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登栄床八十年記念碑

住所 紋別郡湧別町登栄床

湧別町観光協会

湧別町は、2009(平成21)年10月5日に上湧別町と湧別町が合併し、現在の湧別町となった。
町名の由来は、アイヌ語の「ユペ」(鮫の意)から。
登栄床地区は、湧別町市街地から道道656号湧別停車場サロマ湖線を約10.8kmほど東方にあり、右にサロマ湖、左にオホーツク海、鳥のくちばしのように長く伸びていて、先端付近には龍宮台展望公園と三里浜キャンプ場がある。
登栄床の由来は、アイヌ語の「ト・エトク」、その意味は「沼の奥」「湖の奥」である。
三里番屋、中番屋とも呼ばれ、かつては漁場の番屋しかなく永住者が居なかったことと、湧別の市街から距離にして三里あり、中番屋はその中間にあったため中にある番屋という意味で呼ばれたそうだ。
登栄床地区には、数多くの遺跡があり古代の先住民族が生活していたことがわかる。
縄文時代(約紀元前5千年)の早期のものと考えられる押型文土器の破片が出土しており、紀元前3百年頃の続縄文文化時代の遺跡である湖畔台地に竪穴住居や前北式土器、後北式土器が出土している。
紀元1千年〜1千5百年頃の擦文文化時代のオホーツク式土器や擦文式土器も出土しているが、相当数の遺跡が未調査だそうだ。
先人の大きな偉業を称えた碑となっていて、登栄床神社の境内にひっそりと佇んでいる。

碑文
 登栄床の先住民は縄文の
時代(紀元前約五千年前)に
遡る。
 しかしながら大正六年四月
播磨栄之助がサロマ湖の
天然カキ貝を獲るため永住
したのが登栄床地区開拓の
始まりである。
 以来、オホーツクの海と
サロマ湖のみずうみに囲ま
れたこの風光明媚な土地を
慕い多くの先人が安住の地
を求めて住みついた。
 しかし今顧みるに八十年の
歴史の中に資源の枯渇や乱獲、
物資の不足と物価の高騰な
どによる筆舌に尽しがたい
辛酸の暮らしの日々が多く
あったのである。
 そうした中で昭和四年の
サロマ湖口の開削、昭和
二十七年のカキ養殖や昭和
四十年のホタテ養殖の開発と
我らの先人はたくましく
そして粘り強く、幾多の
苦難を克服し、たゆまぬ
努力を重ねて私達に今日の
繁栄を残した。
 我らこの地に生きるものは、
先人のこの労苦と功績を永
久に忘れてはならない。
 今日ここに八十周年記念
を行うに当たり、先人を偲
び、偉業を讃えてこの碑を
建立する。
平成九年三月三十日
登栄床自治会会員一同



1801(享和元)年、磯谷則吉が宗谷・斜里間踏査し、「ユウベツ」に泊る。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が宗谷〜知床岬の間を往復(再航蝦夷日誌を著す)
1869(明治2)年、開拓使設置し、蝦夷を改めて北海道とし11国86郡名を定む。漁場請負制の廃止する。
1872(明治5))年、網走管内斜里・網走・紋別に戸長を置き、ユウベツ村と名付けられ、紋別戸長管下に置かれる。
1875(明治8)年、ユウベツ村を「湧別」と漢字に改める。
1882(明治15)年、開拓使を廃し函館・札幌・根室の3県を置く。半沢真吉が湧別に移住する。
1883(明治16)年、湧別駅逓設置し、和田麟吉が取扱人となる。
1896(明治29)年、永山より薄荷の種根を移入し西1線に試作する。湧別神社創建する。
1897(明治30)年、紋別外9ヶ村戸長役場から分離湧別戸長役場設置する。湧別屯田4.5中隊に200戸入植。
1898(明治31)年、湧別屯田4.5中隊199戸入植。湧別〜紋別間の道路開通。
1900(明治33)年、芭露原野、計呂地原野区割。このころ登栄床地区の中番屋の外海側に定置の番屋があり、小樽の人で大三の屋号で藤山要吉が経営していた。
1906(明治39)年、2級町村制施行。
1910(明治43)〜1912(大正元)年頃は、ホタテ漁が盛んで各地より出稼ぎ多く、料理屋、射的屋、風呂屋、理髪店などその他商店軒を並べたこともあったそうだ。
その後ホタテ漁が不漁になると、戸数1戸もなく、定置の番屋があるのみとなった。この頃天然カキを生産していたそうで、当時のカキは「ナガカキ」と呼ばれ、珊瑚礁のように生育する「立ちカキ」で現在でも湖内に若干残っているそうだ。
1917(大正6)年、4月17日に播摩栄之助が、サロマ湖のカキを獲る目的で中番屋に移り、永住のため家を建てた。これが登栄床地区の最初の永住者である。
冬のサロマ湖の氷上でカキを採取する漁法を、播摩栄之助が開発してからは永住目的の移住者も多くなり、大正中期ころまでは、カキを獲って生計を立てていたがその後、外海のホタテ漁と合わせ行うようになった。
1921(大正10)年、大町桂月来遊し三里浜から常呂迄の道路を竜宮街道と命名。
1929(昭和4)年、湖口の掘削によりサロマ側は外洋性の湖となり、名産の天然カキが次第に減少した。
1940(昭和15)年、1級町村制施行。
1950(昭和25)年、牡蛎養殖事業開始。
1952(昭和27)年、サロマ湖養殖組合が宮城県より種カキを移植して試験を始める。
1953(昭和28)年、町制施行・湧別町となる。
1957(昭和32)年、登栄床船付場完成。
1965(昭和40)年、ホタテ稚貝の越冬技術が開発され垂下育成養殖が始まる。
1966(昭和41)年、サロマ湖灯台竣工する。
1971(昭和46)年、町が大町桂月の詩碑を竜宮台に設置。

1972(昭和47)年、登栄床小学校を湧別小学校に統合。円山、登栄床地区湖畔が自然休養林指定。
1974(昭和49)年、町営バス(湧別〜登栄床)運行開始する。
1980(昭和55)年、登栄床漁港整備完成。

磯谷則吉(いそがやのりよし)とは、生没不明。
享和元年、蝦夷地取締御用掛松平忠明の蝦夷地巡見に随行して箱館より白老、湧払、石狩、宗谷、斜里、浦川を経て箱館に帰着するまでの道中日記である蝦夷道中記を著する。巻末に各場所の一覧あり。北海道大学附属図書館北方資料室に所蔵されている。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日。
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

大町桂月(おおまちけいげつ)とは、1869(明治2)年3月6日(1月24日)- 1925(大正14)年6月10日、詩人、歌人、随筆家、評論家である。
1869(明治2)年、高知市北門筋(現・高知県高知市永国寺町4-10)に元土佐藩士の息子として生まれる。
1896(明治29)年、東京帝国大学国文科卒業。
1899(明治32)年、島根県で中学教師となる。
1900(明治33)年、博文館に入社し、1906(明治39)年まで在籍する。
終生酒と旅を愛し酒仙と称され、晩年は遠く朝鮮、旧満州(現・中国東北部)まで足を延ばしている。
北海道の層雲峡や羽衣の滝の名付け親でもあり、道内各地を旅行し紀行文で紹介した。ちなみに大雪山系黒岳の近くには、彼の名にちなんだ桂月岳という山がある。
1925(大正14)年、4月に蔦温泉に移り住むが、胃潰瘍のため死去、57歳。

道道656号湧別停車場サロマ湖線とは、紋別郡湧別町を結ぶ一般道道で、総距離は13.0km。

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