端野町歴史民俗資料館住所 北見市端野町二区471番地5TEL 0157−56−2560 開館期間 5月1日〜11月7日 休館日 毎週月曜日(祝日は開館) 開館時間 10時〜16時 料金 大人120円、小中学生20円、小学生未満無料 北見観光協会 北見市の由来は、松浦武四郎が命名した国名「北見国」からで、「北見」の由来は、この地方域の昔の通称が「北海岸」と呼ばれ、快晴の日に樺太が「見」える事から、一字ずつとったもの。 端野町の由来は、アイヌ語の「ヌッケシ」または「ヌフ・ウン・ケシ」(野の端)から。網走支庁管内の常呂郡に存在した町だが、2006(平成18)年3月5日に北見市、常呂町、留辺蘂町と新設合併し北見市となった。 国道39号線と国道333号線の交差点から約180mほど右手に市立端野図書館があり、その横に位置する。 1983(昭和58)年、5月に開設された施設で、1897(明治30)年、6月屯田兵第四大隊一中隊100戸が端野に入植。1898(明治31)年、屯田兵第四大隊一中隊100戸入植した屯田兵によって開拓された端野町。 館内の展示は、実物を移設した屯田兵屋、当時の歴史資料を中心とし、屯田兵と開拓者達の肖像画、農機具、1891(明治24)年中央道路(囚人道路)開削の史跡「鎖塚」の資料等が展示されていてテーマごとに分けられとても見やすくなっている。 この資料は、1971(昭和46)年頃より収集が行われはじめ、1980(昭和55)年に開拓資料収集委員会により収集されたものである。 まず入ってすぐにジオラマがあり、1911(明治44)年頃の端野の屯田兵村を再現したもので、当時は兵村一区、二区、三区に分かれていた。 中央道路と鎖塚 囚人につけられていた鎖と鉄丸を復元したものが展示されている。 中央道路とは、南下政策をとるロシアの脅威から、日本を守るという軍事上の理由から、人を運び物を運ぶための道路を作らなければならなかった。 完成を急いだ政府が突貫工事を指令、これらの工事に使役されたのが当時の集治監の囚人たちで、中央道路開削工事のため1890(明治23)年、1200人もの囚人と看守173名が送り込まれた。 1891(明治24)年、旭川〜網走を結ぶ中央道路の建設を急ぎ、石狩側は忠別太(旭川)からエーカウス(伊香牛)間を空知集治監が開鑿し、10月に完成、死亡者は54名。 伊香牛から上越間は民間の請負だったそうだ。 1891(明治24)年、北見側からも釧路集治監網走外役所の囚人を使役し開削工事に着手した。 囚人が泊まり込みで作業するための小屋が各所の現場に作られ、その小屋に移動しながら開鑿していった。この小屋が「仮監」であり、監獄部屋である。 難工事に動員された囚人は、人跡未踏の原始林や原野を人力のみで切り開き、昼夜兼行で強行された。 逃亡を防ぐため囚人は重罪人と軽犯罪の二人一組とし、その一人には4kgの鉄の重りが足に付けられ鉄の鎖でつながれていた。 わずか1年たらずで、網走から北見峠までの約162.7kmが開通する突貫工事で、工事現場が山中深く移動するにつれ食料運搬がうまく行かなくなり、栄養も十分に取れず水腫性脚気が蔓延、苛酷な労働により相次ぎ亡くなった犠牲者は網走〜上越監で211名、死んだ囚人たちは、現場近くの道端に埋葬され目印に鎖を墓標のそばに置いたことから「鎖塚」と呼ぶようになり、緋牛内には鎖塚慰霊碑、網走市二見ケ岡には国道創設殉難慰霊の碑など各地に慰霊碑が建てられている。 屯田兵 北方の警備と開拓のために、1897(明治30)年、6月屯田兵第四大隊一中隊100戸が端野に入植。1898(明治31)年、屯田兵第四大隊一中隊100戸入植したことに端野のルーツがある。その貴重な資料と、当時の建物である屯田兵屋を移設復元し展示されている。 当時端野には、200戸が建築され、1戸17坪5合、建築費は190円前後だった。兵屋の間口は5間、奥行きは3.5間、木造、柾葺、板壁の平屋造り。兵屋の使用材料は付近にあった雑木を利用した。この兵屋は三区にあったものを、1982(昭和57)年に移築し、復元したもの。 また、屯田兵の肖像画を見ることもできる。 1904(明治37)年屯田兵制度が廃止されるまで勤めを果たし端野の基礎を築いたのである。 薄荷の蒸留 端野の薄荷栽培は、1901(明治34)年に始まった。薄荷は端野の開拓と共に歩んできたもので、明治の末期には107haだったものが、1936(昭和11)年時点の耕作面積は1658haに達し、当時の世界の薄荷の80%が日本で耕作され、その80%が北見地方で栽培されていた。 このころは、端野のあちこちに蒸留釜が建設され、蒸留を行われていた。 展示してある薄荷釜は、この地方でも数少ない蒸篭型のもので、明治後期から大正にかけ使用されたものを復元したもので、2007(平成19)年近代化産業遺産に選定された。 農機具コーナー 端野の歴史を物語る上でなくてはならない農機具が数多く展示されている。 1891(明治24)年、中央道路開削工事始まる。(現・国道39号線) 1892(明治25)年、2号端野駅逓が設置される。(現・北見市端野町二区657) 1897(明治30)年、6月屯田兵第四大隊一中隊100戸が端野に入植する。(現・端野町字一区に33戸・字二区に34戸・字三区に33戸)端野説教所で寺子屋授業が始まる。 1898(明治31)年、屯田兵第四大隊一中隊100戸入植する。(字一区に31戸・字二区に36戸・字三区に33戸)水稲試作始まる。 1900(明治33)年、端野神社仮宮建設する。 1901(明治34)年、寒河江直助がハッカ栽培を始める。 1903(明治36)年、端野説教所が無量寿寺となる。緋牛内〜美幌間道路工事着工。 1904(明治37)年、緋牛内〜美幌間道路開通。屯田兵制度終了。協和に西川貞次郎入地。 1905(明治38)年、2月中央道路との合流点に移転し、緋牛内駅逓所と改称した。石川庄吉ほか数名が川向に入植する。 1909(明治42)年、2級町村制施行し「野付牛村」となる。 1912(大正元)年、10月網走本線開通、国有鉄道の駅として端野駅・緋牛内簡易駅開業。(現・石北本線) 1915(大正4)年、1級町村制施行し「野付牛町」となる。 1921(大正10)年、野付牛町から分村し2町村「端野村」となる。 1922(大正11)年、端野村役場庁舎を新築する。 1923(大正12)年、端野神社が現在の場所に移転する。 1933(昭和8)年、端野駅舎改築する。 1937(昭和12)年、端野神社社殿新築する。 1950(昭和25)年、端野村役場新築する。 1961(昭和36)年、9月町政施行し「端野町」となる。 1976(昭和51)年、鎖塚供養碑建立する。 1979(昭和54)年、道立北見商業高校開校。白かば台スキー場開設。 1983(昭和58)年、歴史民俗資料館オープン。 1985(昭和60)年、端野駅無人化。 1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化によりJR北海道に継承。 1989(平成元)年、メビウススキー場オープン。 1991(平成3)年、端野駅舎新築オープン。 1993(平成5)年、国道333号線「端野トンネル」開通する。 1997(平成9)年、森と木の里キャンプ場オープン。 1998(平成10)年、温泉「のんたの湯」オープン。 2006(平成18)年、北見市、常呂町、留辺蘂町と市町村合併し、北見市端野となる。 新端野町史参考 |