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いずみの森来運公園

住所 斜里郡斜里町来運

NPO法人 知床斜里町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
来運の由来は、アイヌ語の「ライクンナイ」(死者の沢)、流れが極端に緩やかなライクンナイ川のことを、アイヌでは「死んでいる」と表現したのだそうで、縁起が悪いということで「来運」を当てたのかもしれない。
国道334号線道道1000号富士川上線の交差点から中斜里市街地方向に進み、約5kmほど直進T字路を右折、約2.3kmほど。清里町市街地から道道946号向陽清里停車場線を東(江南)方向に約3.9kmの交差点を左折、約1.1km進みT字路交差点を右折し、約280mほど。

清里町から東に約5kmの所にいずみの森来運公園がある。この公園の森の中には、標高1545mの斜里岳に降った雨や雪が数十年の歳月を経て湧き出ると言われている湧水がある。湧水がある場所は、斜里岳の麓の標高70〜80mにあたり、斜里岳は火山灰を含む火砕岩と溶岩の互層で作られ、その間を雨水が流れ末端部である来運などの標高70〜80mほどの場所に湧水となって地表にでてきている。
水温は通年を通してほぼ一定で、6℃前後、冬も凍ることはなく湧出量は毎分5tにもなり、「名水・来運の水」として地元の人などに広く愛飲されている。
「来運」という名前からこの水を飲むと「運が来て良いことや願いごとがかなう」とも言われ、遠方から訪れる人も増えているようだ。
水汲み場は、ペットボトルやポリタンクでも汲みやすいように、4ヶ所開けられた穴から多量の水が垂直に落ちている。私が行った時も、容器を持参した方たちが水を汲んでいた。

さらに森の中に続く道を歩くと小川や沼、来運神社もあり、斜里岳の登山口もある。

園内には、植栽されたイチイの木がある。樹齢は推定1000年、原生地は国有林来運110林班、植栽日は1990(平成2)年6月。

来運地区は、1899(明治32)年に斜里川における鮭・鱒資源の保護と増殖を図るため、斜里川上流域の来運地区に人工ふ化場を設置した。これがこの地区の開発の始まりとなった。
しかしこの孵化場の業績は不振だったのか、1902(明治35)年の採卵数は40万9千500粒程度だった。しかしその前後の記録は無く、1905(明治38)年には休業したようである。そのためこの未開の地に何人の従業員がいて従事したのかすら分かっていない。その後1913(大正2)年に三井農場の開拓が始まり、山形県人の丸子政五郎が三井へ入地し、その後来運に入植した。新十津川から来運部落へ移住した前東政太郎によると、部落に入地した1914(大正3)年の春には孵化場の施設はほとんどなく、倉庫一棟があったため、三井農場は網走水産組合からこの倉庫を譲り受け、当時道路工事に従事していた人夫の収容小屋に使われた。この孵化場の跡地を利用して三井農場では事務所、住宅、倉庫などを建て部落の形成となり「フカバ」と呼ぶひともいる。
三井農場が入るまではアイヌの家が数戸ある程度で、鬱蒼とした原始林だった。現在の斜里郡斜里町三井に三井農場を開設した1914(大正3)年から入植者も少しづつ増えて行く。当時は三井農場から来運へと通じる道路と来運から上斜里(現・清里町)に通じる道路を開鑿することから始まった。
1917(大正6)年頃には、直営の製材工場、澱粉工場なども建てられた。これらの施設の機械は水車を原動力として運転していた。製材工場では入植者の住宅用の建材や三井農場の用材を生産することを目的として操業していた。澱粉工場は1919(大正8)年に火事で焼失してしまったが、塚本宗太郎がこの施設を買い受け、翌年から操業し、1935(昭和10)年頃には来運共同澱粉工場ができ、大槻万太郎を代表者として水力利用の工場があった。その後ホクレンの工場が開設されるまで続けられた。
1919(大正8)年ころ酢酸を作る工場ができ、三井の直営で経営されたが成績不振で1〜2年程で中止した。
1949(昭和24)年に来運川の水を利用した水力発電所の申請を出した。1950(昭和25)年3月に竣工し、部落に電気が通るようになった。上来運地区は翌年になってからの通電である。

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