武華駅逓(留辺蘂町開拓資料館)住所 北見市留辺蘂町滝の湯TEL 0157-42-2723(留辺蘂教育事務所 生涯学習課) 利用時間 9時〜17時 開館日 金・土曜日のみ 料金は無料 直接いかれる場合は、向かいのお店に声をかけてください。 北見観光協会 北見市の由来は、松浦武四郎が命名した国名「北見国」からで、「北見」の由来は、この地方域の昔の通称が「北海岸」と呼ばれ、快晴の日に樺太が「見」える事から、一字ずつとったもの。 留辺蘂の由来は、アイヌ語の「ルペシペ」道・それに沿って下る・もの(川)が由来。2006(平成18)年3月5日に北見市、常呂町、留辺蘂町と新設合併し北見市となった。 滝の湯の由来は、お湯が豊富なことからついたといわれている。 国道39号線沿いにあり、道の駅 おんねゆ温泉から層雲峡方向に約6.5kmほど。 留辺蘂町の重要史跡で、1920(大正9)年に1月に開設された現存する駅逓で、そのままの姿で保存されている。 建物は日本建築学会から近代日本の名建築に選ばれ、玄関が独立し中廊下式の旅館的性格が強い。 1970(昭和45)年に佐野与蔵(準一郎の養子)が住宅を新築し、町に寄贈され、当初の状態に復元された。「駅逓所建築標準図」とほぼ同じ間取りであるが、当時の契約書の図面と仕様書は残されていないようである。 違う部分は、洗面所の0.5坪がないだけで「駅逓所建築標準図」では、本屋、玄関、浴室、便所、及び洗面所合わせて40.5坪であるが、武華駅逓と上武華駅逓はちょうど40坪である。 2階部分は、1931(昭和6)年に増築(28.5坪)し68.5坪となり、1936(昭和11)年11月の駅逓廃止後は住宅となった。 駅舎の大工は、伊賀冬次で、増築部分の大工は、宮村正一。宮村は関東大震災のあとの建築ラッシュで北海道から東京に動員された大工で、増築部分の正面縁側戸袋のおもて飾りは、吉原花魁で見た置屋を模して作ったと言っていたようだ。 当時のこの辺りはひどい湿地だったようで、30cm掘ればどこでも水が沸いたという。そのため道路もぬかるみがひどかった。このころ道路は56号まであり、上武華駅逓は50号にあった。 1927(昭和2)年、29号の上に灌漑溝を掘る工事が始まったが、ここでは40人ほどのタコが使役されたようである。 案内板 武華駅逓 大正9年武華原野開拓促進のためこの地に武華 駅逓が開設され、取扱人に佐野準一郎氏が就任 人馬の継立業を開始した。旅人や開拓移住者の 休憩所宿泊所としての他相談所としても重要な 役割を果たしていたが、開発がすすみ昭和45 年に留辺蘂町開拓の重要史蹟として原形のまま 保存、開拓資料館とした。 案内板 北見市指定文化財 武華駅逓 武華駅逓は、大正9年(1920年)、武華原野の開拓 促進のため、佐野準一郎氏により開設された。 当時は開拓移住者の相談所、旅人の休憩所、宿泊所等 人馬継立所として開設されたが、開拓が進んだことから 昭和11年(1936年)に廃止され一般住宅となった。 昭和45年(1970年)に留辺蘂町(当時)が寄附を受 けた後、建築当時の内装に復元している。 建物1階部分は、当時の「駅逓所建築標準図」とほぼ同 じ間取りであることも含め、保存良好な代表的北海道 駅逓建築物として高い評価を受けている。 平成12年3月27日指定 北見市教育委員会 駅逓は網走から旭川までの間に12箇所あり、留辺蘂四号駅逓をアイヌはルペシュペと呼んでいた。 花園にあった五号駅逓を佐路間、武華駅逓の上には富士見駅逓があった。 この駅逓の取扱人だった佐野準一郎は、町議会議員を歴任し1947(昭和22)年町長として3期12年間就任した。この他にも町が手がけた橋梁工事の監督も行っている。 武華駅逓廃止後、建物は取扱人だった佐野準一郎に無償譲渡され住宅として使用していた。 1980(昭和55)年に日本建築学会から「日本近代総覧-各地に遺る明治・大正・昭和の建物」に選ばれ、近代日本の名建築としての評価された。 現在、北見地方で残っているのはここ開拓資料館の駅逓だけであり、1984(昭和59)年に国道39号線より若干後ろに移動させ大規模な改修復元工事を行った。 館内には先史時代のものから、開拓から昭和まで貴重な工具・食器・駅逓資料など約320点ほど展示し、駅逓で使われていた生活道具や古文書の一切を佐野家より寄贈してもらった。 先史時代の遺跡が留辺蘂地区で、約20箇所ほどある。 アイヌの生活の跡もあちこちに残っており、旧石器時代(先土器時代)・縄文時代・時期不明の遺跡などが点在している。 館内には、1万3200年前のものである吉村遺跡の遺物なども紹介され無加川流域で最も古い遺跡だそうだ。 1800(寛政12)年、幕府が蝦夷を直轄し、宗谷・斜里・樺太の3場所を藩直営とする。津軽、南部に命じ約500人を蝦夷に派遣させ、要所警備を行う。 1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。 1808(文化5)年、津軽藩に代わり会津、仙台藩の兵1500人が蝦夷地に派遣される。間宮林蔵ら、樺太探検のため宗谷を出帆。 1821(文政4)年、蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に戻す。 1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。 1855(安政2)年、幕府、松前・江差地方を除く全島を直轄。東蝦夷地は仙台藩の警備地となる。日露通好条約を結び、国境を択捉島とウルップ島の間に決める。 1869(明治2)年、8月蝦夷を改めて北海道として11国86郡を定める。9月場所請負人を廃止し、10月漁場持と改称。北蝦夷地を樺太と改称。 1871(明治4)年、5月開拓使庁を札幌に開き、函館・根室の出張所を出張開拓使庁と改称する。 1875(明治8)年、5月常呂郡7ヶ村は常呂村・鐺沸村・太茶苗村・手師学村・小牛村・生顔常村・野付牛村となる。 1877(明治10)年、3月網走分署を支庁直轄とする。 1880(明治13)年、7月網走村外3郡郡役所を網走村に設置し、網走・常呂郡戸長事務は郡長の兼拳とし、斜里・紋別郡に各戸長置く。この頃常呂に和人1戸・男2人女1人定住する。 1882(明治15)年、2月開拓使を廃し函館・札幌・根室の3県を置く。網走外3郡は根室県に所属する。 1890(明治23)年、4月北見道路の開削。空知監獄囚人により忠別太から開始する。 1891(明治24)年、4月網走分監による網走〜上川間の道路開さく着工し、同年末完成「中央道路」と呼ばれる。 1892(明治25)年、3月16日留辺蘂(4号)駅逓開駅、管理人・北村七平、取扱人は千葉新太郎となり入植。佐路間(5号)駅逓開駅、取扱人を永井友吉とする。 1895(明治28)年、留辺蘂(4号)駅逓が人馬の継立てを行い始める。 1897(明治30)年、野付牛村生顔常(モイコツネイ)村戸長役場を設置する。佐路間峠にあった四号駅逓を川向(現・宮下町)に移転、部落形成は川向から始まった。河原田万蔵がポン湯温泉出願許可される。 1898(明治31)年、國澤喜右ヱ門、森重要吉らが武華(ムカ)原野に入植。 1899(明治32)年、國澤喜右ヱ門が温泉出願し許可される。1年遅れで許可を受けた大光寺直蔵は、その後、大江与志蔵に権利を譲渡しこれが大江本家の前身となる。森重要吉の名義で浴用鉱泉免許を取り武華市街(現・温根湯温泉)に仮小屋を建てる。 1901(明治34)年、滝の湯地区の温泉を国沢喜右衛門が出願。三男森重要吉の名義で武華原野に牧場40万坪の払下げを申請する。 1905(明治38)年、払下げを受け武華原野に森重を入植させる。 1906(明治39)年、オンネナイ原野に開拓移民20余戸入植する。上枝平蔵、サロマ原野に入植する。 1911(明治44)年、11月佐路間(5号)駅逓を上佐呂間駅逓所に改称する。 1912(明治45)年、野付牛〜留辺蘂間の鉄道(現・石北本線)開通。 1913(大正2)年、富士見(現・富士見地区)に、久保内某が入植する。元町に留辺蘂郵便局を開設。 1914(大正3)年、常紋トンネル完工。森本某、元町に火力発電所新設、町に電燈が初めて点く。 1915(大正4)年、野付牛(現・北見市)から分村し、武華(ムカ)村が誕生し2級町村制施行。温根湯温泉神社が建立される。奔無加(現・金華地区)に鉄道員だった菊池茂七(その後運送業を営む)、大成造材の責任者である岩本太郎吉(その後独立して造材事業に従事する)が駅前に住みこの地区の草分けとなる。 1916(大正5)年、温根湯に高倉安次郎が水力発電所を新設、温根湯地区に電灯が点く。 温根湯郵便局開設。 1919(大正8)年、温根湯に森林鉄道を敷設するため測量が行なわれ、1920(大正9)年着工する。 1920(大正9)年、武華駅逓開設される。(現存する駅逓である)官行事業開始され、森林軌道敷設される。 1921(大正10)年、町制施行し、武華村を留辺蘂町と改称する。留辺蘂〜温根湯間自動車運行開始する。 1922(大正11)年、富士見駅逓が開設される。これが上武華駅逓(現・大和地区)取扱人は佐野松ヱ門。 1923(大正12)年、留辺蘂変電所(北海道電灯会社)が開設、市街及び温根湯に配電される。 1936(昭和11)年、留辺蘂金山本格採掘を開始する。本道を襲った大暴風雨により、武華山脈に五十万石を超える倒木が出て、これをパルプ用材として搬出することになった。 1938(昭和13)年、1級町村制が施行される。 1939(昭和14)年、9月野村鉱業(株)イトムカ鉱業所で精錬水銀を生産開始。 1940(昭和15)年、町内に23字を設置し、花園、瑞穂、丸山、宮下町、元町、東町、仲町、上町、栄町、豊金、大富、金華、昭栄、旭、温根湯、松山、花丘、平里、川北、大和、滝湯、厚和、富士見となる。 1957(昭和32)年、大雪国道開通(現・国道39号線)し、トラック輸送が始められ、森林鉄道は1960(昭和35)年廃止となる。 1958(昭和33)年、北見市泉の一部が留辺蘂町に編入される。 1962(昭和37)年、森林鉄道十字路線廃止。 1964(昭和39)年、開町50周年記念行事挙行。国道39号留辺蘂町内の舗装完了。 1966(昭和41)年、留辺蘂町役場新庁舎完成。 1969(昭和44)年、国民保養センター(町営温泉)が完成。 1970(昭和45)年、野村鉱業株式会社イトムカ鉱業所が企業縮小。 1971(昭和46)年、開拓資料館が開館。 1974(昭和49)年、公害問題によって水銀の需要が低下し、イトムカ鉱業所は採掘を中止した。滝ノ湯で温泉ボーリング成功する。8月野村鉱業株式会社よりイトムカ鉱業所の技術・設備などを買収し、水銀含有廃棄物の処理を中心に廃棄物処理事業を開始する。 1975(昭和50)年、2月野村鉱業株式会社が野村興産株式会社と変更。 1978(昭和53)年、4月山の水族館・郷土館完成。 1981(昭和56)年、イトムカ選鉱所を産業史跡として保存決定。町立滝の湯センター改築する。 1983(昭和58)年、温根湯つつじ公園完成。 1985(昭和60)年、野村興産(株)水銀含有廃棄物再資源実証プラント竣工。 1988(昭和63)年、留辺蘂町八方台スキー場オープン。 1991(平成3)年、温根湯温泉イベント広場完成。開基100年記念行事を挙行。 1994(平成6)年、大型トイレ「クリーンプラザおんねゆ」完成。 1995(平成7)年、「道の駅・おんねゆ温泉」指定を受ける。同エリアに「からくり王国」オープン。 1996(平成8)年、道の駅おんねゆ温泉「果夢林」オープン。 1998(平成10)年、道の駅おんねゆ温泉「果夢林の館」オープン。 1999(平成11)年、温根湯温泉・花水荘が破産宣告により営業停止。温根湯温泉開湯100年。 2001(平成13)年、富岡区と旭南町が合併。 2006(平成18)年、3月北見市、常呂町、留辺蘂町と新設合併し北見市となった。 2011(平成23)年、11月山の水族館・郷土館閉館。 2012(平成24)年、7月山の水族館リニューアルオープンする。 北見市史・留辺蘂町史参考 |