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計呂地交通公園

住所 紋別郡湧別町計呂地2620番地

湧別町観光協会

紋別の由来は、市内中央部を流れる藻鼈川(もべつかわ)を指すアイヌ語の「モン・ペット」(静かである・川)からきている。「オホーツク紋別」または「北見紋別」と呼んで区別することが多い。これは、日高支庁の旧門別町(現・日高町)と読みが同じだったためである。
湧別町の由来は、アイヌ語の「ユペ」(鮫の意)から、2009(平成21)年10月5日に上湧別町と湧別町が合併し、現在の湧別町となった。
計呂地(けろち)の由来は、アイヌ語の「ケイ・ラツ」(サケの皮の靴を忘れた所)「ケレ・オチ」(非常に削られた所)など、後者が正しいのかもしれない。
国道238号線沿いにあり、道の駅 愛ランド湧別から約3.3km。道の駅 サロマ湖から約9.2km。

計呂地交通公園は、1987年(昭和62年)3月20日に廃駅となった旧湧網線の旧計呂地駅をそのまま保存した公園で、1988(昭和63)年に整備を行い、1989(平成元)年6月に開設された。
レール、ホーム、旧計呂地駅舎は現役当時のまま保存され、鉄道資料室及び公園管理棟となっている。
管理人は常駐しておらず、鉄道資料展示室を見るためには電話して鍵を開けてもらう必要がある。展示室には、計呂地駅で使われていた駅名標や時刻表、各種鉄道用具などが展示されている。

屋根つきのホームに横付けする形で「C58形蒸気機関車139号機」が展示されており、SLに連結した客車と元保線区詰所であった「駅長の家」と「客車」スハ45は車内改装(簡易宿泊施設)され、宿泊することができる。

開設期間は5月1日から10月31日まで。
TEL 090-7051-5656
料金 駅長の家は、大人500円、子ども250円・客車は、大人300円、子ども150円
管理人は常駐していないので、電話して鍵を開けてもらう必要がある。
交通公園内にはサンゴ草群生地があり、遊歩道が整備されている。花の見頃は9月中旬〜10月初旬。

駅構内には湧網線と計呂地の経緯が記載された「鉄道記念碑」が建立されている。
鉄道記念碑
四面ある側面ニ面に碑文が書かれている。
こちらの写真は、Bojan International様から提供して頂きました。ありがとうございます。
 
碑文
鉄道記念碑
湧網線開通までの経過
明治33、10 網走・常呂・紋別三郡で北見鉄道期成会を結成
      下湧別で第一回大会を開き運動の展開はじまる
大正8、11 中湧別開発期成会結成、道庁、札幌鉄道局に陳情
  10、10 中湧別で沿線五ヶ町村連合大会開催、本線促進の宣言決議
  12、9 上京運動中関東大震災で書類焼失
  14、2 第八回帝国議会に請願採択となる
昭和2、8 測量開始
  6、12 中湧別で連合大会、実行委員をあげて鉄道省に陳情
  7、5 三十余年の根強い運動により着工となる
  10、10 中湧別-計呂地間が開通し、待望の開通式挙行される
    期成会下湧別代表 大口丑定 藤永栄槌 大沢重太郎
交通公園完成を記念し、先人の労苦を偲び、その遺業を讃え、次代の人々
に鉄道の歴史を伝え更に郷土の発展を念じ鉄道記念碑を建立する
平成三年五月一日建立 寄贈者計呂地自治会長渡辺豊春


計呂地駅の沿革
昭和10、10、20 計呂地駅開業「中湧別-計呂地間」終着駅として折返し運転
  11、10、17 佐呂間まで延長
  23、11、15 殉職事故発生、浪江良武40才「駅構内三番線荷物授受中」
  28、10、12 湧網線全通
  30、12、25 客貨分離の輸送となり、レールバス〇三型運転
  33、11、30 本屋改築
  41、3、10 ディ−ゼルカー二一型、二二型運転
  47、2、8 営業近代化により荷物貨物取扱い廃止
  48、10、15 「花いっぱいコンクール」優良賞
  50、7、10 観光スタンプ作成
  50、8、7 SL廃止DE一〇型導入、通学生自転車置場新設
  53、10、1 ダイヤ改正夜間列車廃止
  59、7、10 入場券購入客に駅名入マスコットホタテ稚貝プレゼント
  61年度 入場券発売枚数六千枚
  62、3、19 サヨナラ列車見送式
  3、20 鉄道廃止による代替バス運行開始
歴代駅長 1勝本長一 2小掘勘之丞 3向沢喜一 4細川清次郎
5阿部六郎 6上野輝 7須田国男 8阿部五郎 9小林吉則
10長谷川信政 11小林実 12水野栄 13杉野義雄 14協 邁
15十河哲一 16大橋吉一 17宍戸忠悦 18野崎昇 19鵜野光雄

駅裏には、計呂地開拓百年記念碑がある。

計呂地の沿革
計呂地は湧別町役場から遠距離に
あって、東は佐呂間町、西は志撫
子に面し海抜四〇八、七米の計露
岳より源を発し幾つかの沢から合
流する計呂地川はサロマ湖に注い
でいる。
明治三十三年志撫子湖畔から十一
号に至る区画が測設され翌三十四
年に八十六区画が線引きされて貸
付告示を見たが、開基の模様は明
治三十七年測設に従事した藤永栄
槌が七戸分を出願入地、計呂地開拓
の第一先住者である。翌三十八年、
三十九年に長屋熊太郎、渡邊由太
郎、伊藤常吉、大澤三右ェ門、大
澤音吉、村井熊吉、如澤元蔵、な
どが入地その後年毎に入者が増加
大正初期には五十戸近くとなり、
昭和三十年戦後の復興等と二四六戸
をピークに高度成長に伴い都会へ
の流出離農と共に昭和六十年には
百十九戸に減少するも六十一年に
は開基八十五年を迎え幾多の記念
事業と盛大なる式典記念祝賀会を
開催し理想郷を築く決意を固め今
ここに百年の星霜を重ね多くの先
駆者のご苦労と英知に深く感謝し
この地に生きる誇りと喜びを胸に
栄光ある歩みを受け継ぎ決意を新
たに全員の氏名を記し建立する。
平成十三年八月一九日
湧別町計呂地
百年記念事業実行委員会

1685(貞享2)年、松前藩、宗谷場所を開設。
1706(宝永3)年、村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。
1785(天明5)年、最上徳内、幕府の命により国後、択捉島へ向かい調査する。和人の越冬が始まる。 佐藤玄六郎従者1人を伴いオホーツク沿岸知床迄踏査検分課「蝦夷拾遣」に「ユウベツ川」のこと書かれる。
1798(寛政10)年、近藤重蔵、最上徳内らが択捉島に渡り「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。谷口青山「ユウベツ」写生図を描く。
1801(享和元)年、磯谷則吉が宗谷・斜里間踏査6月9日に「ユウベツ」に泊る。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。津軽藩兵100名斜里警備のため派遺された最上徳内が指揮をとる。 宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、津軽藩に代わり会津、仙台藩の兵1500人が蝦夷地に派遣される。間宮林蔵ら、樺太探検のため宗谷を出帆。柏屋喜兵衛(後の藤野)、坪田佐平、西川準兵衛が共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。
1855(安政2)年、幕府、松前・江差地方を除く全島を直轄。東蝦夷地は仙台藩の警備地となる。日露通好条約を結び、国境を択捉島とウルップ島の間に決める。 1869(明治2)年、8月蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定める。9月場所請負人を廃止し、10月漁場持と改称。北蝦夷地を樺太と改称。
1871(明治4)年、5月開拓使庁を札幌に開き、函館・根室の出張所を出張開拓使庁と改称する。判官松本十郎、北見国を視察する。
1872(明治5)年、網走管内斜里・網走・紋別に戸長を置き、ユウベツ村と名付けられ、紋別戸長管下に置かれる。
1875(明治8)年、ユウベツ村を「湧別」と漢字に改める。
1882(明治15)年、開拓使を廃し函館・札幌・根室の3県を置く。半沢真吉が湧別に移住する。その後長沢伊助・徳弘正輝来住する。
1883(明治16)年、湧別駅逓設置し、和田麟吉が取扱人となる。
1891(明治24)年、4月網走分監による網走〜上川間の道路開さく着工し、同年末完成「中央道路」と呼ばれる。
1892(明治25)年、野上〜湧別間の湧別街道開通し、野上・丸瀬布・白滝に駅逓設置する。湧別郵便引継所開設する。湧別原野の貸付出願始まる。
1896(明治29)年、湧別原野貸付告示さる。永山より薄荷の種根を移入し西1線にて試作する。湧別神社創建する。
1897(明治30)年、紋別外9ヶ村戸長役場から分離し、湧別戸長役場設置する。湧別屯田4.5中隊に200戸入植。
1898(明治31)年、湧別屯田4.5中隊199戸入植。湧別〜紋別間の道路開通。
1900(明治33)年、芭露原野、計呂地原野区割。このころ登栄床地区の中番屋の外海側に定置の番屋があり、小樽の人で大三の屋号で藤山要吉が経営していた。
1902(明治35)年、芭露簡易教育所設置。 7号線〜計呂地間道路開鑿される。(網走道路)
1906(明治39)年、2級町村制施行。
1907(明治40)年、計呂地簡易教育所設置する。床丹駅逓設置する。湧別漁業組合設立する。芭露原野道路開鑿する。
1910(明治43)年、6号線以南を上湧別村に分割し以北を下湧別村と改称する。上湧別村創立する。
1916(大正5)年、11月湧別線鉄道全通する。
1917(大正6)年、4月17日に播摩栄之助が、サロマ湖のカキを獲る目的で中番屋に移り、永住のため家を建てた。冬のサロマ湖の氷上でカキを採取する漁法を、播摩栄之助が開発してからは永住目的の移住者も多くなり、大正中期ころまでは、カキを獲って生計を立てていたがその後、外海のホタテ漁と合わせ行うようになった。湧別亜麻工場設立する。
1919(大正8)年、甜菜試作される。佐藤弥助・吉田新三郎が造田試作する。
1921(大正10)年、大町桂月来遊し三里浜から常呂迄の道路を竜宮街道と命名。名寄線全通する。
1923(大正12)年、11月名寄線を名寄本線と改称。
1929(昭和4)年、村内区名を字名に改める。湖口の掘削によりサロマ側は外洋性の湖となり、名産の天然カキが次第に減少した。
1932(昭和7)年、湧別線の遠軽駅〜野付牛駅間を編入し、新旭川駅〜野付牛駅間を石北線と線名改称する。
1935(昭和10)年、10月中湧別〜計呂地間を湧網西線として新規開業し、芭露・計呂地駅を新設。網走〜卯原内間を湧網東線として新規開業し、二見ヶ岡・卯原内駅を新設する。
1936(昭和11)年、10月計呂地〜中佐呂間を延伸開業し、床丹・中佐呂間駅を新設する。卯原内〜常呂間を延伸開業し、能取・常呂駅を新設する。
1940(昭和15)年、1級町村制施行。
1947(昭和22)年、開村50周年記念式典挙行。上芭露・東芭露・西芭露・計呂地・登栄床に電気が点る。
1950(昭和25)年、牡蛎養殖事業開始。中湧別〜東芭露間バス運行開始、町営となる。遠軽〜上芭露間に北見バス運行する。
1952(昭和27)年、湧別観光協会発足する。サロマ湖養殖組合が宮城県より種カキを移植して試験を始める。中湧別〜若佐間(計呂地経由)町営バス運行開始する。
1953(昭和28)年、町制施行・湧別町となる。10月湧網東線を湧網西線に編入し湧網線全通する。
1965(昭和40)年、ホタテ稚貝の越冬技術が開発され垂下育成養殖が始まる。
1966(昭和41)年、サロマ湖灯台竣工する。東芭露〜西芭露連絡道路自衛隊工事で完成する。
1971(昭和46)年、町が大町桂月の詩碑を竜宮台に設置。
1972(昭和47)年、登栄床小学校を湧別小学校に統合。円山、登栄床地区湖畔が自然休養林指定。芭露〜計呂地間の町営バス運行開始。
1974(昭和49)年、湧別〜登栄床間町営バス運行開始する。
1980(昭和55)年、登栄床漁港整備完成。
1982(昭和57)年、開基100年記念式典挙行。湧別漁港第2種漁港に昇格。芭露漁港第2種漁港に指定される。
湧別町史参考

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