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嘉多山開基100年の碑

住所 網走市嘉多山474

一般社団法人 網走市観光協会

網走の由来は、アイヌ語の「チパ・シリ」(祭壇のある島)と呼ばれていたものが古語のため難解になり、「ア・パ・シリ」(我らの見つけた地)または「アパ・シリ」(入り口の地)となったとされる。
嘉多山とは、1896(明治29)年当時「レブンシリ」(礼文尻・沖へ出ている・土地)と呼ばれており、1923(大正12)年12月に字名改正が行われ、1895(明治28)年に入植した嘉多山忠八の姓をもって地区名とした。
道道104号網走端野線沿いにあり、道道交差点(丸山公園そば)から国道238号線方向に約2.2kmほど進み左折、側道を約1.2kmほど進むと右手に旧網走市立嘉多山小学校が見えるので直進して左手、嘉多山保育園敷地内にある。

嘉多山と越歳に初めて和人が入ったのは、1891(明治24)年頃の中央道路の開鑿前後と言われている。
それ以前にはアイヌの生活の場であったことは地名からも分かり、随所に遺跡や遺物なども見られた。
入植は、長谷川某、大館カヨ、渡辺周作などが当時の中央道路沿いに入植した。この辺りは「リヤウシ」(冬に越年して漁・猟をする)と言われており、現在の嘉多山一帯はリヤウシと言われていたようである。
 その後、1894(明治27)年には福井県人吉田甚松が網走で養蚕をしていたが農業を志し入植、長谷川氏の土地4万5千坪、大館氏の土地4万5千坪を引き受け農業を始める。
1895(明治28)年には、未開地3万坪の貸付許可を受け、1896(明治29)年には妻カメキ名義で2万坪の貸付を受け、1万8千坪の作付けと2千坪の開墾を行う。
作物は、栗、黍、麦、豆、馬鈴薯、大根、米を栽培していたようである。

入植以来水稲の試作を試みているが、1894(明治27)年は福井種を1反歩撒いたが結実せず、1895(明治28)年には郡役所から種もみを貰うも時期が遅く断念。
1896(明治29)年には藪惣七氏より、岩手種を貰い出来が良かった。他にも南京種も貰ったが穂が出ただけだったという。
同年吉田氏は商業も行っており、嘉多山部落で最初の商業発祥となっている。
 嘉多山忠八は、1892(明治25)年入植。
嘉多山農牧場では、1910(明治43)年頃には、水田の造成も行い旭川から種籾を持ってきた。当初5反歩ほどの収穫だったが、3年後には5町歩にまで増えた。
その後入地は続き、鳥取県、山口県、兵庫県などから入植し、1913(大正2)年には空知郡富良野村より数名入植している。
1917(大正6)年には常呂、置戸、倶知安から入植、大正中期には戸数70戸を越えていた。
1929(昭和4)年までは井戸も無く、近くの清水まで汲みに行っていたようで不便だったようである。(高台のため井戸掘りが容易ではなかった)

電化記念碑
石碑は、高さ約2.5mの仙台石を使用、幅約1.2m、総高さ約4.8mほど。
前面には碑銘と特別功労者5名、裏面には碑文と組合員50名の名前が刻されている。
1955(昭和30)年7月9日建立された。
碑文
開拓四拾有余年文化に恵まれざる事久し農村開発文化
向上のため農村電化の実現を希求すること切なり大東亜
戦争終戦の歳暮部落電化の議起り関係者合い語る事数次
時恰も井華鉱業株式会社鴻之舞鉱業所長佐藤胸治氏は戦
後日本再建は農鉱一体の振興に有りとの理想に基き今谷
雄吉氏の斡旋尽力に応じ其の有する電気資材一切を投じ
て架線するを約す翌廿壱年五月起工同年七月竣工通電の
式を挙ぐ此の工事架線距離延弐拾粁経費総額百万円を費
す其の間松崎憲助氏、洞ヶ瀬恆逸氏、井上巌氏は東奔西走
寝食を忘れて尽力せる功甚大なり
次いで嘉多山電気施設利用組合を設立す役員一同鋭意其
の管理運営に努力組合員亦よく協力し数年を出でずして
一切の責を了えたるは誠に其の労多とすべきなり此の第
一期工事を契機に翌々年部落全区域電化の実現を見たる
は真に喜びに堪えず今や渺茫参千余町歩の沃饒は明るく
平和な文化郷として累年発展しつつあるいは農村電化の恩
恵に負う所大なるを想い感に堪えず農村電化拾周年を迎
えるに当り其の経緯の概要と偉業を後世に伝え永く記念
する為此の碑を建立す

中央道路(嘉多山近郊)の交通量は、その後の鉄道や新道の開通などにより激減し、1923(大正12)年、町村道となった当時の嘉多山・緋牛内間は、近隣農家の荷馬車が往来する程度の通行となり、補修などもされず廃道寸前の状態だったという。
1949(昭和24)年には、中央道路を復活させ、網走・北見間に定期路線バスの運行を嘉多山地区の嘉多山寛氏(三代目当主)らが訴え、1952(昭和27)年には関係市村の首長らが北見・網走間道路改良促進期成会を結成し、北海道庁などへ陳情した。
その結果、1954(昭和29)年には道道に認定され、1956(昭和31)年には網走市二見ヶ岡から国道39号端野町緋牛内地区分岐点までの改良事業がはじまった。
1961(昭和36)年9月には、延長21.4kmの砂利道が完成し、11月に開通式を挙げ、現在は国道39号線と国道238号線を結ぶ、主要幹線道路としての役割を果たしている。
嘉多山・越歳郷土誌参考

1888(明治21)年、道庁長官永山武四郎が中央道路開鑿を決める。
1889(明治22)年、6月忠別(現・旭川)〜湧別間の仮道路の開削が開始された。
1890(明治23)年、4月本道路である「北見道路」の建設が開始された。
1891(明治24)年、12月に完工して北海道庁に引き渡された。
1892(明治25)年、3月越歳に第壱号越歳駅逓設置、取扱人は内山清吉。この前後に長谷川某、大館カヨ、渡辺周作等リヤウシに入植。
1894(明治27)年、吉田甚松、佐藤竹次郎、梅山竹松、中村彌三リヤウシに入植。
1895(明治28)年、山田製軸工場蒸気船で原木運送(仮監荷揚場揚げ)
1896(明治29)年、仮監と中央道路間の越歳道路を修理。吉田甚松が商業をはじめる。吉田甚松、最寄村レブンシリ(嘉多山)で水稲の試作に成功。
1899(明治32)年、嘉多山忠八が根室から入植し、牧場を経営、事務所建設。
1900(明治33)年、12月礼文尻簡易教育所開設。
1902(明治35)年、嘉多山吉郎平能取村議となる。
1903(明治36)年、嘉多山忠八亡くなる。吉郎平後継者となる。三代寛も入地する。
1912(大正元)年、網走線開通。11月網走線から網走本線に改称。
1913(大正2)年、井上友次郎、松崎憲助、黒川為蔵、石川石蔵、三原宇平入植。
1915(大正4)年、一橋泰蔵、岡本安松、中川勘十郎、渡辺惣兵衛入植。
1916(大正5)年、礼文尻部落誕生する。
1919(大正8)年、1月嘉多山の部落名生まれる。7月嘉多山尋常小学校開設。嘉多山農場事務所に精米所設ける。
1922(大正11)年、共和償還組合設立自作農創設。
1923(大正12)年、12月嘉多山部落、越歳部落誕生。
1924(大正13)年、2月大字名廃止、字地番改正。荷揚場に佃煮工場設置。
1928(昭和3)年、8月嘉多山神社建立。荷揚坂神社建立。
1941(昭和16)年、9月越歳神社建立。10月共和償還組合員開拓記念碑建立。
1946(昭和21)年、7月嘉多山地区に電気が通る。
1947(昭和22)年、9月越歳部落に電気が通る。
1949(昭和24)年、旧中央道路の改修請願する。
1951(昭和26)年、10月嘉多山産出の亜炭の燃焼実演会開く。北大などの調査団一行、網走湖周辺の天然ガス、温泉開発などで嘉多山の亜炭ガス化の調査行う。
1953(昭和28)年、9月嘉多山地区で耕土改良と能率向上をはかるため耕土会両組合を設立、三菱重工製の35馬力トラクターと2連式プラウを購入する。
1955(昭和30)年、7月嘉多山電化記念碑建立。11月旧中央道路改修測量開始。
1957(昭和32)年、6月嘉多山地区農村公衆電話架設。
1979(昭和54)年、10月網走歴史の会が道道網走〜端野線(明治24年開削の上川網走間道路「中央道路」沿いに「越歳駅逓趾」(第一号駅逓)の木製記念柱建てる。
1995(平成7)年、2月網走クロスカントリースキー大会が嘉多山コースで開かれた。
1998(平成10)年、5月デンソー(本社・愛知県刈谷市)自動車走行試験施設「網走テストセンター」地鎮祭挙行。
2000(平成12)年、7月嘉多山の開基百年・嘉多山小学校開校80周年記念式典挙行。
2001(平成13)年、11月自動車部品メーカー(株)デンソー(本社・愛知県刈谷市)は、嘉多山に建設していた網走テストセンターがほぼ完成し、同所で開所式を行い供用開始した。
2003(平成15)年、2月嘉多山小学校が閉校式挙行。網走市立西が丘小学校に統合する。11月網走テストセンターが完成し地元関係者に公開。 12月網走監獄保存財団が、博物館網走監獄開館20周年記念事業して、旧駅逓跡地の網走市越歳に建立した「第1号越歳駅逓碑」の除幕式を挙行。
嘉多山・越歳郷土誌参考



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