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アオシマナイ遺跡

住所 斜里郡小清水町字浜小清水270・271・272番地

小清水町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
小清水町の由来は、アイヌ語の「ポン・ヤワンペッ」(止別川の支流)が 、1891(明治24)年駅逓所設置の際に、「ポン・ヤンペッ」(小さな冷たい川)と意訳したもの。
アオシマナイの由来は、アイヌ語の「スマ(シュマ)・オ・イ」(石・群在する・所)かつて蒼瑁(あおしまい)という所があった。後にそうまい(蒼瑁)とも呼ばれ、砂浜続きの海岸にここだけ石原・岩があるのでそう呼ばれた。「アヲシマイ」「アイ、オシマ、イ」(矢・入る・ところ)昔戦争があったとき、敵の矢が此処まできたからとの伝説もありどちらかは分からない。入植当時は浦士別川と止別川に挟まれた地域一帯(現在の浜小清水・倉栄・美和・神浦付近)をアオシマナイと呼んでいた。
道の駅 はなやか小清水から国道244号線を斜里方向に約2.2kmほどに看板がある。右折し約1.0kmほどのカーブに碑がある。

アオシマナイ遺跡は、濤沸湖東岸の濤沸湖を一望出来る湖岸段丘上先端に大規模で堅固に築かれたチャシ(城砦)跡で、 1967(昭和42)年5月山崎博により発見され、「アオシマナイチャシ」と名付けられた。
1971(昭和46)年には、本格的な調査がされ、2連の壕(ほり)からなる典型的なアイヌの砦で、西側は、傾斜の急な崖、他方向は深く大きな鱗状の空堀を巡らせ、南端は一部に三重にもなる堀が構築され、段丘の下には濤沸湖から水路を掘りチャシ麓まで舟を寄せれるようになっている。
チャシの内部、周辺には大規模な貝塚が形成されていて、出土品から縄文アイヌ時代の遺跡だと分かったが、耕作により貝塚部分の多くが欠損し、チャシ跡については、所有者である山谷忠男氏と家族により保存が続けられてきた。
その後、道路拡張工事に伴い、1996(平成8)年〜2000(平成12)年にかけて実施された緊急発掘調査でも貝塚を確認、近世アイヌ文化の遺跡である事が判明。
その下層からは、縄文時代初期の土器、竪穴式住居・長い部分で9mを超す大型の竪穴式住居跡、小竪穴、磨製石斧、砥石、黒曜石の石器および石器片など。包含物には、シジミ、ホッキ、ホタテ、アサリ、獣鳥骨(熊、鹿、小動物、鳥類など)などの遺構が出土している。
他にも、人為的に加工されたエゾシカの頭骨が多数発掘された事により「鹿送り」(シカ送り)の儀式が執り行われていたと推測されている。

説明文
アオシマナイ遺跡
 1967年(昭和42年)に発見されたこの遺跡は、「アイ(矢)
がオシマ(入った)イ(所)」というアイヌ語が語源とされている。
1971年(昭和46年)には、北海道教育委員会による
測量調査が行われ、壕が2連に連なる典型的なチャシ(砦)で
あることが確認され、また、チャシ跡とその周辺に広範囲に
貝塚が分布している大規模な遺跡であることが判明した。
 しかしながら、長期にわたる耕作の影響で貝塚部分はそ
の多くを失ったが、故山谷忠男氏とその家族による長年にわ
たる協力により、チャシ跡本体を中心に遺跡が保存されてきた。
 その後、道路改良工事に伴い、1996年(平成8年)から
2000(平成12年)に実施された緊急発掘調査におい
て二層の火山灰(駒ケ岳C2=1694年噴火・樽前a=17
39年噴火)に挟まれた状態で貝塚が確認されたことから、
近世アイヌ期のものであることが判明した。
 一方では、沼尻式土器や東釧路式・中茶路式土
器を主体とした縄文時代早期の遺物とともに、長軸9メー
トルを超す大型住居を含めた竪穴式住居遺構や小竪穴な
どが出土している。
 また遺跡内の一部には、人為的に加工が施された痕跡の
あるエゾシカの頭骨が多数認められたことから、「エゾシカ送
りの場」としての性格も推測されている。
小清水町教育委員会


1635(寛永12)年、松前家臣村上掃部左衛門広儀、北海道(蝦夷)内を巡行し斜里に来る。
1670(寛文10)年、斜里の地名が記録に現れる。
1685(貞享2)年、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1700(元禄13)年、幕府へ提出した御国絵図に浦士別、斜里等の地名が載る。
1775(安永4)年、三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を設けアイヌに漁労を教える。
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1785(天明5)年、最上徳内が、金山を開く目的で蝦夷地を調査する。
1789(寛政元)年、飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝兵衛が請け負う。飛騨屋の手船が斜里にきて、ウラシペツの大酋長マウタラケ、大豪族チョウサマから、場所開設の要請を受ける。
1790(寛政2)年、村山伝兵衛、斜里場所運上屋差配人となる。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが根室に来航。最上徳内が樺太を調査する。
1798(寛政10)年、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。幕府が松平忠明を蝦夷地御取締御用掛となる。フレトイ〜ヤムベツの間にアイヌの民家14戸の記載あり。ウラシベツに番屋があり大きな川には渡船があった。
1800(寛政12)年、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛が択捉に場所を開設し、漁場17箇所を開く。幕府が蝦夷を直轄し、津軽、南部に命じ約500人を蝦夷に派遣させ、要所警備を行う。
1801(享和元)年、エゾ地御用掛松平信濃守忠明一行、西エゾ地巡検途上に斜里に立ち寄る。シラヌカ駐在の八王子同心が、シベチャ〜シャリ間の山道を開鑿する。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。津軽藩兵100名斜里警備のため派遺された最上徳内が指揮をとる。 宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、会津、仙台藩の兵が蝦夷地に派遣される。柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。このときシャリ附近にアイヌの家が60〜70戸あり、トーフツに小休所と渡船あり、フレトイ小休所、トコタン小休所ありと記す。
1857(安政4)年、堀田備中守の家臣須藤秀之助外2名が村(現・清里町)を探検、従者・仙台藩の玉虫左太夫「入北記」にアバシリ・シャリ地方の役アイヌ人名など記す。これが文献に現れた和人最初の足跡といわれている。
1858(安政5)年、斜里廻りで太平洋岸の厚岸に行き、再度知床半島を舟で周廻して、斜里から陸路網走に入る。旧暦5月現在の道東の根室を出発し、案内のアイヌ数名と海岸沿いに舟で北上、シュンベツ(現・尾岱沼)、ノツケ(現・野付半島)、シベツ(現、標津町)、そして知床半島のラウシ(現・羅臼町)を経て、半島沿岸を調査し半島の突先を廻り、斜里町に至る「知床日誌」1863(文久3)年を著した。
1859(安政6)年、会津藩に属し、斜里に役所を置く。
1862(文久2)年、シャリ・モンベツにおける藤野家の場所請負を罷免される。アバシリは幕領のため存続となる。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道とし、11国86郡を定め、北見国斜里郡と称する様になり9月北見国を分領(網走・斜里郡は名古屋藩領、網尻・常呂郡は広島藩領、宗谷・枝幸・礼文は金沢藩領) する。10月場所請負人の名目を廃し漁場持と改める。
1870(明治3)年、斜里郡を名古屋藩より引上げ開拓使の直轄とする。
1871(明治4)年、4月札幌に開拓使庁をおき、函館・根室の開拓出張所を出張開拓使庁と改める。 7月開拓判官松本十郎が、はじめて北見国内を巡検する。 12月藤野伊兵衛、北見国東部及び根室国標津・目梨両郡の漁場持を命じられる。
1872(明治5)年、斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。4月戸長を置く。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマン知床半島鉱物資源踏査を行なう。
1875(明治8)年、管内の村名を漢字に改める。村名が漢字のシャリを斜里村・シュマトカリを朱円村・オンネベツを遠音別村・アオシマナイを蒼瑁村・ヤムベツを止別村か改称する。北見土人に対しオムシャ全廃する。
1879(明治12)年、郡区町村編成法により斜里郡斜里村外4ヶ村、蒼瑁村、止別村、朱円村、遠音別村の行政区確定。網走村に郡役所設置決定する。
1880(明治13)年、北見国に網走郡役所が設けられる。知床硫黄山大爆発する。
1885(明治18)年、越川山道を開鑿、根室と斜里を結ぶ。濤沸駅逓設置する。塚本命助が濤沸川渡守を申付けられる。
1886(明治19)年、蒼瑁村にフレトイ駅逓設置し、塚本命助を取扱人とする。中間休泊所を止別河口(浜止別)におく。止別川、濤沸湖に渡船をおく。
1888(明治21)年、斜里駅逓官設となる。
1890(明治23)年、網走〜釧路を結ぶ釧路道路が開削される。
1891(明治24)年、小清水駅逓を設置し、宮城県人半沢真吉を取扱人とする。野川駅逓を設置し水本栄助が取扱人となる。
1892(明治25)年、蒼瑁(アヲシマイ)駅逓所がフレトイ駅逓所と改称し、官設となる。
1894(明治27)年、小清水駅逓を新潟県人竹中安之助が引き継ぐ。
1901(明治34)年、山田慎牧場を経営するに当り、管理人更科鉄太郎外4名来住し、農家定住の基となる。
1902(明治35)年、山田牧場に岩田朔太郎外19名来住する。
1905(明治38)年、水稲種子を移入し、山田牧場附近で更科鉄太郎が試作する。
1909(明治42)年、小清水神社創建9月鎮座祭、本祭行われる。
1915(大正4)年、2級町村制を施行。斜里、朱円、遠音別、蒼瑁、止別5ヶ村合併して斜里村となる。
1919(大正8)年、旧斜里村から止別、蒼瑁を分村し、小清水村となる。役場を市街六区の中田儀十の建物にて執務開始する。11月役場新築落成する。
1920(大正9)年、小清水〜上斜里、小清水〜浦士別への道路開削される。
1921(大正10)年、神威佐々木源三郎、砥草原稲川寅吉、浦士別牛渡吉之助が水稲栽培を始める。小清水〜21線を開削し、古樋駅逓〜網走に至る道路が開設される。
1924(大正13)年、11月網走本線(現・釧網本線)、網走〜北浜間延伸開業し、鱒浦、藻琴、北浜の駅を設置。
1925(大正14)年、小清水神社に社殿を増築、天御中主神の御神霊を合祀する。11月釧網線、北浜〜斜里間延伸開業し、浜小清水、止別、斜里の駅を設置。
1929(昭和4)年、古樋駅逓所が廃駅となる。
1930(昭和5)年、小清水市街から止別駅まで北見鉄道輸送開始。
1938(昭和13)年、小清水集乳所設置される。
1939(昭和14)年、8月北見鉄道路線廃止となる。
1943(昭和18)年、神威、札鶴、上札鶴、東萱野を分割し上斜里村を分村する。蒼瑁、止別地区の一部を軍基地に解放する。
1946(昭和21)年、樺太、満州等から145戸の引揚者、復員者が入植する。
1951(昭和26)年、字名改正し、浜小清水、美和、神浦、上徳、共和、倉栄、北斗、止別、旭、東野、萱野、中里、小清水、泉、水上となる。
1952(昭和27)年、古樋駅を浜小清水駅に改称する。
1953(昭和28)年、町制施行し小清水町となる。
1962(昭和37)年、小清水町役場新築落成する。
1966(昭和41)年、簡易水道工事完了する。
1980(昭和55)年、浜小清水前浜キャンプ場設置。
1981(昭和56)年、温泉保養センター完成。
1983(昭和58)年、開基百年記念公園完成。
1989(平成元)年、フレトイ展望台完成。
1993(平成5)年、小清水温泉ふれあいセンター完成。
1995(平成7)年、ハイランド小清水725完成。
1998(平成10)年、ゆりの郷こしみずリリーパークオープン。
1999(平成11)年、小清水原生花園インフォメーションセンターHana完成。
2000(平成12)年、道の駅はなやか小清水開駅する。
2004(平成16)年、小清水原生花園が北海道遺産に選定される。
2005(平成17)年、11月第9回ラムサール条約締結国会議で濤沸湖がラムサール登録湿地に正式決定。
斜里・小清水町史・小清水を拓いた人々参考

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