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羅臼温泉

住所 目梨郡羅臼町湯ノ沢町

知床羅臼町観光協会

目梨の由来はアイヌ語の「メナシ」(東方または東隅)で、知床と北方領土を含む一帯を指していたようであり、松浦武四郎は「女那志」と記した。
羅臼の由来は、アイヌ語の「ラウシ」(低いところ・獣の骨のあるところ)からで、この一帯はアイヌの狩猟地であった。羅牛、良牛とも古文書にもみられる。
湯ノ沢町の由来は、以前は羅臼第一、第二、第三町内と三町内に区分されていたが、改正により船見町、本町、富士見町、緑町、栄町、湯の沢町と6つの町名に分かれた。
国道334号線沿いにあり、羅臼町市街地からウトロ方向に約3kmほど。

2005(平成17)年に第29回ユネスコ世界遺産委員会で登録された世界遺産「知床」の玄関口に位置し、羅臼川上流の国道334号沿いに温泉街が広がる。旅館・ホテルが3軒、温泉民宿が3軒あり、日帰り入浴も可能である。
国設の羅臼温泉キャンプ場も整備されており、そばには熊の湯がある。
羅臼岳の麓には、今は湯の沢町なり字名が示すように豊富な湯量と付近の景勝地をかかえ一大温泉郷となっている。
この辺りには、古くから温泉が湧出しており、先住民達も憩の場所として利用していたのであろう。古くから湯治用として地元の人々に利用されていた。温泉露頭は多数あるものの、その大部分は河床に散在したり、高温だが湧出量が少ないなどまとまった湯量が得られなかった。さらに洪水のたびに採湯、引湯が困難となり、維持にかなりの苦労があったようである。
窪田子蔵著の「協和私役」(1857(安政4)年)に「ラウス山其下ニ温泉出ツ夷人病アレハ往テ浴ス頗ル霊アリト云々」とあり、松浦武四郎著の「知床日誌」にも「上に羅牛岳と云神霊著しき岳有、麓に温泉有よし」と記されている。
もちろん当初は露天風呂だったろうが、温泉宿がいつの頃から設けられているかは分かっていない。
本城玉藻著の「根室千島両国郷土史」(1933(昭和8)年)の資料には、「口碑に曰く、寛政元年高田屋嘉兵衛始めて此の温泉に浴し其の効能あることを発見せり、明治18年温泉近傍は噴裂し山を崩し、川を遮って一湖を生じ27年又泥土を噴出す、以って地質学者の研究材料に供すべし明治21年始めて浴室を設く」とあり、当時の経営者は作田繁蔵であった。その後1895(明治28)年には、松田作蔵に温泉の権利を譲渡し、再建経営された。
1885(明治18)年温泉近傍噴裂山崩れがあり、このとき作田温泉の他に山屋温泉があったとの話もあるが定かではない。
1894(明治27)年に温泉周辺の泥土が噴出し、山崩れが起きた。このときその下敷きとなって浴客数名が亡くなった。しかし温泉宿主の作田繁蔵夫婦は避難して無事だったという。
作田繁蔵は羅臼を去るとき、1895(明治28)年松田作蔵に温泉の権利を譲渡し、再建経営された。
松田作蔵が再建した温泉宿には、熊の皮、鹿の皮などが敷かれ、ヤマベが養殖され客の要望があれば刺身・天ぷらとして食べることが出来たといい、かなり繁盛したようである。
1923(大正12)年、洪水で温泉宿も流出したが、すぐ再建されている。
1925(大正14)年、12月松田作蔵が函館に引っ越すため森野幹造がこれを継承、その後1931(昭和6)年藤野文吾が経営したが、1936(昭和11)年の豪雨で山崩れと洪水のため倒壊流出し、再建はされず露天風呂だけとなった。
しかし、温泉宿をとの声もあり村営で旧羅臼温泉跡に羅臼村営共同浴場を、1954(昭和29)年12月に完成した。翌年10月には増築も行うほど盛況だったようである。
羅臼ビジターセンターの裏手には、北海道の天然記念物に定められている羅臼間歇泉もあるので時間があるなら寄ってみるといいだろう。

泉質 含硫黄ーナトリウムー塩化物泉
源泉温度 99℃、引湯で泉温は68.2℃、PH9.2
適応症 神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺など

1960(昭和35)年、北見の島田茂によって知床観光ホテルがオープン。
1961(昭和36)年、ボーリングB37、安定した泉源を得るため、湯ノ沢右岸に二本の小口径ボーリングを10数mまで掘削。現在の道指定天然記念物の間歇泉として保護されている。
1962(昭和37)年、7月には、共同浴場横に、町営温泉「らうす荘」がオープンした。
1963(昭和38)年、開発道路ウトロ・ラウス道路工事着工。ボーリングB1、深度130m。
1964(昭和39)年、温泉旅館「花園荘」が地元春日町の小林ツマによってオープン。次いで営林署が保養施設として「しれとこ寮」を開設した。6月1日には、知床半島周辺に位置し、面積は斜里郡斜里町と目梨郡羅臼町にまたがる3万8636haを知床国立公園に指定した。
1964(昭和39)年、ボーリングB0、羅臼荘西方170mの河床に78℃の天然湧泉があった。ここに深度70mまで掘るが、ケーシングを挿入せず孔内は崩壊、埋没し噴気は衰えた。
1965(昭和40)年、ボーリングB2、これはB0の下流19mの河床に深度72.5mまでボーリングした。
1966(昭和41)年、ボーリングB3、これはB0よりB2へ5mほど寄った場所で、集塊岩中の温泉を採取するため深度42mまでボーリングした。
1976(昭和51)年、ボーリングS51、角閃石班岩中の亀裂を探る目的で、B0の上流にて深度191.5mまでボーリングした。
1978(昭和53)年、ボーリングS53、S51より東方約150m、羅臼荘の西側にて深度800mまでボーリング。
1979(昭和54)年、ボーリングS54、S51より西方70mの羅臼川左岸にてボーリング。深度24mで、基盤の第三紀層に入り、46mで熱水と蒸気の噴出。58.5mで大量の熱水、蒸気を噴出、掘削完了し、その後も継続して観測されている。
1980(昭和55)年、ボーリングS55、S54の北方約100mの山麓にボーリング。
1981(昭和56)年、ボーリングNo1、羅臼岳登山口近くで山側に斜めにボーリングするが、失敗。深度は76.7m。間欠泉となったのでバルブを閉める。
1981(昭和56)年、ボーリングNo2、成井農林跡地でボーリング。バルブは閉鎖。深度は79.1m。
1981(昭和56)年、ボーリングNo3、知床大橋下流300mでボーリング。深度は84m。
1981(昭和56)年、ボーリングNo4、知床大橋下流500mでボーリング。深度は63m。
羅臼町史、羅臼町史第二巻(昭和58発行)参考

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