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六号野上駅逓跡

住所 紋別郡遠軽町野上

遠軽町

紋別の由来は、藻鼈川(もべつかわ)を指すアイヌ語の「モン・ペット」(静かである・川)からきている。
遠軽町の由来は、瞰望岩(がんぼういわ)を指し、アイヌ語「インガルシ」(見晴らしの良いところ)で、2005(平成17)年10月1日、生田原町・丸瀬布町・白滝村と合併し、新たに遠軽町がスタートした。
国道333号線と国道242号の交差点から丸瀬布方向に約400mほど左手に側道がある。
1891(明治24)年、ロシアの南下に備えた北方警備と北見地方の開拓を目的に開削された中央道路は、札幌から北海道の中央部を縦貫してオホーツク沿岸に達する路線であり、北海道集治監、特に網走監獄の囚人の労役によって完成したもので、この旭川〜網走間(約225km)の道路が整備されたことにより、1892(明治25)年3月網走の一号越歳駅逓をはじめとして旭川の十二号駅逓まで中央道路沿いに十二カ所駅逓が順次設置された。
地名のわからない個所もあり、第何号と数字で呼称され、取扱人が着任するまでの間、鍋やストーブを備えた無人休泊施設として利用にされたようである。
六号野上継立所も1892(明治25)年10月ころ建築されたもので、湧別基線道路との岐点から離れており、若干不便な場所に位置していたようである。
11月に開業し、取扱人は、当時の紋別郡モベツ村(現・紋別市)で酒造業を営んでいた笛田茂作が選任されたが、翌1893(明治26)年7月に取扱人の笛田茂作が死亡し、角谷政衛が二代取扱人に任命された。これが遠軽町に初めて住んだ和人であり、遠軽地方の開拓の基礎を作った人と言えるだろう。
野上駅逓の用地は600坪(1980平方m)、駅舎は木造平屋で野坂良吉の請負で建設、畳建具つきで当時の金額で560円の建築費だった。
1913(大正2)年7月、六号駅逓は下生田原(現・安紋別郡遠軽町生田原安国)に移し、1914(大正3)年、10月湧別軽便線の留辺蘂駅〜下生田原駅間が開業し、1915年(大正4)年、4月に六号野上駅逓を下生田原駅逓と改称したが、逓送業務はなく、宿泊と丸瀬布や湧別方面への旅客・荷物の継立を行い「角谷旅館」とも呼ばれていた。
1915年(大正4)年、11月湧別軽便線の下生田原駅〜遠軽駅(現・社名淵駅)間が延伸開業し、それにあわせて道路も下生田原(現・安紋別郡遠軽町生田原安国)から湧別基線道路を通り、湧別〜紋別を経て名寄方面への往来が増え、中央道路を通り上川〜旭川方面に往来する旅行者逆に減少の一途を辿った。
1922(大正11)年、8月遠軽村役場前に下生田原駅逓遠軽出張所を開設し、1923(大正12)年、9月下生田原駅逓は廃止となった。同年10月遠軽出張所が「遠軽駅逓」となったが、1929(昭和4)年6月に廃止された。

碑文
明治二十五年に、中央道路と基線道路が完成され、北
見国より石狩国に通ずる内陸への交通が開かれるように
なって、網走から上川までの沿道は、うっそうとした樹
木に包まれる二二八キロの区間に、一二キロから一六キ
ロおきに駅逓舎を設けて交通の便が図られ、北見国には
越歳・端野・相の内・留辺蘂・佐呂間に続いて、この駅
逓が六番目に置かれていたから、別に「六号駅逓」とも
呼ばれた。
 駅舎は木造平屋で、一一三平方メートル、ここには宿
泊施設もあって、官馬七頭が配置され、旅行者の求めに
応じて、次の駅(滝の下)まで乗せた。
 荷物の運送は、主に駄馬送によったが、後に荷馬車を
使い、積雪期にはそりも利用され、また郵便路線は三段
階に分かれて、中央道路と基線道路は、三等路線区間に
なっていた。駄馬送は小包専送で、騎馬送及び人夫送は
小包・郵便の併送で、約六キロと決められていたが、こ
の駄馬送はこの駅逓にはなく、騎馬送と人夫送によった。
荷物の運送重量は、騎馬の場合三〇キロまで、人夫のと
きは一五キロまで背負うことになっていた。
 その後この駅逓は、湧別鉄道が大正元年に留辺蘂まで
開通し、交通は木町を通り、湧別・紋別を経て名寄方面
に行く者が増えたので、大正二年六月、安国に移転され
たものの、大正十一年、名寄線の全通によって同年六月
廃止されている。
 なお、この駅逓の取扱い人角谷政衛氏は、新潟県魚沼郡
神立村出身で、湧別から明治二十五年十一月、野上に移
住して来た。ここにおいて、本町に初めて和人の炊煙が
上がり、これが原野開発の糸口になった。
遠軽町史より
平成三年十一月一日建立
野上駅逓百年記念碑建設期成会

そばには6号野上駅逓の大木がある。当時この駅逓の取扱い人であった角谷政衛が天然エゾマツ苗とトドマツ苗を植栽したものだが、1本しか見当たらずトドマツは無いようである。


1669(寛文9)年、津軽藩隠密が蝦夷地を探索した津軽一統志に(ユウヘツ村300人ほど 大将シオサヌ)と「ユウへツ」の地名が収録される。
1800(寛政12)年、間宮林蔵がオホーツク沿岸の測量を行う。
1817(文化14)年、藤野家湧別浜で漁業経営する。
1846(弘化3)年、ユウベツの状況が松浦武四郎によって記述される。
1869(明治2)年、北海道開拓使設置。蝦夷を改め北海道とし、11国86群を設置。紋別郡は和歌山藩の支配地に定められる。
1870(明治3)年、和歌山藩、紋別郡の支配返上し開拓使の直轄になる。
1872(明治5)年、紋別郡は根室出張開拓使庁(松本判官)の所管となる。根室出張開拓使庁は根室支庁管轄となる。紋別郡は10ヵ村としユウベツ村と名付けられる。
1873(明治6)年、根室支庁網走出張所を設置し、紋別に分局設置する。
1875(明治8)年、漢字をあて「湧別村」となる。
1882(明治15)年、紋別郡は根室県の管轄となる。
1886(明治19)年、郡役所は道庁直轄となり紋別郡は根室支庁に属す。
1889(明治22)年、6月空知集治監の収監者が従事し、旭川〜湧別間の仮道路開削が始まる。
1890(明治23)年、釧路集治監、中央道路開削のため網走囚徒他役所建設に着手する。
1891(明治24)年、中央道路開削工事始まる。同年完成する。
1892(明治25)年、一〜六号駅逓開設する。六号野上駅逓取扱人笛田茂作となる。遠軽に初めて和人が定住する。基線道路中央道路に連結完成。
1893(明治26)年、4月八号駅逓設置する。取扱人は中沢沢治、駅逓地内に野菜を栽培白滝における農耕の始まり。道庁職員瞰望岩頂上に「双龍獄」の柱を建立する。
1899(明治32)年、遠軽で初めてハッカを栽培する。
1905(明治38)年、野上に「山神」の石碑建立する。
1906(明治39)年、湧別村役場二級町村制を施行。
1909(明治42)年、社名渕川沿道路開削する。網走〜遠軽間電信線架設する。
1910(明治43)年、湧別村を六号線以南を上湧別村にし、以北を下湧別と改称し分村、学田部落は上湧別村の行政下となる。学田部落を学田と遠軽に二分し市街地形成をする。瞰望岩頂上に開村記念碑建立する。
1911(明治44)年、軽便鉄道湧別線、野付牛〜湧別間建設決定する。
1913(大正2)年、野上駅逓が、下生田原(現・安国)に移転する。
1914(大正3)年、軽便鉄道湧別線、留辺蘂〜下生田原(現・安国)間が開通する。
1915(大正4)年、軽便鉄道湧別線、下生田原〜社名渕(後の開盛)開通し、遠軽駅開業する。
1916(大正5)年、開拓25周年記念式典挙行。瞰望岩頂上に開拓記念碑建立。遠軽神社創立する。軽便鉄道下生田原〜下湧別(後の湧別)開通し、全線開通する。
1919(大正8)年、上湧別村から分村し二級町村制施行し「遠軽村」となる。
1922(大正11)年、9月線路名を湧別軽便線から湧別線に改称する。石北線上川〜遠軽間鉄道の実測着手する。湧別川水力発電会社創立。6月名寄全線通により野上駅逓廃止となる。
1924(大正13)年、湧別川水力発電会社発電所完成。北海道薄荷製造株式会社設立、本道最初の薄荷油精製実施する。
1925(大正14)年、遠軽から生田原村分村する。社名渕駅逓所設置する。遠軽神社を村社とする。
1927(昭和2)年、10月新旭川駅〜上川駅間を石北西線に線名改称する。遠軽駅〜丸瀬布駅間が石北東線として開業し、瀬戸瀬駅開業する。
1932(昭和7)年、10月中越駅〜白滝駅間が延伸開業。湧別線の遠軽駅〜野付牛駅間を編入し、新旭川駅〜野付牛駅間を石北線と線名改称する。遠軽駅〜下湧別駅間を湧別線から削除し名寄本線(名寄〜遠軽〜中湧別〜下湧別)に編入する。
1934(昭和9)年、一級町村制施行し、遠軽町となる。
1940(昭和15)年、遠軽神社改築、神明造神殿完成する。
1946(昭和21)年、遠軽町から丸瀬布、白滝が分村する。
1949(昭和24)年、遠軽町営スキー場設置。
1951(昭和26)年、警察予備隊遠軽駐屯地誕生(後の陸上自衛隊遠軽駐屯地)。留辺蘂〜遠軽間に定期バス運行する。
1954(昭和29)年、瀬戸瀬温泉大量湧出する。
1956(昭和31)年、瀬戸瀬温泉株式会社にし、瀬戸瀬温泉旅館落成する。
1959(昭和34)年、寒河江遺跡発掘調査する。
1960(昭和35)年、国設瀬戸瀬山スキー場設置。
1962(昭和37)年、瀬戸瀬山スキー場にジャンプ台設置。
1963(昭和38)年、自衛隊隊舎落成する。遠軽町市街地区字名地番改正。
1972(昭和47)年、瞰望岩遺跡発掘調査する。
1973(昭和48)年、ロックバレースキー場開設。町営バス遠軽〜瀬戸瀬温泉間運行。
1976(昭和51)年、国道開削殉職者の碑建立。
1980(昭和55)年、瀬戸瀬発電所完成。
1988(昭和63)年、開拓記念碑(角谷政衛記念碑)建立する。
1989(平成元)年、4月名寄本線の廃線となる。代替バス運行。
1991(平成3)年、野上駅逓百年記念碑建立する。
1992(平成4)年、寒河江遺跡発掘調査開始。
1995(平成7)年、国産材需要開発センター「木楽館」完成。
1997(平成9)年、遠軽100年記念式典挙行。
2005(平成17)年、遠軽町、生田原町、丸瀬布町、白滝村の3町1村が合併。遠軽町となる。
2007(平成19)年、旭川紋別自動車道旧白滝〜丸瀬布IC間開通する。
2008(平成20)年、8月奥白滝IC開通。
2009(平成21)年、12月白滝IC〜旧白滝出入口間開通。同時に旧白滝出入口廃止。金八トンネル(丸瀬布〜紋別市鴻之舞)開通。
2011(平成23)年、瞰望岩が国の名勝「ピリカノカ」に認定。白滝遺跡群出土品が国の重要文化財に指定される。
遠軽町百年史参考

網走〜旭川の間には、12箇所の「駅逓」が在った。
駅逓には駅逓名と号数がつけられており、下のようになる。
1号 越歳 (こしとし)第壱号越歳駅逓跡
2号 端野(たんの)または緋牛内(ひうしない) 緋牛内第2号駅逓跡
3号 相内(あいのない)
4号 留辺蘂(るべしべ)四号駅逓跡
5号 佐路間(さろま)佐路間五号駅逓所跡
6号 野上(のがみ 瀬戸瀬)または下生田原
7号 滝下 (たきのした 丸瀬布)
8号 滝上(たきのうえ 白滝)
9号 中越 (なかこし 上川)
10号 越路 (こしじ 上川)
11号 伊香牛(いかうし 当麻)または下愛別
12号 旭川または永山

駅逓とは、宿場から宿場へ荷物を送り届けることで、宿(しゅく)つぎ。馬つぎとも言われた。
当時開拓のために北海道にやってくる人や、旅をしている人に宿泊所として使われたり、または人や馬を貸し出したりしていて、北海道独特の制度だったそうで、郵便の仕事も取りあつかっていたそうだ。
運営には半官半民の請負制がとられ、運営者は取扱人(とりあつかいにん)と呼ばれた。
北海道内には全部で238駅、配置されていた馬の数は2835頭にもなったそうだ。
1946(昭和21)年には制度自体が廃止になった。

中央道路とは、南下政策をとるロシアの脅威から、日本を守るという軍事上の理由から、人を運び物を運ぶための道路を作らなければならなかった。
完成を急いだ政府が突貫工事を指令、これらの工事に使役されたのが当時の集治監の囚人たちで、中央道路開削工事のため1890(明治23)年、1200人もの囚人と看守173名が送り込まれた。
1891(明治24)年、旭川〜網走を結ぶ中央道路の建設を急ぎ、石狩側は忠別太(旭川)からエーカウス(伊香牛)間を空知集治監が開鑿し、10月に完成、死亡者は54名。
伊香牛から上越間は民間の請負だったそうだ。
1891(明治24)年、北見側からも釧路集治監網走外役所の囚人を使役し開削工事に着手した。
囚人が泊まり込みで作業するための小屋が各所の現場に作られ、その小屋に移動しながら開鑿していった。この小屋が「仮監」であり、監獄部屋である。
難工事に動員された囚人は、人跡未踏の原始林や原野を人力のみで切り開き、昼夜兼行で強行された。
逃亡を防ぐため囚人は重罪人と軽犯罪の二人一組とし、その一人には4kgの鉄の重りが足に付けられ鉄の鎖でつながれていた。
わずか1年たらずで、網走から北見峠までの約162.7kmが開通する突貫工事で、工事現場が山中深く移動するにつれ食料運搬がうまく行かなくなり、栄養も十分に取れず水腫性脚気が蔓延、苛酷な労働により相次ぎ亡くなった犠牲者は網走〜上越監で211名、死んだ囚人たちは、現場近くの道端に埋葬され目印に鎖を墓標のそばに置いたことから「鎖塚」と呼ぶようになった。

現在の道路に当てると、網走市から網走湖西岸道道104号線をとおり、端野地区〜北見市街〜留辺蘂地区は国道39号線、留辺蘂地区〜佐呂間町花園間は道道103号線で、丸山峠頂上から100メートルほどに中央道路開削犠牲者慰霊之碑がある。
佐呂間〜生田原町(現・遠軽町生田原)間は共立峠、生田原町(現・遠軽町生田原)〜遠軽町〜丸瀬布町(現・遠軽町丸瀬布)〜白滝村(現・遠軽町白滝)〜北見峠は国道333号線までがほぼ当時の経路となっている。
北見峠からは国道333号線〜上川まで国道273号線、上川〜旭川まで国道39号線の経路と見られる。

間宮林蔵(まみやりんぞう)とは、1780(安永9)年〜1844(天保15)年2月26日(4月13日)江戸時代後期の隠密、探検家である。
農民出身であり、幕府隠密をつとめた役人で、近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。蝦夷地(北海道)に長く住み、アイヌ語も理解できたようで、23年もの間、北海道を中心として活躍していたそうだ。
伊能忠敬から測量法などをさらに学び、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」(だいにっぽんえんかいよちぜんず)の北海道部分を完成させていることも大きな業績の一つ。
1799(寛政11)年、南千島に派遣され同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び、1803(享和3)年、西蝦夷地を測量した。
1808年(文化5)4月13日、幕府から命を受けた、当時29歳の林蔵は松田伝十郎とともに、第1次樺太探検に出発する。
このとき、林蔵は墓石を海岸に建てたそうで、探検がどれほど過酷なもので、覚悟決めての出航だったかを思わせます。
同年7月13日、第2次樺太探検のため、アイヌの船で単身出発し、トンナイ(旧真岡付近、現・サハリン州ホルムスク)で冬を越し、1809(文化6)年、5月に樺太を北上、樺太北端のナニオー(現・サハリン州ルポロボ)まで踏査して樺太が島であることを確認した。
樺太北部にはアイヌ語が通じないオロッコと呼ばれる民族がいることを発見し、その生活の様子を記録に残している。
この時の探検地図が、後にシーボルトによって紹介され、樺太北部と大陸の間が「間宮海峡」と命名されたそうだ。
蝦夷地の測量は1822(文政5)年まで続けらた。

松浦武四郎とは、1818(文化15)年2月6日(3月12日)〜1888(明治21)年2月10日没
江戸時代から幕末・明治時代にかけて活動した日本の探検家、浮世絵師。
蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案し「北加伊道」とつけた、後の北海道です。
1845(弘化2)年、初めて蝦夷地を訪れる。
この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人を名乗って東西蝦夷地を探検し、『初航蝦夷日誌』を残している。
1850(嘉永3)年に3回の調査の記録を「初航蝦夷日誌」(全12冊)、「再航蝦夷日誌」(全14冊)、「三航蝦夷日誌」(全8冊)という題でまとめている。
これらの日誌には、蝦夷地の地形・地名・動植物・アイヌ民族の姿・松前藩による蝦夷地支配の実態などが詳細に記録されている。
個人として3度、幕府の役人として3度、計6度の蝦夷探検の膨大な記録が残っている。

石北本線とは、旭川市の新旭川駅から北見市の北見駅、網走市の網走駅を結ぶ北海道旅客鉄道の鉄道路線。
北見峠を越える石北線が、1932(昭和7)年に全通し、旭川から北見・網走方面を結ぶ最短経路の鉄道が開通した。
1911(明治44)年、9月網走線の淕別駅〜野付牛駅間開業。
1912(大正元)年、11月湧別軽便線の野付牛駅〜留辺蘂駅間が開業。10月網走線の野付牛駅〜網走駅間が延伸開業し、池田駅〜網走駅間が全通。11月池田駅〜野付牛駅〜網走駅間を網走本線に改称する。
1914(大正3)年、10月野付牛駅〜留辺蘂駅間を留辺蘂軽便線と改称する。湧別軽便線の留辺蘂駅〜下生田原駅間が開業し、常紋信号所ほかを新設。
1922(大正11)年、9月軽便鉄道法廃止により湧別線に線名改称する。10月遠軽駅〜野付牛駅間を区間分離し石北線に編入する。11月石北線として新旭川駅〜愛別駅間が開業。
1927(昭和2)年、10月新旭川駅〜上川駅間を石北西線に線名改称する。遠軽駅〜丸瀬布駅間が石北東線として開業。
1932(昭和7)年、10月中越駅〜白滝駅間が延伸開業。湧別線の遠軽駅〜野付牛駅間を編入し、新旭川駅〜野付牛駅間を石北線と線名改称する。
1961(昭和36)年、4月網走本線として北見〜網走間を分離、石北線と統合して新旭川〜網走を石北本線に改称する。
1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化によりJR北海道に継承される。
1992(平成4)年、3月全線で普通列車のワンマン運転開始。

名寄本線とは、日本国有鉄道(国鉄)、北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営していた鉄道路線。
名寄駅で宗谷本線から分岐、紋別市を経て遠軽駅で石北本線に接続する本線と、中湧別駅で分岐し湧別駅に至る支線からなっていたが、1989(平成元)年に廃止された。
1919(大正8)年、10月名寄線として名寄〜下川間の鉄道が開通する。
1920(大正9)年、10月名寄線、下川〜上興部間の鉄道が開通し、一ノ橋・上興部の各駅を新設する。
1921(大正10)年、3月線路名を名寄西線に改称。10月線路全通に伴い線路名を名寄線に改称。
1923(大正12)年、11月名寄線を名寄本線と改称。
1948(昭和23)年、6月営林局専用の側線を新設する。
1950(昭和25)年、新下川鉱山が下川駅まで索道設置。
1962(昭和37)年、下川鉱山がトラック輸送に切り替え、索道廃止。
1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化によりJR北海道に継承される。
1989(平成元)年、4月名寄本線の廃線に伴い廃止となる。

国道333号線とは、旭川市から北見市に至る一般国道で、旭川市の起点から上川町までは国道39号、そこから紋別市方面への分岐までは国道273号との重複区間となる。総距離は173.3km。

国道242号線とは、網走市から帯広市に至る一般国道で、総距離は283.9km。
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