オムサロ遺跡公園住所 紋別市渚滑町川向153番地開園期間は、4月下旬〜10月下旬 社団法人紋別観光協会 紋別の由来は、市内中央部を流れる藻鼈川(もべつかわ)を指すアイヌ語の「モン・ペット」(静かである・川)からきている。「オホーツク紋別」または「北見紋別」と呼んで区別することが多い。これは、日高支庁の旧門別町(現・日高町)と読みが同じだったためである。 国道238号線を紋別から雄武町に向かうと海側にオムサロ原生花園があり、国道をを挟んだ反対側に「オムサロ遺跡公園」がある。 オムサロ台地竪穴群と言い、オムシャリ沼と渚滑川の間にある、標高10〜15メートルの海岸段丘上にある。 竪穴住居の跡が、A遺跡60個・B遺跡57個・C遺跡91個、計208個で構成されている。 縄文時代の早期から続縄文時代・オホーツク文化期・擦文時代・中近世のアイヌ文化期と、一万年ほどにも及ぶ各時代の住居跡や墓などが残っている。 オムサロ台地竪穴群南端のC地区を中心に、約千年前の擦文時代の様子を再現していて、竪穴住居や高倉が復元されている。 特に住居跡は、擦文時代の四角い竪穴住居の跡が多く、1964(昭和39)年10月3日に、北海道指定史跡に指定されている。 発掘調査の様子など紹介している資料室があり、花の写真や解説、土器なども置いてある。 このオムサロ遺跡公園には、第二次世界大戦の終わりころ、北の防備のため構築したざん壕(ごう)も残されている。 ちょっとミスマッチな所が、なんともいえませんね。 ここには展望台もあり、オホーツクが見渡せとても綺麗である。 縄文時代とは、今から約1万6500年前(紀元前145世紀)から約3000年前(紀元前10世紀)頃までをいい、日本列島で発展した時代。 世界史では、中石器時代〜新石器時代に相当する時代。 「縄文」という名称は、エドワード・S・モースが、1877(明治10)年に大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery と報告したことに由来し、その後「索紋土器」(さくもんどき)と訳されたが、「縄紋土器」と改め「縄文土器」となった。 縄文時代は、草創期(約1万5000〜1万2000年前)・早期(約1万2000〜7000年前)・前期(約7000〜5500年前)・中期(約5500〜4500年前)・後期(約4500〜3300年前)・晩期(約3300〜2800年前)の6期に分かれている。 研究当初は、前・中・後の三区分だったが、発掘資料の増加や研究技術の進展によって早期、晩期が加わり、最後に草創期が加えられた。 エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse)とは、1838年6月18日 - 1925年12月20日)アメリカの動物学者。 標本採集に来日した際、請われて東京大学のお雇い教授を2年務めた。大森貝塚を発掘したことでも有名。 続縄文時代とは、北海道を中心に紀元前3世紀頃から紀元後7世紀(弥生時代から西暦700年の古墳時代)にかけて続いた時代。縄文時代から引き続くものとして名づけられた。 続縄文文化の人々は竪穴式住居に住み、狩猟と漁労を中心に、採集と原始的栽培も行ったと考えられている。 アワ・キビ・ヒエ・ソバの存在から、これらの穀物を栽培していた可能性が高い。 この時代の後期である5世紀あたりから、樺太から北海道のオホーツク海沿岸にかけてオホーツク文化が定着したが、続縄文文化とは異質の文化をもっていた。 オホーツク文化とは、6世紀〜11世紀のおよそ500年間、日本では古墳〜平安時代に相当する。 1913(大正2)年、網走川河口左岸網走市北1条東から北3条東にかけてあるオホーツク文化の代表的遺跡である、モヨロ貝塚を発見する。 オホーツク海周辺に栄えた文化は、発見した土器から縄文文化ともアイヌ文化とも異なる文化の遺跡ということが後に明らかとなる。 当時のアイヌ人がモヨロ・コタンと呼んでいたことから、1918年(大正7年)米村喜男衛(発見者)によってモヨロ貝塚と付けられ、1936(昭和11)年12月16日に国の史跡に指定された。 オホーツク文化はやがて、擦文文化へと吸収され、アイヌ文化へも受け継がれていくことになるのである。 擦文時代とは、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて、北海道を中心とする地域で栄えた時期である。 この時代、9世紀(平安時代前期)まで、擦文文化と並行してオホーツク文化が広がっていた。 オホーツク文化は、3世紀から13世紀まで、北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた文化で、同時期の続縄文文化や擦文文化とは異質の文化だと言われている。 なお、トビニタイ文化に関しては、ここでは触れないでおきます。 アイヌ文化とは、伝統的なアイヌ文化と見なされる生活様式が確立されるのは、13世紀(鎌倉時代後半)〜14世紀ころから現在に至る文化である。 北海道や東北地方北部の先住民が擦文文化期後に生み出した文化様式を指し、擦文文化期の終わりに全く別の民族がアイヌ文化を形成したわけではない。 13世紀後半の中国の資料には、アムール川下流域に勢力を伸ばしてきた「元」と、交易上のトラブルが原因で交戦したという記録も残っている。 国道238号とは、網走市から稚内市に至る一般国道で、総距離319.7km。 大きな地図で見る |