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勇払会所の跡

住所 苫小牧市勇払50−11

苫小牧市

社団法人 苫小牧観光協会

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勇払の臨海南通に出ると道路沿いに案内看板がある。
ここは、1800(寛政12)年、八王子千人同人が開拓の鍬をおろして以来、約1世紀にわたり苫小牧の産業・行政の中心として栄えた。
そのため勇払地区には多くの文化財があり、近くには、2001(平成13)年4月1日開館した資料館がある。
幕末の勇武津会所を模した建物で、内外装は国産のスギを使用、土間にはカマド、板の間には囲炉裏が復元されている。
ちなみに勇武津とは、アイヌ語の「イブツ」(それの・入り口)を意味する。
「それ」はシコツ(現在の千歳市)、「いふつ」「ユーブツ」などと表記されていたが、後に漢字で表記される。

勇武津会所は、1799(寛政11)年、幕府が松前藩から召し上げ直轄領にしたとき勇払川の東側に設置する。
このとき15場所を統括して勇武津会所とし、かつての運上屋を会所に改めた。
会所が出来る前は、シコツ16場所とも呼ばれ、白老・千歳・苫小牧・鵡川・門別などに運上屋があったそうだ。
また、アイヌと和人の交易の拠点として、東蝦夷地屈指の商業物資の集散地として栄えていた。
1804(文化元)年、波浪浸食により現在の石碑建立地に移動。
会所は梁間5間・桁間18間(約30m2)の広さで、その他に下宿所三棟、倉庫七棟、弁天社(べんてんしゃ)一社の建物が立ち並んでいた。
会所には幕府の役人が詰め合い、支配人、通辞、番人ら29人を指揮し、交易や行政事務を行っていた。
幕末期の勇払は、イワシの〆粕(しめかす)(肥料)の重要な集積地や出荷地としての役割も担っていた。
1869(明治2)年、開拓使勇払役所が置かれ、1872(明治5)年、開拓使出張所が置かれる。
1873(明治6)年、出張所が当時の苫細村(苫小牧)に移される。
この「勇払会所の跡」は、この地方の交通・交易・行政の要であったことを伝える貴重な史跡である。
1956(昭和31)年、3月10日苫小牧市指定文化財に指定されている。


ちなみに、仙台藩の玉虫左太夫(たまむし・さだゆう)も勇払の記録を残している。
勇払から千歳を通ったのは、1857(安政4)年9月6日であり、約4か月かけて道内を歩き、筆を執った。
その記録が幕末期のアイヌ民族の暮らしぶりを綴った『入北記』(全9巻)に書かれている。
今の植苗(苫小牧市字植苗)あたりに炭焼きが住んで、窯二か所ばかりがあったと記している。
勇払勤番所や会所などの需要と、タルマエ沿岸(苫小牧錦岡)の鰯漁場の鰯を煮て、油と糟を採るための燃料だったであろう。
勇払場所支配人山田屋仁右衛門の「勇武津御場所諸願諸届留」にも願書があるそうだ。

『入北記』とは、箱館奉行・堀織部正利煕の調査団に随行していた、玉虫左太夫・島義勇がおなじ題の「入北記」を残した。
アイヌ民族が、幕府との交易をしながらも独自の文化を守り続けている様子が描かれている。
また道内各地の気候や産業、風俗も詳細に書き残しているそうだ。
余談であるが、島義勇(しま よしたけ、1822(文政5)年9月12日(10月26日) - 1874(明治7)年4月13日 佐賀藩士。
明治時代の顕官、北海道開拓の父・開拓の神と呼ばれ、北海道神宮に顕彰銅像がある。

1800(寛政12)年、八王子千人同心、原新介ら勇払に移住。
1804(文化元)年、八王子千人同人蝦夷地移住隊解散する。
1858(安政5)年、松浦武四郎が勇払に立ち寄る。その時の人口は312戸・1312人。
1869(明治2)年、函館戦争終結、蝦夷地から北海道に改める。勇払は、胆振国勇払郡となる。
1872(明治5)年、勇払に開拓使出張所がおかれる。
1873(明治6)年、勇払郡開拓使出張所を苫細(苫小牧)に移転、これを苫小牧の開基としている。
1874(明治7)年、苫細を苫小牧に改名。
1892(明治25)年、国鉄室蘭本線開通、苫小牧駅開業。
1909(明治42)年、樽前山大噴火。
1910(明治43)年、王子製紙(株)苫小牧工場が操業開始。
1963(昭和38)年、苫小牧港開港。
1982(昭和57)年、苫小牧東港開港。
1991(平成3)年、ウトナイ湖がラムサール条約湿地になる。

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