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北見ハッカ公園

住所 北見市仁頃町301-1
利用期間 5月1日から10月31日まで
利用時間 10時〜16時まで(7月1日から8月31日までは、9時30分〜16時30分まで)

北見観光協会

北見市の由来は、松浦武四郎が命名した国名「北見国」からで、「北見」の由来は、この地方域の昔の通称が「北海岸」と呼ばれ、快晴の日に樺太が「見」える事から、一字ずつとったもの。2006(平成18)年3月常呂郡留辺蘂町・端野町・常呂町と合併し新たに北見市となった。
仁頃町の由来は、アイヌ語の「ニコロ」(木々の多い沢、または川)から由来する。
国道333号線道道7号北見常呂線の交差点から常呂方向に約1.4kmほど。

道道7号線沿いにあり総敷地面積約4haのハッカ公園内には、修復移築された北見ハッカ黄金期の遺構、はっか商・五十嵐弥一氏の私邸ハッカ御殿がある。
7月下旬から8月下旬には紫色の花「エゾミソハギ」の群生が満開になり圧巻の美しさだ。
他にも駐車場の近くには、「仁頃湧水」がある。
元々水が出ている場所は違う場所だったらしく一時期水質悪化の為飲料禁止となっていたようだが、現在は飲料可となっている。
水汲み場は、以前は4ヶ所あったが現在は1ヶ所で水量は少ない。


仁頃町は野付牛村第二十部(ニコロ原野下)に含まれていたが、1916(大正5)年、4月野付牛村が一級町村制を施行し野付牛町となり、野付牛村字下仁頃部となり、端野村、相内村の分村、昭和になると下仁頃二区をとなり、1952(昭和27)年8月の字名改正により仁頃町となった。大和も野付牛村第二十部(ニコロ原野下)に含まれていたが、1916(大正5)年、野付牛村字下仁頃部となり、昭和になると下仁頃一区となり、1952(昭和27)年8月の字名改正により大和となった。ちなみに下仁頃三区は北陽となった。上仁頃は第二十一部(ニコロ原野上)の区域内に含まれ、1916(大正5)年上仁頃部になり、昭和になって上仁頃区となった。1952(昭和27)年8月の字名改正により上仁頃となった。
仁頃の開拓は、1908(明治41)年五十嵐助市が入植したことに始まる。この頃手師学(現・北見市常呂町字日吉付近)には駅逓所が設けられ、石橋藤衛門が取扱人だったようである。
1909(明治42)年に開削された北陽道路の起点である忠志、相内間道路下仁頃八号を中心に高木茂が酒雑貨屋をはじめたのが仁頃町市街の最初である。
1914(大正3)年には山口ヒサが旅館を始め、1916(大正5)年には商店の数が8〜9軒ほどになっていた。1921(大正10)年4月仁頃五号線から東を端野村として分割した。


ハッカ公園敷地内に薄荷蒸留小屋が、2004(平成16)年2月に完成した。
これは、薄荷により発展した北見の歴史的伝統農業施設の1つとして復元したもので、小屋には「田中式蒸留機」があり、かつての薄荷蒸留作業を再現することができ、薄荷蒸留の実演などを行い薄荷の歴史を伝えるものである。


北見田園空間情報センター「にっころ」
ハッカ公園の敷地内にある施設で、職員が常駐しており、要予約ではあるがパン焼き・味噌作りができる設備が整っている。この他にも、北見の歴史や文化を学習できる展示や写真パネルなどもある。
住所 北見市仁頃町291番地
予約、問い合わせ 0157-33-2877
営業日 火〜日曜日 9時〜17時

そばにはハッカが植えられていた。


ハッカは北見市を象徴する特産品で始まりは、1891(明治24)年福島県から渡辺精司が紋別郡モベツ村(現・紋別市)に到着し、 この湖辺にて野生のハッカを発見した。この野生種を刈り取り郷土の会津若松に送り含油量の試験依頼をする。その結果は、乾葉1貫目(約3.7kg)につき3匁6分というから約12gの精油を得たようである。
良種を得て栽培するなら必ず成功すると信じ、八方奔放するが当時の北見では入手は容易ではなかった。北海道庁や札幌農学校から石狩国上川地方に栽培地があると聞き、永山村(現・旭川市永山)にて山形県出身の某から薄荷根一貫目、金20銭の割合で六貫目を(約22.5kg)買い求め、これを苦心して中央道路を駄馬により駅送し、湧別村西一線七番地に持ち帰り、約一畝歩(約99.173 554 平方m)を植え付けた、これが1896(明治29)年5月下旬だったという。
こうして薄荷の栽培が年々増加し、北見市でも薄荷を1902(明治35)年、湧別村から買い入れ植え付けた。当時は交通運輸の不便なこともあり、雑穀のように搬出でき、費用の安いことも大きな魅力となり農家の殆どが自家用農作物を耕作した他は薄荷栽培をしたほどだったという。
その後、薄荷油が下落をしたこともありほとんどの農家で畑作に転じ、一時停滞したが昭和に入り薄荷が高値を付け栽培が盛んになり、当時世界一といわれた薄荷精製工場が北見市に設置された。この工場は1933(昭和8)年から工事が着工し、翌年1934(昭和9)年から操業開始した。
1939(昭和14)年まで盛んだった薄荷栽培も、翌年からは食料増産に全力を尽くさざる事情となり薄荷は一時中断することとなった。終戦後は外貨獲得の輸出品として北海道庁の奨励もあり耕作者が増加し、北見の薄荷が再興した。
その後改良種が出て含油率が飛躍的に高まったことから、北見地方の特産品となった。作付面積は1938(昭和13)年の2657町歩が最高だったようである。

1858(安政5)年、松浦武四郎が常呂川を遡り北見へ来る。
1869(明治2)年、蝦夷を北海道と改め11国96郡を設定、北見は常呂郡となる。
1872(明治5)年、常呂郡下に、トコロ村、チイウシ村、トウフツ村、ムエカホツネ村、フトチャンナヘ村、ノツケウシ村、テシマナイ村をおく。
1875(明治8)年、漢字をあて、常呂村、少牛村、鐺沸村、生顔常村、太茶苗村、野付牛村、手師学村となる。
1883(明治16)年、常呂村に、常呂郡を一円とする常呂村外6ヶ村戸長役場が設置される。
1891(明治24)年、中央道路開削工事始まる。(現・国道39号線)
1897(明治30)年、飯田義茂らが豊地に土地貸付を受けて入地する。5月土佐国(現高知県)の坂本直寛らを主宰者とする「北光社移民団」112戸が北光社農場を開設、平民屯田兵597戸が入植。6月屯田兵第四大隊一中隊100戸が端野に入植する。(現・端野町字一区に33戸・字二区に34戸・字三区に33戸)。7月常呂村外6ヶ村戸長役場より分離し、野付牛村外1ヶ村戸長役場設置。
1898(明治31)年、北光で水稲試作をするが結実せず。
1899(明治32)年、北光社でハッカ耕作する。
1902(明治35)年、野付牛(現・訓子府町)にてハッカ栽培が始まる。
1904(明治37)年、屯田兵制度終了。
1906(明治39)年、4月仁頃原野の華園農場に移民50戸入植する。野付牛(現端野町)でハッカ栽培が盛んになる。
1909(明治42)年、4月二級町村制施行に伴い、野付牛村、生顔常村が合併して常呂郡野付牛村となる。生顔常村は大字オケトウンナイと改める。
1911(明治44)年、2月市街地に稲荷明神小祠を建立する。福島県菊田市(現・福島県いわき市)五郎団長ら移民団体が上仁頃に入植。9月網走線(現・石北本線)の網走線の淕別駅〜野付牛駅間開業。野付牛駅開業。
1912(大正元)年、11月湧別軽便線の野付牛駅〜留辺蘂駅間が開業。10月網走線の野付牛駅〜網走駅間が延伸開業し、池田駅〜網走駅間が全通。11月池田駅〜野付牛駅〜網走駅間を網走本線に改称する。
1914(大正3)年、10月野付牛駅〜留辺蘂駅間を留辺蘂軽便線と改称する。湧別軽便線の留辺蘂駅〜下生田原駅間が開業し、常紋信号所ほか常紋トンネルを新設。常呂外4ヶ村戸長役場より鐺沸村(現・佐呂間町)を分離。
1915(大正4)年、4月野付牛村より、武華村(現・留辺蘂町)、置戸村(現置戸町・訓子府町)を分村する。二級町村制施行に伴い、常呂村、少牛村、太茶苗村、手師学村が合併して常呂郡常呂村が成立する。、1級町村制施行し「野付牛町」となる。
1916(大正5)年、4月野付牛村が町制施行し野付牛町となる。11月野付牛駅〜遠軽駅〜下湧別駅間を湧別軽便線として路線統合。
1917(大正6)年、玉ねぎの試作行われる。
1920(大正9)年、新保孫次郎が小公園を造成(後の野付牛公園)。相内で稲作本格化する。
1921(大正10)年、4月端野村(現・端野町)、相内村を分村。6月武華村が町制施行し留辺蘂町となる。
1925(大正14)年、11月相生線津別〜北見相生間を延伸開業し全通。北見相生駅を新設する。
1932(昭和7)年、10月中越駅〜白滝駅間が延伸開業。湧別線の遠軽駅〜野付牛駅間を編入し、新旭川駅〜野付牛駅間を石北線と線名改称する。
1936(昭和11)年、本道を襲った大暴風雨により、武華山脈に五十万石を超える倒木が出て、これをパルプ用材として搬出することになった。東洋一を誇った水銀の野村鉱業イトムカ鉱業所も、森林鉄道が延長されるに従って発見されたものでこれが鉱山開発の始まりとなる。
1939(昭和14)年、野村鉱業株式会社により、イトムカ鉱山と名づけられ、開発に着手する。
1942(昭和17)年、6月野付牛町が市制施行し北見市となる。
1950(昭和25)年、常呂村が町制施行し常呂町となる。
1956(昭和31)年、9月相内村を合併する。
1960(昭和35)年、2月第一回北見雪まつり開催される。
1961(昭和36)年、4月網走本線池田〜北見を池北線に、網走本線北見〜網走と石北線の全線新旭川〜北見を併せて石北本線にそれぞれ改称する。9月端野村が町制施行し端野町となる。
1969(昭和44)年、2月若松市民スキー場開設。
1970(昭和45)年、野村鉱業株式会社イトムカ鉱業所が企業縮小。
1971(昭和46)年、2月第一回北見冬まつり開催される。
1976(昭和51)年、鎖塚供養碑建立する。
1978(昭和53)年、4月温根湯に山の水族館と郷土館がオープン。
1981(昭和56)年、9月イトムカ選鉱所を産業史跡として保存決定。
1983(昭和58)年、旧常呂町開基100年を迎える。8月北見ハッカ工場閉鎖。
1986(昭和61)年、4月ハッカ記念館オープン。
1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化によりJR北海道に継承される。
1989(平成元)年、6月JR池北線廃止。北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線開業する。端野町メビウススキー場オープン。
1990(平成2)年、12月中央道路(北見道路)開削百年記念式典挙行。
1994(平成6)年、仁頃町名水公園開園する。
1996(平成8)年、7月旧北見市開基100年を迎え、記念式典を挙行。11月訓子府、端野町記念式典挙行。
2006(平成18)年、3月留辺蘂町、端野町、常呂町と合併、新たに北見市を設置。4月北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線廃止。
北見市史・北見市史年表編・北見市開基100年歴史年表参考

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