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知床世界遺産センター

住所 斜里郡斜里町ウトロ西186-10
TEL 0152-24-3255
入館料 無料
開館時間 夏期は8時30分〜17時30分、冬期は9時〜16時30分
休館日 4月20日〜10月20日は無休。10月21日〜4月19日は毎週火曜日。12月29日〜1月3日

知床世界遺産

知床財団

NPO法人 知床斜里町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
ウトロの由来は、漢字表記は「宇登呂」、アイヌ語の「ウトゥルチクシ」(その間を我々が通行する所)という意味である。
知床とは、アイヌ語で「シレトク」Sir-etok(陸地・大地・先端)という意味である。
国道334号線沿いにあり、ウトロ市街地から約300mほど。

2005(平成17)年に第29回ユネスコ世界遺産委員会で登録された世界遺産「知床」の玄関口に位置し、知床世界遺産センターは、ヒグマエゾシカなどの知床に住む動物の写真や、ヒグマの爪痕など動物の痕跡の模型などを展示し、世界遺産の見どころや自然のリアルタイムの最新情報を手に入れることができ、利用にあたって守るべきルール・マナーも学ぶことが出来る施設として、環境省により設置され2009(平成21)年4月19日に開館した。
館内の展示室は、知床半島の地形模型(1/2万5000)、知床半島に生息するヒグマやエゾシカ、シャチなどの写真パネル等を展示。知床の海、森、川、知床の歩き方などテーマ別に分かれ、情報を発信している。
レクチャールームでは、ハイビジョン映像上映し、休憩コーナーでは知床関連の書籍閲覧もできる。
他にも、環境省ウトロ自然保護官事務所、自然公園財団知床支部も設置されている。


施設の隣には、道の駅 うとろ・シリエトクがあり、知床観光の拠点施設として、休憩、観光案内所による観光情報や、売店コーナーではオホーツク海沿岸や地元の特産物が揃い、情報検索もできる。

宇登呂に和人が初めて入ったのは又十藤野が(またじゅうは一文字で又と十を上下に重ねた文字)最初と言われている。シャリ運上屋の創設は1790(寛政2)年斜里場所は、宗谷場所から分かれて網走市と常呂町の境から東側を範囲として設けられた。
斜里場所が開かれ、斜里の地域が開発されるようになり、やがて交易をする商人があらわれ、斜里場所に「運上屋」と呼ばれる事務所を開いた。現在はシャリ運上屋(会所)跡が残されている。
その後、1808(文化5)年柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。ここウトロにも番屋を設けてアイヌの人々にニシン・サケ・マスなどの漁法を指導した(藤野喜兵衛は、1782(天明2)年12歳の時松前に来て、1806(文化3)年に余市場所の漁場請負をはじめる。1817(文化14)年には、国後島の請負もしている)。
1821(文政4)年蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。1855(安政2)年、宗谷場所、再び天領となる。
1858(安政5)年旧暦5月松浦武四郎は現在の道東の根室を出発し、案内のアイヌ数名と海岸沿いに舟で北上、シュンベツ(現・尾岱沼)、ノツケ(現・野付半島)、シベツ(現・標津町)、そして知床半島のラウシ(現・羅臼町)を経て、半島沿岸を調査し半島の突先を廻り、斜里町に至る「知床日誌」1863(文久3)年を著した。宇登呂付近の状況が書かれている。「ウトルチクシ(宇登呂)にはマス・鰊番屋、板蔵がある。この辺りの岩の峨々突々たる有様は、すこぶる面白くその上にそびえるのをペレケ岳という。ポロベツ(幌別)幌別川の川幅は五〜六間で、ここには鰊、鱒漁の番屋や板蔵がある。オシュンクシエト(オシンコシンの滝付近)ここにも鰊、鱒の漁舎がある。オンネベツ(遠音別)オンネベツの川幅は五〜六間で、人家は6軒あり、川は急流である。水源は右はオンネ岳、左からペレケ岳でここから根室領のトシベツへ出る。」とあり、帰り道にウトロ番屋に一泊したことが記されている。
 1860(万延元)年奥羽六藩に北海道を分領し与え、斜里場所、標津場所、紋別場所は会津藩領地となり、これまでの場所請負制は一切会津藩のとなったものの、1866(慶応2)年まで藤野家は会津藩の用達をしていたようである。1866(慶応2)年頃から、山田寿兵衛が会津藩から請負うが、政権が幕府から明治政府に変わり、斜里・紋別・標津の運上金は明治政府の箱館裁判所に納入したようである。1869(明治2)年には場所という制度がなくなり、それにともなって運上屋もなくなった。しかし辺境の地にあったウトロなどは一般漁業者の入植などは期待できないため、藤野家には漁場持ちという資格を与えて継続させたが1876(明治9)年には廃止となり誰でも自由に漁を出来るようになった。

1872(明治5)年には、斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。ウトロ地区は斜里郡オンネベツ(遠音別)と呼ばれた。村と言っても当時はアイヌばかりが住む所で、土地の境界も漠然としたものだった。1875(明治8)年には村名が漢字の斜里村・朱円村・遠音別村・止別村・蒼瑁村となる。
1893(明治26)年には藤野以外の漁業者の進出も見られるようになった。小樽の人藤山要吉氏が遠音別、ペレケ(ウトロ市街)、オシンコシン、ツブランケナイ、フンベオマベツなどにニシン、鱒、鮭の建網漁業の許可を取り、活気づきはじめたが、いつごろまで藤山氏の漁場が続いたか不明である。その後久保田友吉、田中栄之助、岩田政蔵、坂井文吉、水野仁蔵、宮本伊太郎、川島新助などが遠音別で漁業許可を受けている。
ちなみにこのころの漁獲物は、サケ、マス、はほとんど塩蔵し、ニシンはしぼり粕に製造されたが、この頃の漁夫たちは季節労働であり、漁場が終われば越年する者は居なかった。

宇登呂湾の沿岸地域には、古くから又十藤野の番屋や漁舎が設けられ、その近くにはアイヌの村落があった。1910(明治43)年頃に高台の密林地帯だった場所の約500町歩(500ha)を農業用地として国有未開地に編入され、チャシコツ原野殖民地として一般に開放されることになった。しかし当時宇登呂へ行くには、網走・斜里から船で行くか、斜里〜宇登呂間の海岸道を歩くかのどちらかだったが、断崖の続く道が難渋を極め、大波の危険に晒されながら、海岸に突き出た崖を登ったり岩角を伝わりながら一日かかりで歩いた。冬には流氷に閉ざされ陸の孤島となった。
1912(大正元)年にチャシコツ原野8線地区に福島県人の関根久雄を団体長とした30戸の移住が始まりであるが、実際入植したのは関根久雄と一族、瀬古真二郎の6戸で、残りの人は網走・斜里までは来たようだがほとんどが名義だけで実際には現地に入らず退散してしまった。
1913(大正2)年には、宮城県人の川村嘉蔵が7線地区に、8線地区には群馬県人の小池猪之助が入植し、1917(大正6)年には佐藤吉助を団体長とする秋田団体の五戸も8線地区に入植した。
しかしこれらの入植者には、入植前に楽天地と聞かされていたこともあって、目の当たりにする密林を見て落胆し、到着早々引き上げるものも少なくなかった。
1919(大正8)年には、関根久雄氏は農業の傍ら岩尾別駅逓所(後の宇登呂駅逓)を開業し、高台の傾斜地には駅逓馬の放牧地があり、常時二頭の官馬がいた。 関根氏は区長なども務めた。1921(大正10)年1月まで経営したが駅逓所を弟の久四郎に譲り退去した。1924(大正13)年に漁業に失敗し、翌年に須田猪三郎にこれを譲り止別に引っ越しした。
須田氏は福島県人で、1947(昭和22)年3月まで勤め斜里町最後の駅逓としての役割を果たしたのである。須田氏は駅逓業務の傍ら部落の区長、森林防火組合長、初代郵便局長、村議会委員などの公職を歴任した。駅逓廃止後は、駅逓用土地一切を無償貸与され、施設を拡充し須田旅館を経営した。
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