斜里沖で実施。
1984(昭和59)年、国立公園指定20周年。知床100平方メートル運動で環境保全功労団体として環境庁長官表彰を受ける。
1985(昭和60)年、知床100平方メートル運動が緑化推進運動功労として内閣総理大臣表彰受ける。
1986(昭和61)年、知床100平方メートル運動ハウス着工。
1988(昭和63)年、知床森林センターが開庁。知床自然センターオープン。
1989(平成元)年、ウトロ地区字名改正。
1990(平成2)年、斜里市街地町名地番改正。林野庁が知床国立公園内を森林生態系保護地域に指定。
1991(平成3)年、ウトロペレケ新港一部開港。
1994(平成6)年、町鳥・町木制定。知床国立公園指定30周年記念式典開催。
1995(平成7)年、知床100平方メートル運動が(財)石川記念財団の山本有三記念「郷土文化賞」を受賞。
1996(平成8)年、第5回環境自治体会議が斜里(ウトロ)で開催。
1997(平成9)年、しれとこ100平方メートル運動目標額達成。100平方メートル運動の森トラストを開始。
1998(平成10)年、JR釧網本線、斜里駅を知床斜里駅に改称する。
1999(平成11)年、知床国立公園カムイワッカ地区で自動車通行規制始まる。
2001(平成13)年、知床五湖駐車場有料化。
2004(平成16)年、知床がユネスコ世界自然遺産に推薦される。
2005(平成17)年、知床がユネスコ世界自然遺産に登録される。
2007(平成19)年、道の駅うとろ・シリエトク、道の駅しゃりがオープン。JR知床斜里駅リニューアル。
斜里町史参考

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