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小清水町郷土資料館

住所 斜里郡小清水町字東野37番地の1(旧旭野小学校)
TEL 0152-62-2310 小清水町教育委員会 生涯学習課
開設期間 不定期(7月・9月を予定している。事前に問い合わせるのがいいだろう)
定休日 不定期。12月〜4月中旬の冬期間は公開していない。
開館時間 10時〜15時

小清水町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
小清水町の由来は、アイヌ語の「ポン・ヤワンペッ」(止別川の支流)が 、1891(明治24)年駅逓所設置の際に、「ポン・ヤンペッ」(小さな冷たい川)と意訳したもの。
東野の由来は、この辺りはウエンベツ(悪い川)が近くにあり止別原野だったと思われる。1925(大正14)年に開設された小学校には西萱野特別教授とあるので、萱野と呼ばれていたのであろう。萱野の由来は、高台地にあり萱が一面に生い茂っていたことから。1951(昭和26)年字名改正により東野となる。
旭野の由来は、旭地区と東野地区からとったもの。
小清水市街地の国道334号線国道391号線の交差点から斜里方向へ約4.8km右手。道道250号清里止別線交差点そば。

小清水町立旭野小学校は2012(平成24)年3月に廃校となったため、石造倉庫(以前の郷土資料館・私鉄北見鉄道 小清水駅跡)施設に収蔵していた郷土資料等を展示している。旧旭野小学校を改修し、閉校・統合した小学校6校の貴重な資料や、アオシマナイ遺跡などの出土品、体育館には所狭しと並ぶ生活用品・農機具・往時の小清水の写真など展示されている。

小清水町の郷土資料館は、はじめ教育委員会の建物内に棚を設置し資料類を展示したことに始まる。1971(昭和46)年に小清水七区にある旧小清水中学校校舎が改築された際、郷土資料館のスペースを確保し、産業、民族、考古、文献、標本など約900点が収蔵され公開した。
1991(平成3)年には石造り倉庫において郷土資料を整理し展示した。この倉庫は、小清水町農業協同組合の前身である小清水産業組合が穀物の集配・貯蔵の為に1933(昭和8)年11月に建設されたもので、網走管内に現存する石造り倉庫として最古の物である。

ちなみに現校舎は、1987(昭和62)年12月の落成したもので、創立は1925(大正14)年1月に小清水尋常高等小学校所属西萱野特別教授場として、上斜里原野13線65番地に仮施設をもって開設された。1936(昭和11)年8月に現在位置に新校舎を落成する。1947(昭和22)年4月萱野小学校に改称し、中学校を併置する。1951(昭和26)年7月字名改正により旭野小・中学校に改称する。2012(平成24)年3月に廃校となる。その後旧校舎は郷土資料館として利用されている。

この東野地区には、宮城県栗原郡尾松村(現・宮城県栗原市栗駒稲屋敷大鳥付近)より、鎌田興家が引率者となり宮城団体として1916(大正5)年3月に11戸が、1917(大正6)年には2戸が東野ニの特定地に入植した。
当時この一帯は、鬱蒼とした原始林で、開拓は極めて困難だった。笹がある所や、立木の少ないところから開墾していった。飲料水に苦労したのは旭地区も同じだったが、止別川から運んだり先に入植していた家の井戸を借りたりしていたようである。後に井戸を掘ったが難工事だった。
他にも、福島(田村)団体が現在の福島県田村郡三春町などから1916(大正5)年3月に鈴木幸衛門が団体長となり、本田治作が引率者となり23戸が萱野に入植した。
広島団体は、広島県佐伯郡沖美町(現・広島県江田島市沖美町)から1917(大正6)年に4名が現在の小清水町字東野13線11号付近に入植した。


1635(寛永12)年、松前家臣村上掃部左衛門広儀、北海道(蝦夷)内を巡行し斜里に来る。
1670(寛文10)年、斜里の地名が記録に現れる。
1685(貞享2)年、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1700(元禄13)年、幕府へ提出した御国絵図に浦士別、斜里等の地名が載る。
1775(安永4)年、三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を設けアイヌに漁労を教える。
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1785(天明5)年、最上徳内が、金山を開く目的で蝦夷地を調査する。
1789(寛政元)年、飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝兵衛が請け負う。飛騨屋の手船が斜里にきて、ウラシペツの大酋長マウタラケ、大豪族チョウサマから、場所開設の要請を受ける。
1790(寛政2)年、村山伝兵衛、斜里場所運上屋差配人となる。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが根室に来航。最上徳内が樺太を調査する。
1798(寛政10)年、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。幕府が松平忠明を蝦夷地御取締御用掛となる。フレトイ〜ヤムベツの間にアイヌの民家14戸の記載あり。ウラシベツに番屋があり大きな川には渡船があった。
1800(寛政12)年、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛が択捉に場所を開設し、漁場17箇所を開く。幕府が蝦夷を直轄し、津軽、南部に命じ約500人を蝦夷に派遣させ、要所警備を行う。
1801(享和元)年、エゾ地御用掛松平信濃守忠明一行、西エゾ地巡検途上に斜里に立ち寄る。シラヌカ駐在の八王子同心が、シベチャ〜シャリ間の山道を開鑿する。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。津軽藩兵100名斜里警備のため派遺された最上徳内が指揮をとる。 宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、会津、仙台藩の兵が蝦夷地に派遣される。柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。このときシャリ附近にアイヌの家が60〜70戸あり、トーフツに小休所と渡船あり、フレトイ小休所、トコタン小休所ありと記す。
1857(安政4)年、堀田備中守の家臣須藤秀之助外2名が村(現・清里町)を探検、従者・仙台藩の玉虫左太夫「入北記」にアバシリ・シャリ地方の役アイヌ人名など記す。これが文献に現れた和人最初の足跡といわれている。
1858(安政5)年、松浦武四郎が斜里廻りで太平洋岸の厚岸に行き、再度知床半島を舟で周廻して、斜里から陸路網走に入る。旧暦5月現在の道東の根室を出発し、案内のアイヌ数名と海岸沿いに舟で北上、シュンベツ(現・尾岱沼)、ノツケ(現・野付半島)、シベツ(現、標津町)、そして知床半島のラウシ(現・羅臼町)を経て、半島沿岸を調査し半島の突先を廻り、斜里町に至る「知床日誌」1863(文久3)年を著した。
1859(安政6)年、会津藩に属し、斜里に役所を置く。
1862(文久2)年、シャリ・モンベツにおける藤野家の場所請負を罷免される。アバシリは幕領のため存続となる。
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道とし、11国86郡を定め、北見国斜里郡と称する様になり9月北見国を分領(網走・斜里郡は名古屋藩領、網尻・常呂郡は広島藩領、宗谷・枝幸・礼文は金沢藩領) する。10月場所請負人の名目を廃し漁場持と改める。
1870(明治3)年、斜里郡を名古屋藩より引上げ開拓使の直轄とする。
1871(明治4)年、4月札幌に開拓使庁をおき、函館・根室の開拓出張所を出張開拓使庁と改める。 7月開拓判官松本十郎が、はじめて北見国内を巡検する。 12月藤野伊兵衛、北見国東部及び根室国標津・目梨両郡の漁場持を命じられる。
1872(明治5)年、斜里郡が根室支庁管轄となる。斜里郡の村名が定められシャリ村、シマトカリ村、ヲネベツ村、ヤンベツ村、アヲシマイ村の5村が誕生。4月戸長を置く。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマン知床半島鉱物資源踏査を行なう。
1875(明治8)年、管内の村名を漢字に改める。村名が漢字のシャリを斜里村・シュマトカリを朱円村・オンネベツを遠音別村・アオシマナイを蒼瑁村・ヤムベツを止別村か改称する。北見土人に対しオムシャ全廃する。
1879(明治12)年、郡区町村編成法により斜里郡斜里村外4ヶ村、蒼瑁村、止別村、朱円村、遠音別村の行政区確定。網走村に郡役所設置決定する。
1880(明治13)年、北見国に網走郡役所が設けられる。知床硫黄山大爆発する。
1885(明治18)年、越川山道を開鑿、根室と斜里を結ぶ。濤沸駅逓設置する。塚本命助が濤沸川渡守を申付けられる。
1886(明治19)年、蒼瑁村にフレトイ駅逓設置し、塚本命助を取扱人とする。中間休泊所を止別河口(浜止別)におく。止別川、濤沸湖に渡船をおく。
1888(明治21)年、斜里駅逓官設となる。
1890(明治23)年、網走〜釧路を結ぶ釧路道路が開削される。
1891(明治24)年、小清水駅逓を設置し、宮城県人半沢真吉を取扱人とする。野川駅逓を設置し水本栄助が取扱人となる。
1892(明治25)年、蒼瑁(アヲシマイ)駅逓所がフレトイ駅逓所と改称し、官設となる。
1894(明治27)年、小清水駅逓を新潟県人竹中安之助が引き継ぐ。
1901(明治34)年、山田慎牧場を経営するに当り、管理人更科鉄太郎外4名来住し、農家定住の基となる。
1902(明治35)年、山田牧場に岩田朔太郎外19名来住する。
1905(明治38)年、水稲種子を移入し、山田牧場附近で更科鉄太郎が試作する。
1909(明治42)年、小清水神社創建9月鎮座祭、本祭行われる。
1915(大正4)年、2級町村制を施行。斜里、朱円、遠音別、蒼瑁、止別5ヶ村合併して斜里村となる。
1919(大正8)年、旧斜里村から止別、蒼瑁を分村し、小清水村となる。役場を市街六区の中田儀十の建物にて執務開始する。11月役場新築落成する。
1920(大正9)年、小清水〜上斜里、小清水〜浦士別への道路開削される。
1921(大正10)年、神威佐々木源三郎、砥草原稲川寅吉、浦士別牛渡吉之助が水稲栽培を始める。小清水〜21線を開削し、古樋駅逓〜網走に至る道路が開設される。
1924(大正13)年、11月網走本線(現・釧網本線)、網走〜北浜間延伸開業し、鱒浦、藻琴、北浜の駅を設置。
1925(大正14)年、小清水神社に社殿を増築、天御中主神の御神霊を合祀する。11月釧網線、北浜〜斜里間延伸開業し、浜小清水、止別、斜里の駅を設置。
1929(昭和4)年、古樋駅逓所が廃駅となる。
1930(昭和5)年、小清水市街から止別駅まで北見鉄道輸送開始。
1938(昭和13)年、小清水集乳所設置される。
1939(昭和14)年、8月北見鉄道路線廃止となる。
1943(昭和18)年、神威、札鶴、上札鶴、東萱野を分割し上斜里村を分村する。蒼瑁、止別地区の一部を軍基地に解放する。
1946(昭和21)年、樺太、満州等から145戸の引揚者、復員者が入植する。
1951(昭和26)年、字名改正し、浜小清水、美和、神浦、上徳、共和、倉栄、北斗、止別、旭、東野、萱野、中里、小清水、泉、水上となる。
1952(昭和27)年、古樋駅を浜小清水駅に改称する。
1953(昭和28)年、町制施行し小清水町となる。
1962(昭和37)年、小清水町役場新築落成する。
1966(昭和41)年、簡易水道工事完了する。
1980(昭和55)年、浜小清水前浜キャンプ場設置。
1981(昭和56)年、温泉保養センター完成。
1983(昭和58)年、開基百年記念公園完成。
1989(平成元)年、フレトイ展望台完成。
1993(平成5)年、小清水温泉ふれあいセンター完成。
1995(平成7)年、ハイランド小清水725完成。
1998(平成10)年、ゆりの郷こしみずリリーパークオープン。
1999(平成11)年、小清水原生花園インフォメーションセンターHana完成。
2000(平成12)年、道の駅はなやか小清水開駅する。
2004(平成16)年、小清水原生花園が北海道遺産に選定される。
2005(平成17)年、11月第9回ラムサール条約締結国会議で濤沸湖がラムサール登録湿地に正式決定。
斜里・小清水町史・小清水を拓いた人々参考

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