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開拓顕彰之碑

住所 斜里郡小清水町美和

小清水町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
小清水の由来は、アイヌ語の「ポン・ヤワンペッ」(止別川の支流)が 、1891(明治24)年駅逓所設置の際に、「ポン・ヤンペッ」(小さな冷たい川)と意訳したもの。
美和の由来は、大まかに浦士別川と止別川に挟まれた地域一帯(現在の浜小清水・倉栄・美和・神浦付近)をアオシマナイと呼んでいた。アオシマナイの由来は、アイヌ語の「スマ(シュマ)・オ・イ」(石・群在する・所)かつて蒼瑁(あおしまい)という所があった。後にそうまい(蒼瑁)とも呼ばれ、砂浜続きの海岸にここだけ石原・岩があるのでそう呼ばれた。「アヲシマイ」「アイ、オシマ、イ」(矢・入る・ところ)昔戦争があったとき、敵の矢が此処まできたからとの伝説もありどちらかは分からない。碑があるこの場所付近は、当時ヤマトの沢、山戸の沢と言われていたようである。明治期にヤマト姓のアイヌが住んでいたからと言われている。現在のスッポチ川とその隣にある名称不明の川(スッポチ川支流)が流れており「ツツポチ・ツツポ」(エビが多い川)である。他にもカタムサルコマナイ「カタム・サル・カ・オマ・ナイ」(ツルコケモモの湿原の上にある川)美和の旧飛行場の西から倉栄の東付近を呼んでいた。その後戦後引揚者を美和第二に入植させ生駒と称したようであるが1951(昭和26)年字名改正により美和となり現在は無い。
小清水町の国道334号線道道246号小清水女満別線の交差点から美幌方向に約1.8km右手。

1918(大正7)年頃、現在の小清水神社辺りから役場裏、西は神浦部落との境界付近までの辺りに、吉野恒三郎、松本俊治、安田藤作の三人が共同で経営にあたった。
総面積は240町8反(約240ha)余り、現場責任者は片平亀吉氏。第一次開拓者である17戸、第二次入植者4戸により経営された。
元々は斎木農場と言われていた。1918(大正7)年に三共農場と呼称した。小作人として入植したのは佐々木文吉、佐々木市之助、鴨崎万歳、片平隆志、片平亀吉、片平卯七氏。他に保田農場管理人兼開拓者として西松福松、三共農場管理人として清水庄作他二名が入植した。
当時は昼尚暗い原始林で、熊の出没甚だしく、開拓者は苦労を強いられた。1931(昭和6)年と1932(昭和7)年に行われた民有未墾地解放により、21戸が入地し、面積は300町歩を越えていた。民有未墾地解放に合わせて民有未墾地借入資金償還組合を結成する。
償還年限は30年。当時の開拓事務取扱は網走だったため年次開拓状況を報告に行くのも難儀した。
碑の建立日は2016(平成28)年4月である。

碑文
大正六年 入植六戸
三共農場 小作人

起伏険しい  原始林
血豆絶えねど 耕地は増えず
巨熊出没   被害甚大
朋友無惨   餓虎の牙

粗食に甚え  過労を堪え
造材作業で  年貢を払う
畑の管理は  妻子の務め
家族を支えた 農功場

昭和六年   待望久し
二十一戸の  自作農
民有未墾地買受資金貸付制度
償還多額で  一家奮闘

馬鈴薯と甜菜と牧場の沃野
同志の汗血  此処に在り
永遠に留めん その偉業
子孫に伝えん 開拓魂
川又秀夫 撰

ここ美和地区にはそれ以前から入植者が居た。新潟県西蒲原郡中野小屋村字大友(現・新潟県新潟市西区大友)の越後団体が1905(明治38)年7月に、松前江差に渡り、1906(明治39)年に濤沸に来る。濤沸では同郷の関三郎治の案内で、網走支庁に赴き特定地を出願し、1戸5町歩づつ払下げ許可を得たのは美和19線付近に入植したのは5人。当時は馬と人がやっと通れるような道しかなく、着手小屋は佐藤市之助の大工が建てた。道路を刈り分け、小屋を建て開拓した。
美和で軍用地に買上げされたところがあり、強制立ち退きに遭った者たちは東野地区、上徳地区に移転している。


1635(寛永12)年、松前家臣村上掃部左衛門広儀、北海道(蝦夷)内を巡行し斜里に来る。
1670(寛文10)年、斜里の地名が記録に現れる。
1685(貞享2)年、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1700(元禄13)年、幕府へ提出した御国絵図に浦士別、斜里等の地名が載る。
1775(安永4)年、三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を設けアイヌに漁労を教える。
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1785(天明5)年、最上徳内が、金山を開く目的で蝦夷地を調査する。
1789(寛政元)年、飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝兵衛が請け負う。飛騨屋の手船が斜里にきて、ウラシペツの大酋長マウタラケ、大豪族チョウサマから、場所開設の要請を受ける。
1790(寛政2)年、村山伝兵衛、斜里場所運上屋差配人となる。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが根室に来航。最上徳内が樺太を調査する。
1798(寛政10)年、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。幕府が松平忠明を蝦夷地御取締御用掛となる。フレトイ〜ヤムベツの間にアイヌの民家14戸の記載あり。ウラシベツに番屋があり大きな川には渡船があった。
1800(寛政12)年、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛が択捉に場所を開設し、漁場17箇所を開く。幕府が蝦夷を直轄し、津軽、南部に命じ約500人を蝦夷に派遣させ、要所警備を行う。
1801(享和元)年、エゾ地御用掛松平信濃守忠明一行、西エゾ地巡検途上に斜里に立ち寄る。シラヌカ駐在の八王子同心が、シベチャ〜シャリ間の山道を開鑿する。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。津軽藩兵100名斜里警備のため派遺された最上徳内が指揮をとる。 宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、会津、仙台藩の兵が蝦夷地に派遣される。柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。このときシャリ附近にアイヌの家が60〜70戸あり、トーフツに小休所と渡船あり、フレトイ小休所、トコタン小休所ありと記す。
1857(安政4)年、堀田備中守の家臣須藤秀之助外2名が村(現・清里町)を探検、従者・仙台藩の玉虫左太夫「入北記」にアバシリ・シャリ地方の役アイヌ人名など記す。これが文献に現れた和人最初の足跡といわれている。
1858(安政5)年、斜里廻りで太平洋岸の厚岸に行き、再度知床半島を舟で周廻して、斜里から陸路網走に入る。旧暦5月現在の道東の根室を出発し、案内のアイヌ数名と海岸沿いに舟で北上、シュンベツ(現・尾岱沼)、ノツケ(現・野付半島)、シベツ(現、標津町)、そして知床半島のラウシ(現・羅臼町)を経て、半島沿岸を調査し半島の突先を廻り、斜里町に至る「知床日誌」1863(文久3)年を著した。
1859(安政6)年、会津藩に属し、斜里に役所を置く。
1862(文久2)年、シャリ・モンベツにおける藤野家の場所請負を罷免される。アバシリは幕領のため存続となる。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道とし、11国86郡を定め、北見国斜里郡と称する様になり9月北見国を分領(網走・斜里郡は名古屋藩領、網尻・常呂郡は広島藩領、宗谷・枝幸・礼文は金沢藩領) する。10月場所請負人の名目を廃し漁場持と改める。
1870(明治3)年、斜里郡を名古屋藩より引上げ開拓使の直轄とする。
1871(明治4)年、4月札幌に開拓使庁をおき、函館・根室の開拓出張所を出張開拓使庁と改める。 7月開拓判官松本十郎が、はじめて北見国内を巡検する。 12月藤野伊兵衛、北見国東部及び根室国標津・目梨両郡の漁場持を命じられる。
1872(明治5)年、斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。4月戸長を置く。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマン知床半島鉱物資源踏査を行なう。
1875(明治8)年、管内の村名を漢字に改める。村名が漢字のシャリを斜里村・シュマトカリを朱円村・オンネベツを遠音別村・アオシマナイを蒼瑁村・ヤムベツを止別村か改称する。北見土人に対しオムシャ全廃する。
1879(明治12)年、郡区町村編成法により斜里郡斜里村外4ヶ村、蒼瑁村、止別村、朱円村、遠音別村の行政区確定。網走村に郡役所設置決定する。
1880(明治13)年、北見国に網走郡役所が設けられる。知床硫黄山大爆発する。
1885(明治18)年、越川山道を開鑿、根室と斜里を結ぶ。濤沸駅逓設置する。塚本命助が濤沸川渡守を申付けられる。
1886(明治19)年、蒼瑁村にフレトイ駅逓設置し、塚本命助を取扱人とする。中間休泊所を止別河口(浜止別)におく。止別川、濤沸湖に渡船をおく。
1888(明治21)年、斜里駅逓官設となる。
1890(明治23)年、網走〜釧路を結ぶ釧路道路が開削される。
1891(明治24)年、小清水駅逓を設置し、宮城県人半沢真吉を取扱人とする。野川駅逓を設置し水本栄助が取扱人となる。
1892(明治25)年、蒼瑁(アヲシマイ)駅逓所がフレトイ駅逓所と改称し、官設となる。
1894(明治27)年、小清水駅逓を新潟県人竹中安之助が引き継ぐ。
1901(明治34)年、山田慎牧場を経営するに当り、管理人更科鉄太郎外4名来住し、農家定住の基となる。
1902(明治35)年、山田牧場に岩田朔太郎外19名来住する。
1905(明治38)年、水稲種子を移入し、山田牧場附近で更科鉄太郎が試作する。
1909(明治42)年、小清水神社創建9月鎮座祭、本祭行われる。
1915(大正4)年、2級町村制を施行。斜里、朱円、遠音別、蒼瑁、止別5ヶ村合併して斜里村となる。
1919(大正8)年、旧斜里村から止別、蒼瑁を分村し、小清水村となる。役場を市街六区の中田儀十の建物にて執務開始する。11月役場新築落成する。
1920(大正9)年、小清水〜上斜里、小清水〜浦士別への道路開削される。
1921(大正10)年、神威佐々木源三郎、砥草原稲川寅吉、浦士別牛渡吉之助が水稲栽培を始める。小清水〜21線を開削し、古樋駅逓〜網走に至る道路が開設される。
1924(大正13)年、11月網走本線(現・釧網本線)、網走〜北浜間延伸開業し、鱒浦、藻琴、北浜の駅を設置。
1925(大正14)年、小清水神社に社殿を増築、天御中主神の御神霊を合祀する。11月釧網線、北浜〜斜里間延伸開業し、浜小清水、止別、斜里の駅を設置。
1929(昭和4)年、古樋駅逓所が廃駅となる。
1930(昭和5)年、小清水市街から止別駅まで北見鉄道輸送開始。
1938(昭和13)年、小清水集乳所設置される。
1939(昭和14)年、8月北見鉄道路線廃止となる。
1943(昭和18)年、神威、札鶴、上札鶴、東萱野を分割し上斜里村を分村する。蒼瑁、止別地区の一部を軍基地に解放する。
1946(昭和21)年、樺太、満州等から145戸の引揚者、復員者が入植する。
1951(昭和26)年、字名改正し、浜小清水、美和、神浦、上徳、共和、倉栄、北斗、止別、旭、東野、萱野、中里、小清水、泉、水上となる。
1952(昭和27)年、古樋駅を浜小清水駅に改称する。
1953(昭和28)年、町制施行し小清水町となる。
1962(昭和37)年、小清水町役場新築落成する。
1966(昭和41)年、簡易水道工事完了する。
1980(昭和55)年、浜小清水前浜キャンプ場設置。
1981(昭和56)年、温泉保養センター完成。
1983(昭和58)年、開基百年記念公園完成。
1989(平成元)年、フレトイ展望台完成。
1993(平成5)年、小清水温泉ふれあいセンター完成。
1995(平成7)年、ハイランド小清水725完成。
1998(平成10)年、ゆりの郷こしみずリリーパークオープン。
1999(平成11)年、小清水原生花園インフォメーションセンターHana完成。
2000(平成12)年、道の駅はなやか小清水開駅する。
2004(平成16)年、小清水原生花園が北海道遺産に選定される。
2005(平成17)年、11月第9回ラムサール条約締結国会議で濤沸湖がラムサール登録湿地に正式決定。
斜里・小清水町史・小清水を拓いた人々参考

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