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道の駅 しかおい

住所 河東郡鹿追町東町3丁目2
TEL 0156-66-1125
開館時間 直売所 3〜6月・10〜11月は9時〜17時。7〜9月は9時〜18時。12〜2月は、10時〜16時
休館日 直売所:3〜11月は無休。12〜2月は毎週火曜日。年末年始。
神田日勝記念美術館の開館時間 10時〜17時
休館日 月曜(祝日の場合は翌日)、年末年始

道の駅 しかおい

道の駅 しかおい公式サイト

神田日勝記念美術館

鹿追町観光協会

河東とは、1869(明治2)年、大宝律令の国郡里制を踏襲して河東郡が置かれたことに始まる。「河東郡」の地名も松浦武四郎の意見によってつけられたと言われている。
鹿追町の由来は、アイヌ語の「クテク・ウシ」(鹿捕り柵・あるもの)を意訳したもの。
国道274号線沿いにあり、清水町から約15.4km。士幌町から約31.4km。

メイン施設は、神田日勝記念美術館で、開駅は2003(平成15)年8月8日。
鹿追町の観光情報やグルメ情報の案内、特産品や地元産の採れたて新鮮な野菜、チーズ、手作りのそばまくらや、手工芸品、木工品などを販売している。直売所や、地元の北海道を代表する画家・神田日勝記念美術館や、陶芸を一日体験可能な陶芸工作館もある。
メイン施設である神田日勝記念美術館には時間が早かったこともあり行っておりません。


松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日) 〜1888(明治21)年2月10日
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。 この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

神田日勝(かんだにっしょう)とは、1937(昭和12)年12月8日 - 1970(昭和45)年8月25日。日本の画家。
初期の作品には、ベニヤにペインティングナイフで描くという独自の画法を取り入れた北海道を代表する画家。
1937(昭和12)年、12月東京市板橋区練馬(現東京都練馬区練馬)父神田要一、母ハナの二男として生まれた。
1945(昭和20)年、8月拓北農兵隊(戦災者集団帰農計画)に応募し、戦火を逃れる為に一家で北海道へ向かう。鹿追に着いたのは終戦の前日8月14日だった。
1950(昭和25)年、4月鹿追中学校に入学。美術部を創設。
1952(昭和27)年、この頃兄である一明の影響を受け、農業をするかたわら独学で油絵を始める。
1953(昭和28)年、中学を卒業すると農業を継ぐ。
1955(昭和30)年、兄一明、東京芸術大学進学。
元々絵に興味のあった日勝は本格的に油絵に取り組むようになる。
1956(昭和31)年、9月初めて帯広の公募展である「第31回平原社美術協会展」(平原社展)に「痩馬」を出品、朝日奨励賞受賞。
1957(昭和32)年、10月第32回平原社展に「馬」を出品、平原社賞受賞。
1960(昭和35)年、6月第15回全道美術協会展(全道展)に「家」が全道展で初入選を果たす。同展で、兄一明が市教育長賞、一明の妻比呂子(彫刻)が道知事賞を受賞している。
1961(昭和36)年、6月第16回全道展で「ゴミ箱」が道知事賞、兄一明が道教育長賞を受ける。
1962(昭和37)年、2月高野ミサ子と結婚。4月北海道新人作家選抜美術展に「ゴミ箱」を出品。6月第17回全道展に「人」が入選する。
1970(昭和45)年、6月全道展に「室内風景」を出品。6月農作業中雨にあい風邪をひく。8月体の不調で新得の医院へ入院するも病名不明のまま悪化。清水赤十字病院に転院したが、腎盂炎による敗血症で死亡。32歳の若さだった。

国道274号線とは、札幌市から川上郡標茶町に至る一般国道で、道内で最も長い国道で総距離は365.8km。白糠町から釧路市までの一部に未開通区間がある。
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