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紀元二千六百一年記念 開拓記念碑

住所 網走市嘉多山63(隆法寺敷地内)

一般社団法人 網走市観光協会

網走の由来は、アイヌ語の「チパ・シリ」(祭壇のある島)と呼ばれていたものが古語のため難解になり、「ア・パ・シリ」(我らの見つけた地)または「アパ・シリ」(入り口の地)となったとされる。
嘉多山とは、1896(明治29)年当時「レブンシリ」(礼文尻・沖へ出ている・土地)と呼ばれており、1923(大正12)年12月に字名改正が行われ、1895(明治28)年に入植した嘉多山忠八の姓をもって地区名とした。
卯原内市街地から国道238号線を網走方面に850mほど進み右折、側道を約750mほど進んだ左手にある。

嘉多山と越歳に初めて和人が入ったのは、1891(明治24)年頃の中央道路の開鑿前後と言われている。
それ以前にはアイヌの生活の場であったことは地名からも分かり、随所に遺跡や遺物なども見られた。
入植は、長谷川某、大館カヨ、渡辺周作などが当時の中央道路沿いに入植した。この辺りは「リヤウシ」(冬に越年して漁・猟をする)と言われており、現在の嘉多山一帯はリヤウシと言われていたようである。
 その後、1894(明治27)年には福井県人吉田甚松が網走で養蚕をしていたが農業を志し入植、長谷川氏の土地4万5千坪、大館氏の土地4万5千坪を引き受け農業を始める。
1895(明治28)年には、未開地3万坪の貸付許可を受け、1896(明治29)年には妻カメキ名義で2万坪の貸付を受け、1万8千坪の作付けと2千坪の開墾を行う。
 嘉多山忠八は、1892(明治25)年入植。
1895(明治28)年、2回に亘り嘉多山、越歳に3千町歩の土地を獲得。
嘉多山農牧場では、1910(明治43)年頃には、水田の造成も行い旭川から種籾を持ってきた。当初5反歩ほどの収穫だったが、3年後には5町歩にまで増えた。
その後、網走湖の水温が高いことに着目し、これを丸山付近でモーターで揚水し一千町歩の造田計画を発案し、1927(昭和元)年測量を行うも資金難で実現しなかった。
このこともあり、所有者の大半の土地は融資を受けていた拓殖銀行(北見支店)、乾合名会社(神戸市乾新兵衛)の会社に分割所有されることになり嘉多山農牧場は消滅した。
1916(大正5)年頃より嘉多山地区の鳥取県人等が網走市外の商店に生産物の共同販売を行う。
1917(大正6)年11月には洞ヶ瀬菊次郎が倶知安より入植し産業組合を作り、1918(大正7)年には産業組合定款を作成し、一橋泰造を組合長に1919(大正8)年認可が下り、嘉多山、越歳、二見ヶ岡の区域を無限責任最寄信用購買販売組合として発足、1920(大正9)年には嘉多山信用購買販売利用組合に改称する。
1935(昭和10)年、湧網線が開通したことにより事業所を卯原内に移転し、西網走信用購買販売利用組合と改称。1948(昭和23)年に解散する。
ちなみに、乾氏の土地は1936(昭和11)年約500町歩が民有未墾地処分法により開放となり、共和償還組合が設立され自作農創設に当たった。
1941(昭和16)年、10月この自作農創設を記念して、隆法寺横の高台に共和償還組合員開拓記念碑建立した。嘉多山としてはこれが最初の記念碑となった。

碑文
新潟県頸城郡嘉多山吉郎兵衛氏資性篤実夙抱
開拓之志明治三十余年捨郷渡道而創始嘉多山
農場蔓草寒煙之中拓荒蕪具嘗創業之難矣時遷
歳改爾来幾十星霜罵兵庫県神戸市乾新兵衛氏
後継承之所有経営有年次亘農場四百余町歩起
開放之議也胆振国勇払郡早来住人平野仙松氏
及欣舞卒先致力於民有未墾地幹旋意能齎今日
之繁盛矣今当迎紀元二千六百一年之佳歳此地
創始開拓六周年干斯我等寿昭和一新者倶倚偕
図而茲建碑以記念開拓於無窮云
網走中学校教諭 渋谷智夫撰文
昭和十六年 共和償還組合員建立

1888(明治21)年、道庁長官永山武四郎が中央道路開鑿を決める。
1889(明治22)年、6月忠別(現・旭川)〜湧別間の仮道路の開削が開始された。
1890(明治23)年、4月本道路である「北見道路」の建設が開始された。
1891(明治24)年、12月に完工して北海道庁に引き渡された。
1892(明治25)年、3月越歳に第壱号越歳駅逓設置、取扱人は内山清吉。この前後に長谷川某、大館カヨ、渡辺周作等リヤウシに入植。
1894(明治27)年、吉田甚松、佐藤竹次郎、梅山竹松、中村彌三リヤウシに入植。
1895(明治28)年、山田製軸工場蒸気船で原木運送(仮監荷揚場揚げ)
1896(明治29)年、仮監と中央道路間の越歳道路を修理。吉田甚松が商業をはじめる。吉田甚松、最寄村レブンシリ(嘉多山)で水稲の試作に成功。
1899(明治32)年、嘉多山忠八が根室から入植し、牧場を経営、事務所建設。
1900(明治33)年、12月礼文尻簡易教育所開設。
1902(明治35)年、嘉多山吉郎平能取村議となる。
1903(明治36)年、嘉多山忠八亡くなる。吉郎平後継者となる。三代寛も入地する。
1912(大正元)年、網走線開通。11月網走線から網走本線に改称。
1913(大正2)年、井上友次郎、松崎憲助、黒川為蔵、石川石蔵、三原宇平入植。
1915(大正4)年、一橋泰蔵、岡本安松、中川勘十郎、渡辺惣兵衛入植。
1916(大正5)年、礼文尻部落誕生する。
1919(大正8)年、1月嘉多山の部落名生まれる。7月嘉多山尋常小学校開設。嘉多山農場事務所に精米所設ける。
1922(大正11)年、共和償還組合設立自作農創設。
1923(大正12)年、12月嘉多山部落、越歳部落誕生。
1924(大正13)年、2月大字名廃止、字地番改正。荷揚場に佃煮工場設置。
1928(昭和3)年、8月嘉多山神社建立。荷揚坂神社建立。
1941(昭和16)年、9月越歳神社建立。10月共和償還組合員開拓記念碑建立。
1946(昭和21)年、7月嘉多山地区に電気が通る。
1947(昭和22)年、9月越歳部落に電気が通る。
1949(昭和24)年、旧中央道路の改修請願する。
1951(昭和26)年、10月嘉多山産出の亜炭の燃焼実演会開く。北大などの調査団一行、網走湖周辺の天然ガス、温泉開発などで嘉多山の亜炭ガス化の調査行う。
1953(昭和28)年、9月嘉多山地区で耕土改良と能率向上をはかるため耕土会両組合を設立、三菱重工製の35馬力トラクターと2連式プラウを購入する。
1955(昭和30)年、7月嘉多山電化記念碑建立。11月旧中央道路改修測量開始。
1957(昭和32)年、6月嘉多山地区農村公衆電話架設。
1979(昭和54)年、10月網走歴史の会が道道網走〜端野線(明治24年開削の上川網走間道路「中央道路」沿いに「越歳駅逓趾」(第一号駅逓)の木製記念柱建てる。
1995(平成7)年、2月網走クロスカントリースキー大会が嘉多山コースで開かれた。
1998(平成10)年、5月デンソー(本社・愛知県刈谷市)自動車走行試験施設「網走テストセンター」地鎮祭挙行。
2000(平成12)年、7月嘉多山の開基百年・嘉多山小学校開校80周年記念式典挙行。
2001(平成13)年、11月自動車部品メーカー(株)デンソー(本社・愛知県刈谷市)は、嘉多山に建設していた網走テストセンターがほぼ完成し、同所で開所式を行い供用開始した。
2003(平成15)年、2月嘉多山小学校が閉校式挙行。網走市立西が丘小学校に統合する。11月網走テストセンターが完成し地元関係者に公開。 12月網走監獄保存財団が、博物館網走監獄開館20周年記念事業して、旧駅逓跡地の網走市越歳に建立した「第1号越歳駅逓碑」の除幕式を挙行。
嘉多山・越歳郷土誌参考


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