北海道応援サイト!がんばれ北海道!!

越川温泉

住所 斜里郡斜里町越川

日帰り入浴料金 清掃協力金として200円
営業時間 6時〜22時
休日 不定休
駐車場 20〜30台程度有

NPO法人 知床斜里町観光協会

斜里の由来はアイヌ語の「サル」、「シャル」(アシの生えているところ)より転訛したもの。
越川の由来は、アイヌ語の「イクシナベツ」(山の処を横切っている川)で、道に沿っていた川が根室へ越すための川だからということでイクシナ川を「越川」と呼び部落名となったようである。
斜里郡斜里町光陽町にある、国道334号線国道244号線の分岐から国道244号線を標津町方向に約12.5km。標津町伊茶仁の国道335号線と国道244号線の分岐から国道244号線を斜里町方向に約37.3kmほど。入り口には看板などはない。

国道244号線沿いにある無人の日帰り共同浴場である。越川橋梁跡のそばにあるドラム缶が目印だが、特に案内看板は出ていない。
1976(昭和51)年に開湯した。幾品川のポンイクシナ川との合流点左岸から湧出している。ボーリングによって高温泉が湧出し、越川地区の住民が共同で管理する越川温泉利用組合が管理する浴場である。地元の方々が主に利用しているが、一見さんも入ることが出来るのだがマナーとルールを守ることは言うまでもないだろう。入浴料200円を指定の箱に支払い、浴場をキレイに利用する。ゴミは持ち帰るなど、入浴マナーを守ること。
建物には、休憩スペース、脱衣所、男女別の浴室、外にトイレがある。私が訪問したのは土曜日の16時頃、地元の方が1名入浴していた。写真を撮っているとあとから地元の60代の夫婦が車で来る。色々と話を伺うことが出来てとてもいい時間を過ごせた。お前さんも入っていけよと言われましたが、丁重にお断りして次の場所へを向かったのですが、やはり浸かってくるべきだったなと後悔。
浴場にはコンクリート製の内湯が1つ。一度に3人くらいが入浴できそうな大きさ。お湯は無色で微濁、無臭。シャワーなどの設備は無い。ホースで引き湯された沢の水と源泉。もちろん源泉かけ流しである。飲泉も出来るが、冷水は沢水なので飲めないので注意。

泉質は、ナトリウム・カルシウム塩化物・硫酸塩泉(中性低張性高温泉)掘削による自噴井
源泉温度52℃、PH7.3、湧出量90リットル
効能は、神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、疲労回復、慢性消化器病、痔疾、冷え症、病後回復期、健康増進、虚弱児童、慢性皮膚病、慢性皮膚病、慢性婦人病、きりきず、やけど、動脈硬化症など。
飲用による適応症は、慢性消化器病、慢性便秘、慢性胆のう炎、胆石症、糖尿病、痛風、肥満症など。

越川部落は、1885(明治18)年に開鑿された根室標津〜留辺斯(るべす)経由で斜里に至る約15里の斜里山道の開鑿に始まる。 この地方では1885(明治18)年に留辺斯駅逓が道路の整備とともに設置され、1888(明治21)年には斜里駅逓所設置、越川駅逓所は1894(明治27)年設置された。当時の山道は、原始林の中の雑木や熊笹を刈り倒しただけの刈り分け道路であり、越川付近では春から秋にかけて熊の出没がひどかったようで、冬は吹雪などで凍死者をだすほどの交通の難所だったようである。
ここの開拓は、1905(明治38)年に福島県人の櫛田又蔵が木材が豊富にあることから飽寒別原野(西一線〜東一線)の400町歩を貸付ける。その後大阪の財閥島津佐助が櫛田又蔵と共に共同経営する。当初は櫛田牧場として小作農家6戸(岐阜県人山田栄次郎、平下繁三郎、山田藤市、鳥取県人の音田令蔵、羽田鉄蔵、羽田千吉)が入地する。しかし原始林に覆われた未開の地は開拓が困難だったため定着せずほとんどの者が退去してしまい、遅々として開拓は進まなかった。その後櫛田農場製材部を設置し、農地内の立木を製材にして小作人の収入にあてようと考える。他にも農具を貸付けたり、一日一人当たり米2合(360g)と麦2合を貸付け、それを無利子で4年間据え置きして、五年目から年賦償還するようにしてからは開拓が順調に進んだ。1910(明治43)年島津農場の寄付により飽寒別神社(現・越川神社の前身)を建立する。
 1912(明治45・大正元)年頃に、櫛田氏の木材山で、木材の流送中にアバが切れて大損害を受けた。その損害補填の為に403町歩(403ha)を当時のお金で5万円で島津佐助氏に譲渡する。これにより島津農場となる。1914(大正3)年には大阪方面から小作人を募集し、高尾伊八を管理人として開墾する。島津自身は冬になると大阪に引き揚げた。この年元木農場(東三線〜奥蘂川川沿いの10号までの400町歩)が開設される。栃木県人の田熊忠兵衛を団長とし、橋本逸作が引率者となり9号〜東三線〜東6号までの地域に特定地の付与を受けて栃木団体10数戸が入植する。河田辰治がイクシナベツ川で水車による澱粉工場を始める。1917(大正6)年の最盛期には元木農場は50戸ほどにまでなったが、大正末期には付近の樹木はほどんど切り出され、転出者が増えて15戸程度にまでなった。1918(大正7)年元木農場に阿部清作が小作人として入地する。最盛期には20戸ほど入地したようである。元木農場も大正末期には小作人がほとんど転出してしまい跡地には家畜放牧場を設けた。この元木農場は一時期大正農場とも呼ばれたようだ。
 1930(昭和5)年越川地区はほとんどの木を伐採したことによる風害に悩まされていたことからカラ松などの造林(風防林)を行い始める。1944(昭和19)年飽寒別神社の他に3つの神社があったのを合祀し越川神社が改築される。島津農場は管理人を変えながら経営をしていたが1947(昭和22)年に農地解放を行い、従来の小作人に解放した。

Copyright (C) がんばれ北海道 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system