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温根湯温泉

住所 北見市留辺蘂町温根湯温泉

北見観光協会

北見市の由来は、松浦武四郎が命名した国名「北見国」からで、「北見」の由来は、この地方域の昔の通称が「北海岸」と呼ばれ、快晴の日に樺太が「見」える事から、一字ずつとったもの。
留辺蘂の由来は、アイヌ語の「ルペシペ」道・それに沿って下る・もの(川)が由来。2006(平成18)年3月5日に北見市、常呂町、留辺蘂町と新設合併し北見市となった。
温根湯の由来は、アイヌ語の「オンネ・ユ」(大きな・お湯)。
国道39号線から無加川方向に約350mほど。

温根湯温泉(おんねゆおんせん)は、国道39号線から無加川をはさんで旅館やホテルが立ち並ぶ。
現在は、温泉ホテルつつじ荘・温根湯ホテル四季平安の館・大江本家の3軒で、3軒とも日帰り入浴も可能で源泉かけ流し。
源泉名 温根湯温泉利用協同組合の組合1・2・3号混合泉。
泉質 単純硫黄泉(アルカリ性低張性高温泉)
泉温は53.7℃。PH9.1(アルカリ性)
浴用適応症 神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・うちみ・慢性消火器病・痔・冷え性・病後回復・疲労回復など


この温根湯温泉は、1891(明治24)年、中央道路開削に網走監獄の囚人を使役する。この頃から無加川縁に湯の出るところが知られていた。
1892(明治25)年、3月16日四号駅逓開駅したころに、当時、温根湯地区岩ノ下(現・大江本家の湯元附近)では、日本名「山中木(喜)蔵」と呼ぶアイヌがヨモギで作った拝み小屋に住んでいた。
アイヌが、狩猟の際にこの地に自然に湧出していた温泉を利用していたそうで、そのそばに割り板で囲った浴槽があったという。
山中木蔵というアイヌは、端野のアイヌコタンに住んでおり、冬になるとテン猟を主な仕事としていた。ペンケビバウシナイ(現・松山地区)が彼の縄張りだったため湯のある場所に拝み小屋を作っていたという。
1898(明治31)年、9月次男歴蔵とともに現地調査に入るため官設四号駅逓に宿泊した。
このとき取扱人の千葉新太郎氏が「ムカ原野にお湯の出るところがあるが何しろあまりの奥地でね」と言っていたのに着目、その後國澤喜右ヱ門・森重要吉らが温泉開発のため、武華(ムカ)原野(現・温根湯)に入植する。ムカ原野12号〜15号を牧場地として払い下げ出願する。湯量も多く泉質もいいことから右岸(元・花水荘側)の温泉出願を三男森重の名で出願。
1899年(明治32年)、國澤喜右ヱ門(三男森重)が温泉出願したものが許可される。右岸の湯元を山口県人、森重要吉の名義で浴用鉱泉免許を取り仮小屋を建てる、その後国沢旅館が前身で花水荘となるが倒産している。左岸(大江本家側)は、國澤喜右ヱ門の友人で、当時野付牛第一中隊の酒保をしていた大光寺直蔵に出願させ、1年遅れで許可を受けた。その後若夫婦が一時期仮小屋を作り入地したが、大密林の中で、熊や鹿の出没甚だしく彼らを見ていた國澤氏はいたたまれなくなり、屯田ニ中隊戸主だった大江清之助の父である、大江与四蔵に権利を譲渡しこれが大江本家の前身となり、この2つが温根湯温泉の開祖となるのである。
1901(明治34)年、滝の湯地区の温泉を国沢喜右衛門が出願。三男森重要吉の名義で武華原野に牧場40万坪の払下げを申請する。
1903(明治36)年、槇喜四郎が右岸に槇旅館を開業。
1905(明治38)年、払下げを受け武華原野に森重を入植させる。
1906(明治39)年、オンネナイ原野に開拓移民20余戸入植する。上枝平蔵、サロマ原野に入植する。
1911(明治44)年、大江与四蔵の長男佐之助が分家し、大江新旅館を開業する。
1912(明治45)年、留辺蘂駅が開設され、野付牛〜留辺蘂間の湧別軽便線(網走本線)が(現・石北本線)の鉄道が開通する。留辺蘂〜温根湯間に客馬車運行が開始される。
1913(大正2)年、相内屯田戸主井田三松の兄井田与三松が井田旅館を開業。
1915(大正4)年、野付牛から分村し、武華村が誕生。温根湯温泉神社が建立される。
1916(大正5)年、温根湯に水力発電所を新設、温根湯地区に電灯がつく。
1920(大正9)年、旭川にある第七師団転地療養所に指定される。終戦までは、旧陸軍第七師団の傷病兵の療養地として指定され、延4万5千人がこの温泉で療養した。
1921(大正10)年、留辺蘂〜温根湯間の自動車運行が開始する。(大江自動車)
1927(昭和2)年、二代目・大江与四太、温泉旅館大江本家の経営を引継ぐ。
1934(昭和9)年、12月大雪山国立公園指定される。
1950(昭和25)年、温根湯温泉観光協会設立し、大江啓二氏が常任理事に就任する。
1953(昭和28)年、国沢旅館が、法人化されて花水荘と名称を改める。
1957(昭和32)年、大雪国道(現・国道39号線)が開通。エゾムラサキツツジ群落が北海道指定天然記念物となる。
1972(昭和47)年、第一回つつじ祭り実施される。
1976(昭和51)年、地上8階、地下1階、客室数149室の近代的ホテルに生まれ変わった。しかし、この時投資した約10億円の大半を借り入れていたことと、不況による団体客の落ち込み、同業者との競争により売り上げが減少し経営不振となる。
1983(昭和58)年、温根湯つつじ公園完成する。
1984(昭和59)年、花水荘は一度行き詰まるが、再建を模索し営業を続ける。
1999(平成11)年、3月「花水荘グランドホテル」を経営する「花水荘」は、釧路地裁北見支部から破産宣告を受け、営業を停止、負債額は6億円とも言われている。同温泉で最古の歴史を持つ温泉で四代続く老舗は消滅した。
現在は、「源泉100%かけ流しの美白の湯の温泉郷」として温泉地のPRを強化し活性化を図っている。

1800(寛政12)年、幕府が蝦夷を直轄し、宗谷・斜里・樺太の3場所を藩直営とする。津軽、南部に命じ約500人を蝦夷に派遣させ、要所警備を行う。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。
1808(文化5)年、津軽藩に代わり会津、仙台藩の兵1500人が蝦夷地に派遣される。間宮林蔵ら、樺太探検のため宗谷を出帆。
1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。
1855(安政2)年、幕府、松前・江差地方を除く全島を直轄。東蝦夷地は仙台藩の警備地となる。日露通好条約を結び、国境を択捉島とウルップ島の間に決める。
1869(明治2)年、8月蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定める。9月場所請負人を廃止し、10月漁場持と改称。北蝦夷地を樺太と改称。
1871(明治4)年、5月開拓使庁を札幌に開き、函館・根室の出張所を出張開拓使庁と改称する。
1875(明治8)年、5月常呂郡7ヶ村は常呂村・鐺沸村・太茶苗村・手師学村・小牛村・生顔常村・野付牛村となる。
1877(明治10)年、3月網走分署を支庁直轄とする。
1880(明治13)年、7月網走村外3郡郡役所を網走村に設置し、網走・常呂郡戸長事務は郡長の兼拳とし、斜里・紋別郡に各戸長置く。この頃常呂に和人1戸・男2人女1人定住する。
1882(明治15)年、2月開拓使を廃し函館・札幌・根室の3県を置く。網走外3郡は根室県に所属する。
1890(明治23)年、4月北見道路の開削。空知監獄囚人により忠別太から開始する。
1891(明治24)年、4月網走分監による網走〜上川間の道路開さく着工し、同年末完成「中央道路」と呼ばれる。
1892(明治25)年、3月16日留辺蘂(4号)駅逓開駅、管理人・北村七平、取扱人は千葉新太郎となり入植。佐路間(5号)駅逓開駅、取扱人を永井友吉とする。
1895(明治28)年、留辺蘂(4号)駅逓が人馬の継立てを行い始める。
1897(明治30)年、野付牛村生顔常(モイコツネイ)村戸長役場を設置する。佐路間峠にあった四号駅逓を川向(現・宮下町)に移転、部落形成は川向から始まった。河原田万蔵がポン湯温泉出願許可される。
1898(明治31)年、國澤喜右ヱ門、森重要吉らが武華(ムカ)原野に入植。
1899(明治32)年、國澤喜右ヱ門が温泉出願し許可される。1年遅れで許可を受けた大光寺直蔵は、その後、大江与志蔵に権利を譲渡しこれが大江本家の前身となる。森重要吉の名義で浴用鉱泉免許を取り武華市街(現・温根湯温泉)に仮小屋を建てる。
1901(明治34)年、滝の湯地区の温泉を国沢喜右衛門が出願。三男森重要吉の名義で武華原野に牧場40万坪の払下げを申請する。
1905(明治38)年、払下げを受け武華原野に森重を入植させる。
1906(明治39)年、オンネナイ原野に開拓移民20余戸入植する。上枝平蔵、サロマ原野に入植する。
1911(明治44)年、11月佐路間(5号)駅逓を上佐呂間駅逓所に改称する。
1912(明治45)年、野付牛〜留辺蘂間の鉄道(現・石北本線)開通。
1913(大正2)年、富士見(現・富士見地区)に、久保内某が入植する。元町に留辺蘂郵便局を開設。
1914(大正3)年、常紋トンネル完工。森本某、元町に火力発電所新設、町に電燈が初めて点く。
1915(大正4)年、野付牛(現・北見市)から分村し、武華(ムカ)村が誕生し2級町村制施行。温根湯温泉神社が建立される。奔無加(現・金華地区)に鉄道員だった菊池茂七(その後運送業を営む)、大成造材の責任者である岩本太郎吉(その後独立して造材事業に従事する)が駅前に住みこの地区の草分けとなる。
1916(大正5)年、温根湯に高倉安次郎が水力発電所を新設、温根湯地区に電灯が点く。 温根湯郵便局開設。
1919(大正8)年、温根湯に森林鉄道を敷設するため測量が行なわれ、1920(大正9)年着工する。
1920(大正9)年、武華駅逓開設される。(現存する駅逓である)官行事業開始され、森林軌道敷設される。
1921(大正10)年、町制施行し、武華村を留辺蘂町と改称する。留辺蘂〜温根湯間自動車運行開始する。
1922(大正11)年、富士見駅逓が開設される。これが上武華駅逓(現・大和地区)取扱人は佐野松ヱ門。
1923(大正12)年、留辺蘂変電所(北海道電灯会社)が開設、市街及び温根湯に配電される。
1936(昭和11)年、留辺蘂金山本格採掘を開始する。本道を襲った大暴風雨により、武華山脈に五十万石を超える倒木が出て、これをパルプ用材として搬出することになった。
1938(昭和13)年、1級町村制が施行される。
1939(昭和14)年、9月野村鉱業(株)イトムカ鉱業所で精錬水銀を生産開始。
1940(昭和15)年、町内に23字を設置し、花園、瑞穂、丸山、宮下町、元町、東町、仲町、上町、栄町、豊金、大富、金華、昭栄、旭、温根湯、松山、花丘、平里、川北、大和、滝湯、厚和、富士見となる。
1957(昭和32)年、大雪国道開通(現・国道39号線)し、トラック輸送が始められ、森林鉄道は1960(昭和35)年廃止となる。
1958(昭和33)年、北見市泉の一部が留辺蘂町に編入される。
1962(昭和37)年、森林鉄道十字路線廃止。
1964(昭和39)年、開町50周年記念行事挙行。国道39号留辺蘂町内の舗装完了。
1966(昭和41)年、留辺蘂町役場新庁舎完成。
1969(昭和44)年、国民保養センター(町営温泉)が完成。
1970(昭和45)年、野村鉱業株式会社イトムカ鉱業所が企業縮小。
1971(昭和46)年、開拓資料館が開館。
1974(昭和49)年、公害問題によって水銀の需要が低下し、イトムカ鉱業所は採掘を中止した。滝ノ湯で温泉ボーリング成功する。8月野村鉱業株式会社よりイトムカ鉱業所の技術・設備などを買収し、水銀含有廃棄物の処理を中心に廃棄物処理事業を開始する。
1975(昭和50)年、2月野村鉱業株式会社が野村興産株式会社と変更。
1978(昭和53)年、4月山の水族館・郷土館完成。
1981(昭和56)年、イトムカ選鉱所を産業史跡として保存決定。町立滝の湯センター改築する。
1983(昭和58)年、温根湯つつじ公園完成。
1985(昭和60)年、野村興産(株)水銀含有廃棄物再資源実証プラント竣工。
1988(昭和63)年、留辺蘂町八方台スキー場オープン。
1991(平成3)年、温根湯温泉イベント広場完成。開基100年記念行事を挙行。
1994(平成6)年、大型トイレ「クリーンプラザおんねゆ」完成。
1995(平成7)年、「道の駅・おんねゆ温泉」指定を受ける。同エリアに「からくり王国」オープン。
1996(平成8)年、道の駅おんねゆ温泉「果夢林」オープン。
1998(平成10)年、道の駅おんねゆ温泉「果夢林の館」オープン。
1999(平成11)年、温根湯温泉・花水荘が破産宣告により営業停止。温根湯温泉開湯100年。
2001(平成13)年、富岡区と旭南町が合併。
2006(平成18)年、3月北見市、常呂町、留辺蘂町と新設合併し北見市となった。
2011(平成23)年、11月山の水族館・郷土館閉館。
2012(平成24)年、7月山の水族館リニューアルオープンする。
北見市史・留辺蘂町史参考

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