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イトムカ鉱山発祥の地

住所 北見市留辺蘂町富士見(大町地区)

北見観光協会 

北見市の由来は、松浦武四郎が命名した国名「北見国」からで、「北見」の由来は、この地方域の昔の通称が「北海岸」と呼ばれ、快晴の日に樺太が「見」える事から、一字ずつとったもの。
留辺蘂の由来は、アイヌ語の「ルペシペ」道・それに沿って下る・もの(川)が由来。
大町地区は、1936(昭和11)年11月の暴風により倒木が生じ、1937(昭和12)年に営林署嘱託の松田与三郎がこの地区の倒木を発見し、搬出計画が出て人夫を入山させ道路の開鑿と造材に着手したことに始まる。
イトムカの由来は、アイヌ語で「光り輝く水」という意味。
国道39号線沿いにあり、そばにはドライバーが休憩する駐車帯が設けられている。留辺蕊町の道の駅 おんねゆ温泉から層雲峡方向に約24.8kmほど

大雪山系に位置する総面積1,489,431平方mの広大な敷地を持つイトムカ鉱業所は、かつて東洋一の水銀鉱山と呼ばれていた。
世界的にも珍しい主要鉱石が自然水銀という鉱山(他の水銀鉱山では不透明な赤褐色の塊状硫化物である辰砂(しんしゃ)が多い)で、最盛期年間200トンの水銀を生産していたという。
開山当時は、非常に交通不便なところで地下資源についても未調査地区だった。1936(昭和11)年11月の暴風により倒木が生じ、1937(昭和12)年に営林署嘱託の松田与三郎がこの地区の倒木を発見し、パルプ用材として搬出計画が出て人夫を入山させ道路の開鑿と造材に着手、その後造材夫の高橋徳松が倒木の根元についていた拳大の真っ赤な原石を発見。のちに辰砂という鉱石だとわかり、分析結果は80%の水銀を含む高品位の鉱石だとわかった。これが鉱山開発の始まりとなる。
当時、事務所は留辺蘂に置かれ、現場では自家発電設備とレトルト炉1基を完成。1939(昭和14)年9月に精錬水銀を生産した。
鉱山の最盛期には、人口5000人を超え、住宅施設・小・中学校、映画館を備える鉱山城下町が形成され、社宅群350戸を中心に病院・各官公署が置かれ「大町」と呼ばれて栄えた。
採鉱現場は、大町地区から約8kmほど離れた本山で、当時はこの地区にも住宅が50戸もあり、本山(元山)団地と呼ばれた。1946(昭和21)年には伊頓武華小学校も設置された。
その後、水銀需要が減少し鉱山は閉山したが、含水銀廃棄物の処理を行うリサイクル事業へと転換し、乾電池の水銀使用が問題化し、使用済み乾電池を処理できる企業として指定された。
現在は、多段式焙焼炉・高温焼却炉など各種プラントを複合した工場で、乾電池・蛍光灯リサイクルを中心に、様々な廃棄物処理を行っており、中間・管理型の最終処分場も備えており、完結型のリサイクル施設ともなっている。
また日本で唯一、水銀地金を生産している精錬所でもあり、生産された水銀は再び蛍光灯や測定機器他各種用途に再利用されているのである。

鉱業所周辺には現在人の居住はなく、鉱山時代の面影を残す山の斜面に建設された赤い屋根の選鉱場跡・リサイクル施設とイトムカ発祥の地の記念碑となっている。


碑文
昭和十一年北海道を襲った大暴風雨は、大雪山
系の原生林に多大の損害をもたらしたが偶然にも
この時、風倒木の搬出作業者によって美くしい
真紅の重い石が発見された。この石が水銀であった
関西の実業家野村徳七の創業になる野村鉱業
株式会社が発見された地名イトムカ伝説によれば
アイヌ語の「光り輝く水」の意に因んでイトムカ鉱山
と名付け開発に着手したのは昭和十三年春の
ことである。
爾来三十有余年イトムカ鉱山は東洋一の水銀
鉱山として世界にも知られ、わが国産業の発展
に多大の貢献をした。
当時この地では、三五〇の余戸の社宅群を中心に 小
中学校、病院、各官公署等がおかれその名も「大町」
と呼ばれて栄えた。
しかしながら内外の経済事情から、ついに昭和四十八年
鉱山はその使命を終えて閉山した。
この碑はかつてはこの地に生活を共にした鉱山従業員と
関係者一同の労志によって深い懐旧の思いを永遠
に留めんことを願って建立されたものである。


産業史跡
野村興産(株)イトムカ鉱業所「選鉱場」
「選鉱場」の概要
完成 昭和十九年十月
操業期間 昭和二十年八月〜昭和四十五年七月
構造 木造トタン葺 屋根の長さ一三五、四〇m
建屋面積 十三階 三九六〇m2(一、二〇〇坪)
 昭和十四年四月に本鉱山の開発が着手され、翌十五
年に社名が野村興業(株)となり爾来、イトムカ鉱業所は
戦中戦後期の国内水銀生産の殆どを占め、かつては
処理能力、生産量に於いて、東洋一の規模を誇ったの
である。
 ここ大町地区は、当時、社宅、寮等が立ち並び、診療
所のほか、学校、郵便局、公民館など公共施設が整備
され、一大集落が形成されて繁栄を極めたのであるが
時代の変革と共に昭和四十八年閉山によってその灯が
消えるに至ったのである。
 ここに本町並びに、わが国の産業振興発展に寄与
した業績を讃えると共に、現存する巨大木造建築物の
「選鉱場」を産業史跡として保存し、後世に伝える
ものである。
昭和五十六年九月
留辺蘂町長坂本悟朗


1919(大正8)年、温根湯に森林鉄道を敷設するため測量が行なわれ、1920(大正9)年着工する。
1921(大正10)年9月には17.3kmの本線、支線軌道6.6kmが完成したが、作業員の大半を秋田・青森出身が占めており、冬期下の悪条件に加え昼夜兼行だったこと、作業に未経験だったこともあり事故も多発した。
1925(大正14)年、森林鉄道は41.6km延長され、使用した機関車は1921(大正10)年、アメリカ製のボールドウインだった。
1936(昭和11)年、本道を襲った大暴風雨により、武華山脈に五十万石を超える倒木が出て、これをパルプ用材として搬出することになった。
東洋一を誇った水銀の野村鉱業イトムカ鉱業所も、森林鉄道が延長されるに従って、造材夫の高橋徳松が倒木の根元についていた拳大の真っ赤な原石を発見。のちに辰砂という鉱石だとわかり、分析結果は80%の水銀を含む高品位の鉱石だとわかった。これが鉱山開発の始まりとなる。
1939(昭和14)年、野村鉱業株式会社により、イトムカ鉱山と名づけられ、開発に着手する。9月自家発電設備とレトルト炉1基を完成し精錬水銀を生産。10月本山精錬ヘレショフ炉(水銀含有スラッジを処理する炉)建設着手。翌年操業する。
1941(昭和16)年、この頃から当時の野村財閥が、資本金200万円で大和鉱業株式会社を設立し、本格的な採掘が始まる。9月留辺蘂精錬レトルト炉建設着手。
このころ、鉱業所に多くの従業員が入るが道路も完備されておらず、この森林鉄道が人員の輸送に大活躍をする。商人など鉱業所に関係の無いものは、鉱業所で切符を発行し料金を徴収して輸送したそうだ。
主要鉱石が自然水銀という世界的にも珍しい鉱山で、水銀が貴重な軍事物資だったこともあり、戦時中に生産量が最大となり、東洋一の規模を誇った。
無機水銀中毒を引き起こす恐れのある水銀蒸気が発生、防毒マスクを着用して採掘するも、重労働と熱気などから、マスクを外してしまい無機水銀中毒にかかる者も多かったという。6月トラック道路の開鑿と第一回の伐開工事に着手。その後仮宿舎、仮事務所を建設した。
1942(昭和17)年、恵泉国民学校(恵泉小学校の前身)設立。9月留辺蘂精錬レトルト炉完成し操業する。11月本山選鉱場完成し操業開始。
1943(昭和18)年、4月イトムカ選鉱場建設着手。翌年10月完成。
1945(昭和20)年、8月イトムカ選鉱場操業開始。大町精錬ヘレショフ炉建設するも中断する。11月留辺蘂精錬レトルト炉廃止。
1948(昭和23)年、5月本山選鉱場廃止。
1950(昭和25)年、2月本山ヘレショフ炉廃止。3月大町精錬ヘレショフ炉操業開始。
1952(昭和27)年、4月大町精錬ヘレショフ炉一基増設する。6月大町精錬ヘレショフ炉操業開始。
1957(昭和32)年、森林鉄道十字路線は、総延長359.7kmにもなっていた。
1957(昭和32)年、大雪国道開通(現・国道39号線)し、トラック輸送が始められ、森林鉄道は1960(昭和35)年廃止となる。
1962(昭和37)年、森林鉄道十字路線廃止。貿易自由化に伴い企業整備を行う。
1950年代以降は乾電池・蛍光灯・船底塗料などの材料として再び生産を開始、採掘が続けられた。
1964(昭和39)年、経営の合理化を断行し、本山団地50戸は、大町団地に移住し、全ての施設を廃止し閉鎖した。4月常呂鉱業所閉鎖。
1970(昭和45)年、野村鉱業株式会社イトムカ鉱業所が企業縮小。
1971(昭和46)年、恵泉小学校、恵泉中学校廃校。
1973(昭和48)年、12月イトムカ興産株式会社(資本金1000万円)を設立する。
1974(昭和49)年、公害問題によって水銀の需要が低下し、採掘を中止した。
1974(昭和49)年、8月野村鉱業株式会社よりイトムカ鉱業所の技術・設備などを買収し、水銀含有廃棄物の処理を中心に廃棄物処理事業を開始する。
1975(昭和50)年、2月野村興産株式会社と変更。
1981(昭和56)年、9月イトムカ選鉱所を産業史跡として保存決定。
1985(昭和60)年、野村興産(株)水銀含有廃棄物再資源実証プラント竣工。
1986(昭和61)年、2月使用済み乾電池の広域回収処理センタ−に指定される。
1989(平成元)年、6月医療廃棄物、廃試薬等の専用処理施設・高温焼却炉完成。
1996(平成8)年、10月再資源化事業としてソフトフェライト原料、ガラスカレットの生産・販売を開始する。
1998(平成10)年、5月イトムカ鉱業所3号ヘレショフ炉(水銀含有スラッジ処理する炉)竣工操業開始。
1999(平成11)年、4月使用済み蛍光灯の広域回収・処理センターの指定を受ける。
2001(平成13)年、5月乾留ガス化焼却炉操業開始。
2001(平成13)年、8月イトムカ鉱業所ISO14001認証を取得。

現在のイトムカ鉱業所は、鉱山としての使命は終えたが、日本で唯一の水銀含有廃棄物(電池・蛍光管等)の処理、リサイクル工場として操業を続けている。

ちなみに、この水銀鉱採掘の先端現場に狩り出されたのは、強制連行されてきた中国人や朝鮮人である。
イトムカ水銀鉱山における中国人・朝鮮人の数は1090人にも及ぶ、置戸鉱業所では991人。
粗食と重労働で犠牲になった命は155人とされている。
この時代は民族差別感が背景にあり、留辺蘂町の歴史を語る上で、中央道路(囚人道路)・常紋(タコ部屋)・イトムカ(中国人・朝鮮人)の「強制労働」の事実を避けて通るわけにはいかないまぎれもない事実がある。

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