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百年記念展望塔

住所 北見市常呂町字東浜、森林公園内
開館期間 4月29日〜10月31日
開館時間 9時〜17時まで(10月は16時まで)
入場料 無料
休館日 開館期間中は無休
問い合わせ 森林公園パークゴルフ場クラブハウス・TEL 0152-54-2004

北見観光協会

常呂町観光協会

北見市の由来は、松浦武四郎が命名した国名「北見国」からで、「北見」の由来は、この地方域の昔の通称が「北海岸」と呼ばれ、快晴の日に樺太が「見」える事から、一字ずつとったもの。2006(平成18)年3月常呂郡留辺蘂町・端野町・常呂町と合併し新たに北見市となった。
常呂の由来は、アイヌ語の「トー・コロ」(沼のある所)から。
東浜の由来は、1901(明治34)年にこの付近約300町歩が常呂駅逓放牧地に指定され、50〜60頭の牛馬が放牧されていた。1930(昭和5)年6月駅逓の廃止に伴い福島政雄が入地し経営にあたった。その後農耕地として払い下げられ、1941(昭和16)年字名改正によりこの部落は東浜となった。アイヌ語が由来ではないようだ。
国道238号線道道7号北見常呂線の交差点から網走方向に約2.1kmに看板があるので右折、約650mほどを右折すると展望塔が見える。網走市街地の網走市大曲1丁目の国道39号線交差点から国道238号線を紋別方向へ約21.2km、能取漁港前の交差点を左折し、約3.1kmのT字路を右折し約1kmを左折すると公園に入る。

1983(昭和58)年、10月百年広場が完成し、森林公園内に建てられているこの展望塔は、旧常呂町開基100年を記念して建設されたシンボルタワーである。
高さ30m、海面から100m、塔内の階段も100段と「100」づくし。未来へはばたく「鳥」をイメージしてデザインされているものの、見た目は帆立貝にも似ていることから、通称「ホタテタワー」ともいわれている。
上がっても柱が多くて展望があまり良くないのが残念である。

さらに上がるとこんな感じです。

他にも、パークゴルフ場やバーベキューハウス(屋内バーベキュー施設)があり家族連れで楽しめる。パークゴルフ場は54ホールを備え、市民・近隣市町村からも愛好家が集うコースとして賑わう。レンタルもあり手ぶらでも行けるので時間があれば寄ってみるのもいいだろう。
開館期間 4月27日〜11月5日
開設時間 4月〜8月は8時30分〜16時、9月は8時30分〜17時、10月〜11月は8時30分〜16時30分
休館日 開館期間中は無休
利用料金 1回券・高校生以上360円、中学生以下180円、シーズン券7200円

バーベキューハウスは、開館期間4月29日〜10月31日まで、ハウス内に食材は常備していないので各自用意。
予約先 0152-54-2004
開館時間 11時〜20時、17時以降は前日までに予約が必要。
休館日 開館期間中は無休
焼肉ハウス入館料 1人120円  小学生以下無料。(利用時間は120分)
1卓セット、木炭1kg・ 焼肉用網・鉄板で1000円 (1卓の火おこし料含む) 詳細は問い合わせて欲しい。

1685(貞享2)年、松前藩、宗谷場所を開設。
1706(宝永3)年、村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。トコロのアイヌもこの頃から宗谷の交易に参加した。
1774(安永3)年、霧多布外3場所を飛弾屋久兵衛に請負わす。クナシリ酋長人ツキノエ飛弾屋の交易船を妨害する。
1775(安永4)年、宗谷場所を15年契約で飛騨屋久兵衛に渡す。
1783(天明3)年、宗谷場所の請負期間を更に25ヶ年延長する。夏飢饉のため、宗谷、目梨、樺太のアイヌが数百人餓死する。
1785(天明5)年、最上徳内、幕府の命により国後、択捉島へ向かい調査する。和人の越冬が始まる。 1789(寛政元)年、国後、目梨のアイヌ反乱。いわゆるクナシリ・メナシの戦いを起こす。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村上伝兵衛に場所請負を命ず。飛騨屋が宗谷場所など全ての場所ををやめ、村山伝兵衛が請け負う。飛騨屋の手船が斜里にきて、ウラシペツの大酋長マウタラケ、大豪族チョウサマから、場所開設の要請を受ける。
1798(寛政10)年、近藤重蔵、最上徳内らが択捉島に渡り「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。
1800(寛政12)年、近藤重蔵、高田屋嘉兵衛が択捉に場所を開設し、漁場17箇所を開く。幕府が蝦夷を直轄し、宗谷・斜里・樺太の3場所を藩直営とする。津軽、南部に命じ約500人を蝦夷に派遣させ、要所警備を行う。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。津軽藩兵100名斜里警備のため派遺された最上徳内が指揮をとる。 宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、津軽藩に代わり会津、仙台藩の兵1500人が蝦夷地に派遣される。間宮林蔵ら、樺太探検のため宗谷を出帆。柏屋喜兵衛(後の藤野)、坪田佐平、西川準兵衛が共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。
1855(安政2)年、幕府、松前・江差地方を除く全島を直轄。東蝦夷地は仙台藩の警備地となる。日露通好条約を結び、国境を択捉島とウルップ島の間に決める。
1869(明治2)年、8月蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定め、北見国常呂郡となる。9月場所請負人を廃止し、10月漁場持と改称。北蝦夷地を樺太と改称。常呂・網尻両郡を広島藩分領地とする。10月判官松本十郎、根室開拓使出張所を開設。常呂郡は、開拓使の直轄となる。
1870(明治3)年、閏10月常呂郡は広島藩から開拓使の直轄となる。
1871(明治4)年、5月開拓使庁を札幌に開き、函館・根室の出張所を出張開拓使庁と改称する。判官松本十郎、北見国を視察(7月16日頃常呂郡を通過)する。
1872(明治5)年、北見国4郡の漁場規制を設け、税は1割全納と定める。3月根室出張開拓使庁管内の村名を定め、北見国4郡の村名は紋別・常呂・網走・斜里となる。常呂郡内はトコロ(常呂)・トウフツ(鐺沸)・フトチャンナイ(太茶苗)・テシマナイ(手師学)・チウウシ(少牛)・ノツケウシ(野付牛)・ムエカオツネ(生顔常)の7ヶ村を置く。4月紋別・常呂戸長を置く。9月札幌を本庁として5支庁を置き、常呂郡は根室支庁に属す。
1873(明治6)年、9月米国人地理学者ライマン、根室・斜里を経て常呂に到着する。
1875(明治8)年、5月常呂郡7ヶ村は常呂村・鐺沸村・太茶苗村・手師学村・小牛村・生顔常村・野付牛村となる。
1877(明治10)年、3月網走分署を支庁直轄とする。
1880(明治13)年、7月網走村外3郡郡役所を網走村に設置し、網走・常呂郡戸長事務は郡長の兼拳とし、斜里・紋別郡に各戸長置く。この頃常呂に和人1戸・男2人女1人定住する。
1882(明治15)年、2月開拓使を廃し函館・札幌・根室の3県を置く。網走外3郡は根室県に所属する。新潟県人建部丑之輔が鐺沸で牡蠣の乾燥加工を始める。島崎梅蔵が鐺沸に入植。
1883(明治16)年、4月常呂郡を一円とする、常呂村外6ヶ村戸長役場開設される。(常呂町の開基)
1884(明治17)年、佐呂間湖畔に官設渡船場が設置される。建部丑之輔、鐺沸字ルヲイカウスに駅舎建設する。取扱人は川北権太郎。
1886(明治19)年、鐺沸駅舎を岩谷小五郎が受け継ぐ。僧元尾万雄、鐺沸で寺小屋教育を始める。
1887(明治20)年、オホーツク沿岸にてホタテ漁業が始まる。
1888(明治21)年、4月常呂に官設駅逓設置される。取扱人は大越善三郎。4月鐺沸駅舎に人馬継立所設置し、駅逓となる。鐺沸・湧別間に休息所(駅逓)設置される。
1889(明治22)年、常呂川に木橋を架設、渡船を廃止。
1890(明治23)年、4月北見道路の開削。空知監獄囚人により忠別太から開始する。
1891(明治24)年、4月網走分監による網走〜上川間の道路開さく着工し、同年末完成「中央道路」と呼ばれる。下常呂原野(岐阜区を含む)殖民地として測量する。大分県人浜岡由良之助団体移住を企画、奔走し常呂川左岸4号〜13号間に70戸分の土地開放を獲得、9号に仮事務所を建て移民を募集する。
1892(明治25)年、3月鐺沸駅逓を廃し常呂駅逓を置く。5月ワッカ駅に駅逓を開設し、取り扱い人は福吉林右ェ門となる。
1893(明治26)年、8月橋九平他7人発起人となり常呂市街地に神社(小祠)建立する。
1895(明治28)年、5月常呂教育所を開設(現・常呂小学校の前身)柴田直次郎宅を校舎とする。田村喜蔵を団長とする土佐団体20戸入地する。鈴木八重蔵、鐺沸でマッチ製軸業創業するが1899(明治32)年に廃業する。
1896(明治29)年、河野常吉氏が「北海道殖民状況報文」編さんのため来常する。野繁蔵、鐺沸に入地する。土佐団体40戸移住する
1897(明治30)年、5月岐阜県人林美喜太郎など9戸入地する。7月常呂村外6ヶ村戸長役場より生顔常村(現・置戸町)・野付牛村(現・北見市)を分離し、4ヶ村戸長とする。11月網走郡役所を廃し、網走支庁を置く。
1898(明治31)年、大越善三郎、岐阜地区に大越牧場を経営する(9線12号付近)。岐阜で初めて馬を使用したプラオで耕す。森本丑太郎、常呂浜で燐寸製軸工場経営する。常呂〜端野間9尺道路開通する。
1899(明治32)年、10月常呂市街〜鐺沸連絡道路開削する。寺元大道、市街地に木工場を設置する。福島県人、斎藤鉄四郎が西1線13・14号付近に入植する。
1900(明治33)年、4月サロマ湖の鐺沸口切作業に岐阜地区民参加。三沢佐太郎マッチ製軸工場を経営するが、1905(明治38)年に廃業する。
1901(明治34)年、4月太茶苗基線22号に官設駅逓所設置する。取扱い人は石橋伝蔵となる。市山助蔵が東1線3号で水稲試作するも結果不良。土佐地区の畑山忠がハッカ栽培に着手する。野付牛(現・北見市)〜常呂間の道路建設する。
1905(明治38)年、熱田常吉が水稲試作するも成績不良。
1906(明治39)年、宮城・岡山県からサロマベツ原野(鐺沸村)へ団体移住する。網走、紋別、雄武水産組合を以て連合会を設立。網走に事務所を置く。
1909(明治42)年、サロマ道路開通する。
1911(明治44)年、7月愛媛県人田村文吉など数名が手師学に入植する。12月太茶苗駅逓所を移転し手師学駅逓所と改称する。取扱人は石橋平四郎。栃木県からサロマベツ原野(鐺沸村)へ団体移住する。
1912(明治45)年、7月加藤留五郎他4名発起人となり、鐺沸漁業組合設立する。
1912(大正元)年、ホタテ貝専用漁業権獲得する。岐阜地区で深尾豊作が亜麻栽培に着手する。
1913(大正2)年、 青森県からサロマベツ原野(鐺沸村)へ団体移住あり。
1914(大正3)年、常呂外4ヶ村戸長役場より鐺沸村(現・佐呂間町)を分離する。
1915(大正4)年、4月常呂村、少牛(ちいうし)村、太茶苗(ふとちゃない)村、手師学(てしまない)村が合併し、常呂郡常呂村となり、鐺沸村の一部・ワッカは常呂村に編入する。
1916(大正5)年、 3月常呂村と野付牛村との境界が変更され、野付牛町に大字少牛村の一部(現・北見市端野町忠志地区)を分割。少牛村の残りは手師学村に編入。
1918(大正7)年、牡蠣灰工場、操業開始する。弁天神社(現・常呂神社)社殿造営する。常呂電燈株式会社設立し常呂市街地に電気が点る。12月吉野部落は元手師学部落に属していたが、手師学村より分離して一部落を形成した。
1921(大正10)年、文豪、大町桂月が常呂村に立ち寄り、イワケシュ山頂から遠くオホーツク海、知床連峰など雄大な大自然を見て感嘆したという。
1924(大正13)年、4月猿澗湖口掘開工事行う。この頃網走の高田助次郎等が組合をつくり、網走・常呂間の定期旅客輸送を開始する。
1926(大正15)年、2月太茶苗・幌内地区を合併して太幌地区となる。登位加(現・北見市端野町北登)を端野村より編入する。3月市街地電話開通する
1927(昭和2)年、網走自動車会社設立し、網走〜常呂間1日2往復運行開始する。佐藤千代太郎が製材業に着手する。
1929(昭和4)年、4月下湧別三里番屋付近にサロマ湖新湖口開削決行する。これによりサロマ湖内の水位急激に低下、鐺沸の旧湖口が自然閉鎖状態になる。かき島付近のカキほとんど死ぬ。6月白木弥市、常呂〜野付牛間の路線乗合自動車運転開始する。佐呂間〜常呂間の乗合自動車の営業開始。
1930(昭和5)年、6月常呂駅逓・手師学駅逓廃止となる。
1931(昭和6)年、4月サロマ湖の旧湖口を村費補助で開削するも翌春の時化で閉鎖する。
1932(昭和7)年、湧網線建設のため、網走・常呂間、中湧別・中佐呂間間の実測開始する。
1933(昭和8)年、6月湧網東線工事着工する。7月網走刑務所の囚人を使い、東湧網線開削工事開始。カキに多数のホタテ稚貝が付着しているのを確認し、翌年から養殖試験を開始。場所はキムアネップ。10月湧網西線工事着工する。
1935(昭和10)年、5月サロマ湖で宮城産種苗による牡蠣の垂下養殖試験実施。10月中湧別〜計呂地間を湧網西線として新規開業し、芭露・計呂地駅を新設。網走〜卯原内間を湧網東線として新規開業し、二見ヶ岡・卯原内駅を新設する。
1936(昭和11)年、10月計呂地〜中佐呂間を延伸開業し、床丹・中佐呂間駅を新設する。卯原内〜常呂間を延伸開業し、能取・常呂駅を新設する。川沿・常呂間に騎馬送往復1便の路線開設する。
1941(昭和16)年、6月常呂鉱山でマンガンの新鉱脈発見(1943(昭和18)年より奥村工業が採掘を始めるが2年で閉鎖 )。8月常呂神社上棟式挙行。9月常呂神社社殿竣工。11月村内の大字を廃止、行政字に再編。 常呂村は常呂、東浜、土佐、岐阜、共立、富丘、豊川、栄浦。太茶苗村は福山。手師学は日吉、隈川は吉野。登位加から「登」に改称。
1942(昭和17)年、5月下湧別村海岸で漂着機雷処理中爆発。死者106人、重傷者63人の大惨事となる。
1950(昭和25)年、11月町制施行。 常呂町となる。
1952(昭和27)年、12月常呂〜下佐呂間間を延伸開業し、北見共立・北見富丘・下佐呂間駅を新設する。
1953(昭和28)年、10月佐呂間〜下佐呂間間を延伸開業し全通する。湧網東線を湧網西線に編入し湧網線とし、知来・仁倉駅を新設。中佐呂間駅を佐呂間駅に改称。岐阜地区に電気灯る。
1956(昭和31)年、8月常呂町観光協会設立する。11月常呂漁港通水式挙行。
1963(昭和38)年、10月下佐呂間駅を浜佐呂間駅に改称する。
1965(昭和40)年、12月常呂町郷土資料館完成。栄浦かき島に野営場(キャンプ場)整備する。
1973(昭和48)年、9月サロマ湖第二湖口開削起工式、着工する。
1974(昭和49)年、1月サロマ湖に流氷流入し、ほたて養殖施設被害甚大となる。3月「常呂遺跡」国指定史跡となる。
1978(昭和53)年、12月サロマ湖第2湖口完成通水する。
1982(昭和57)年、6月常呂町森林公園オープン。
1983(昭和58)年、8月常呂バイパス開通式挙行。10月百年広場が完成。開基百年記念展望塔落成式。11月開基100年記念式典挙行。
1987(昭和62)年、3月国鉄湧網線全線廃止。網走バスに転換される。5月旧常呂駅で廃止された湧網線のレールを使ってトロッコレース開催される。
1988(昭和63)年、旧常呂駅跡に交通ターミナルオープン。
1991(平成3)年、4月サロマ湖ワッカネーチャーセンター完成。ワッカ地区への一般車両の乗り入れ禁止。
1993(平成5)年、 5月ワッカ原生花園で植生維持回復を目的に火入れが行われる。7月ところ遺跡の森に「ところ遺跡の館」が完成。
1995(平成7)年、4月常呂網走自動車専用道路供用開始。7月ところ遺跡の森が全面オープンする。
1995(平成8)年、健康温水プール「シーサイドところ」オープン・パークゴルフ場オープンする。
1998(平成10)年、11月ところ埋蔵文化財センター「どきどき」がオープンする。
2000(平成12)年、11月町制施行50周年記念式典挙行。
2001(平成13)年、10月ワッカ原生花園、北海道遺産に選定される。
2004(平成16)年、10月常呂遺跡が「オホーツク沿岸の古代遺跡群」として北海道遺産に認定される。
2006(平成18)年、3月留辺蘂町、端野町、常呂町、旧北見市の1市3町合併、北見市常呂町となる。
2012(平成24)年、1月低気圧の影響でサロマ湖第2湖口に砂が堆積し、湖口ふさぐ。2月道がサロマ湖第2湖口の通水溝の掘削工事開始する。4月サロマ湖第2湖口に堆積した砂の大規模な排出工事。
常呂町史・常呂町百年史参考

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