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東藻琴開拓記念碑

住所 網走郡大空町東藻琴353-24

オホーツク大空町観光協会

網走の由来は、アイヌ語の「チパ・シリ」(祭壇のある島)と呼ばれていたものが古語のため難解になり、「ア・パ・シリ」(我らの見つけた地)または「アパ・シリ」(入り口の地)となったとされる。
大空町の由来は、澄んだ大空、実り豊かな大地のもとで、住民が夢や希望を持ち暮らしていくこととして命名され、2006(平成18)年3月31日、女満別町と東藻琴村が合併して誕生した。
東藻琴の由来は、アイヌ語の「モムト」(眠っている沼)、「モコト」(小さな沼)より転訛した。
国道334号線沿いにある道の駅 ノンキーランドひがしもことから道道102号網走川湯線を川湯方向に約280mを右折(東藻琴総合支所の看板)し、約180m右手の公園内。

ふれあい広場の一角に碑がある。碑は1967(昭和42)年10月に建立され、除幕式は11月3日。

明治三十九年開拓以来六十周年 昭和二十ニ
年村制施行以来二十周年を記念して昭和四十二
年十月この碑を建立す
東藻琴村長 吉田三伊

ここ東藻琴は、明治時代に網走郡役所の管轄下であった。当時は藻琴原野(新栗履(にくりばけ、現・網走市藻琴)村、濤沸(とうふつ)村の一部に相当する地域)と呼ばれていた。1889(明治22)年から翌年にかけて北海道植民計画により藻琴原野実測され、1900(明治33)年に藻琴原野が解放される。
1902(明治35)年に釧路道路〜東藻琴に至る基線道路三里十一町二十七間の開削を行う(現在の網走市役所の近くから駒場、鱒浦、藻琴の台地を通り、小清水、川湯を経て釧路に向かう道があった)。小清水町美和付近には旧釧路街道跡の碑も現存している。
当時の土地貸付は、原則として無償付与であり、開墾、牧畜、森林管理などそれぞれの目的に応じて個人に対する地積が想定されていた。開墾地は150万坪以下、牧畜地は250万坪以下、森林に対しては200万坪以下、会社や組合などにはその倍が認められていたようである。
土地が解放され、1902(明治35)年1月に大阪市北区堂島船大工町(現・大阪市北区堂島船大工町付近)出身の山脇常三郎がこの原野に着目し、基線20〜25号(東藻琴市街地、上東部落)にかけての92万2685坪(305haほど)を農場、牧場経営の目的で貸付を受けた。しかし山脇氏はこの貸付を受けたものの直接携わる事が出来ず、奈良県人網走村在住の原鉄次郎に全てを委ねる。この権利を譲り受けようとして長沼村(現・夕張郡長沼町)に住んでいた森弁七(兵庫県出身者で長沼村の開拓に貢献し、村議にも当選。生没などは不明。)に相談を持ち掛け、1905(明治38)年山脇常三郎より貸付地の権利を譲り受け、森農場とするが実際は基線道路から東側を十勝組(梅谷房蔵)、西側を石狩組(森関係者)農場と呼んでいた。
また宮城県人の神七郎右衛門は、基線15〜19号(西倉部落)の60万坪(約198haほど)を農場、牧場経営の目的で貸付を受けた。その後網走監獄所看守長四宮知方氏の手に移る。その後1908(明治41)年12月山形県人の長沢音吉に、1912(明治45)年には旭川の酒造業者西倉重十郎に移る。現在の西倉地区の部落名はこの西倉氏の名前を取ったものである。

1906(明治39)年には、吉井権蔵、梅谷房蔵、桜井久五郎、池田三次郎、吉田竜太郎らが基線道路(釧路道路)を辿り入地する。この頃の道路は悪路であり、一里塚(現・網走市山里)、岐阜(現・網走市稲富)付近は泥炭地で、雨が降ると膝まで没するほどの悪路だったようである。東藻琴の住民は一戸から10銭を集め、鎌で刈分けたりして道路の維持に努めた。馬車は東藻琴までは通っていたが駄鞍のみだったようである。1907(明治40)年には14戸、1908(明治41)年には22戸、1910(明治43)年には3戸が入植し、その後入植者が増えていく。
1912(明治45)年には、現在の東藻琴市街地を中心に、上藻琴、チプサモコト(現・西倉)、西倉地区の総戸数は60戸を数えた。1913(大正2)年には、網走の遠藤熊吉が藻琴原野(福富・末広地区)の1200町歩が払下げられた。1914(大正3)年からは団体入植が各地区に入るが割愛する。

開拓当時の家は、着手小屋と呼び、7坪半〜12坪の拝み小屋(屋根と壁の区別のない家)を建てるか、掘立小屋(柱を直接土中に埋めて簡単につくった粗末な家)を建てた。屋内の床は板張りではなく、細い丸太や割木を並べその上にムシロをひいた簡単なものだった。
開墾は、木の伐採、集積、火防線を切り、巡査駐在所に火入れ許可の認可を取り、立会いの下行われた。しかし何度か山火事が起きたのは言うまでもない。その後鍬を入れるが、笹とか木の根が深くはびこり難渋した。農具も島田鍬(硬い土を掘り起こし、草の根切りをするための開墾用の唐鍬)、鎌、熊手くらいしかなく苦労した。
当時の主食は、麦、イナキビ、蕎麦が主で手撒きしたものだった。川ではヤマメやウグイが獲れたので蛋白源とし、貯蔵食にもなった。他にも塩蔵などもして冬に備えたものである。

戦後の緊急開拓では、1945(昭和20)年12月に大阪、京都から16戸の集団入植があった。1946(昭和21)年4月には18戸が「東藻琴開拓団」を結成した。1947(昭和22)年2月には網走町から東藻琴村(現・大空町)を分村する。1948(昭和23)年、東洋部落などに広島県から36名の入植者を受け入れる。この時は造材飯場を仮住居として開墾に着手した。その後も道内外から入植者があった。
その後、東藻琴村でも次男・三男の分家対策地として、藻琴山麓地区の4000haのも及ぶ可耕適地の解放を願い出るため1953(昭和28)年4月調査を道に依頼する。翌年2月には道、道開発局、網走開発建設部が現地調査を行い陳情を続ける。1958(昭和33)年12月に東藻琴村547ha、美幌町203haの解放が決定する。
1959(昭和34)年に網走支庁において乳牛飼育を主体とする機械化による主畜農業経営が樹立された。その後1963(昭和38)年には経営規模の拡大と自立経営の育成を主体にした「山園パイロット事業」を5月に採択する。


1872(明治5)年、3月開拓使庁が北見国4郡の村名を定め、網走郡はトヲフツ・ナヨロ・モコト・ニクリバケ・イチャニ・アバシリ・モヨロ・ノトロの8村となる。(網走市の開基となる)9月出張開拓使庁を開拓使根室支庁と改める。
873(明治6)年、アバシリ村に開拓使根室支庁網走出張所をおき、紋別・常呂・網走・斜里の各郡と、釧路国網尻郡を所轄、紋別郡に分局をおく。
1874(明治7)年、9月モコト村から釧路国境ペケルチシに至る官設道路を開鑿。
1880(明治13)年、網走村に開拓使、網走・斜里・常呂・紋別郡役所(網走外三郡役所)開庁する。9月知床硫黄山大爆発、硫黄噴出3日間におよぶ。
1886(明治19)年、1月3県を廃して北海道庁設置、函舘・根室に支庁をおき、網走外三郡役所は従来どおり4郡を管轄する。
1887(明治20)年、釧路監獄署により釧路〜網走間の道路開鑿に着手。
1889(明治22)年、北海道植民計画により藻琴原野実測される。網走測候所設置される。
1890(明治23)年、11月硫黄山〜網走間の道路完成「釧路道路」と呼ばれる。
1900(明治33)年、藻琴原野解放される。
1902(明治35)年、山脇常三郎(現・東藻琴市街地)、神七郎右エ門(現・西倉地区)に未開地貸付認可する。釧路道路〜東藻琴に至る基線道路三里十一町二十七間の開削を行う(現在の網走市役所の近くから駒場、鱒浦、藻琴の台地を通り、小清水、川湯を経て釧路に向かう道があった)。
1905(明治38)年、森弁七が山脇常三郎より貸付地の権利を譲り受ける。
1906(明治39)年、吉井権蔵と梅谷房蔵らが入地する(場所は不明)。
1907(明治40)年、森弁七らが東藻琴原野に入地する。橋本寅次郎が薄荷栽培を開始する。森弁七が池田今朝五郎より五万坪の地域を譲り受ける。
1909(明治42)年、森弁七が澱粉工場を開設する。
1911(明治44)年、10月現在の千草部落に伊藤勘次郎、大橋宗五郎、諸戸清久らが入植する。
1912(明治45)年、神七郎右エ門の牧場は西倉重十郎の手に移る。大法寺(現・網走郡大空町東藻琴南区)が開設され、平尾昌道氏が入地する。
1913(大正2)年、東藻琴の市街地区画割り完了する。6月網走の遠藤熊吉に藻琴原野2000町歩の払下げ認可下りる。
1914(大正3)年、竹内権平に藻琴駅逓の認可が下りる。シブイ藻琴、新藻琴、丸万、上藻琴地区に団体移民が入植する。
1915(大正4)年、4月能取村・藻琴村を廃して網走町に併合、1級町村制施行。
1918(大正7)年、森幾太郎が精米工場を操業する。9月分村運動が起こる。
1919(大正8)年、東洋燐寸制軸工場設立する。
1921(大正10)年、4月網走町大字網走村の1部及び大字最寄村の1部を分離して女満別分村。
1924(大正13)年、11月釧網線網走〜北浜間開業し、鱒浦、藻琴、北浜の駅を設置する。
1925(大正14)年、福富地区に亀井直太朗ら13戸入植する。11月北浜〜斜里間延伸開業し、浜小清水、止別、斜里の駅を設置する。
1926(大正15)年、3月網走町立藻琴農学校設置認可下りる。7月藻琴青年訓練所開設する。藻琴〜東藻琴間自動車運転開始する。
1931(昭和6)年、9月札鶴〜川湯間延伸開業し全通する。網走本線網走〜札弦間を釧網線に編入する。
1932(昭和7)年、牛乳加工場設置する。
1935(昭和10)年、3月藻琴山麓山園に64戸、福富地区に15戸入植する。10月藻琴〜東藻琴間の簡易植民軌道が開設される。阿部文平に山園駅逓所開設認可下りる。
1937(昭和12)年、植民軌道が山園まで運行開始する。
1938(昭和13)年、部落の字名を改称する。
1939(昭和14)年、分村運動活発となる。
1942(昭和17)年、10月網走町役場出張所開設される。
1947(昭和22)年、2月網走町から東藻琴村(現・大空町)を分村する。
1948(昭和23)年、東洋部落などに36名の入植者を受け入れる。東藻琴村隔離病舎設置する。
1949(昭和24)年、11月東藻琴集乳所改築し落成する。12月植民軌道東洋分岐線福富〜東洋沢に至る7.8km開通する。
1950(昭和25)年、5月美幌〜東藻琴間自動車運転開始する。
1951(昭和26)年、3月役場庁舎竣工する。
1953(昭和28)年、10月植民軌道は村営に移管される。12月千草、福富部落電化工事完成する。
1954(昭和29)年、12月明生、新富、大進部落電化工事完成する。簡易上水道施設竣工する。
1956(昭和31)年、9月臨時村議会にて網走市との合併不賛成となる。12月山園、広栄部落電化工事完成する。
1959(昭和34)年、8月東藻琴農業協同組合共同集乳場落成する。
1960(昭和35)年、12月東洋、旭台の電化工事完成する。
1961(昭和36)年、藻琴〜東藻琴間の軌道を廃止し軌条を撤去する。10月藻琴山国設スキー場設置指定される。
1962(昭和37)年、1月藻琴山国設スキー場開設される。6月30日2時45分十勝岳で大規模な噴火が発生、噴煙は高度12,000mにも達し、藻琴地区でも降灰により家畜飼料被害にあう。
1968(昭和43)年、1月北区を北一区、北二区に分割する。11月末広地区簡易水道竣工する。12月西区簡易水道竣工する。
1970(昭和45)年、林野庁が藻琴山を自然休養林に指定する。8月広栄地区村営の温泉(藻琴山温泉)試掘事業竣工する。ボーリングは515m。9月藻琴山自然休養林施設起工式挙行。ユースホステル新築落成。
1972(昭和47)年、藻琴山自然休養林開設する。上東、西倉、旭台地区に簡易水道布設される。
1973(昭和48)年、上東、西倉、旭台、東地区に簡易水道完成する。
1974(昭和49)年、さけ、ます孵化場藻琴事業所落成する。東藻琴〜川湯間のバス開通する。千草地区簡易水道竣工する。
1978(昭和53)年、役場庁舎建設起工する。
1979(昭和54)年、役場庁舎・消防庁舎落成する。
1982(昭和57)年、乳製品加工研究所落成する。
1983(昭和58)年、白かば台スキー場が上東地区に完成する。
1990(平成2)年、村の特産品である「スモークチーズ」を発売する。役場庁舎西側の温泉ボーリングにて52.3℃の温泉が湧出する。
1995(平成7)年、ふれあいセンターフロックスが新築落成する。
1996(平成8)年、乳酪館落成する。「アイスクリーム・牛乳・チェダーチーズ」が新発売となる。
東藻琴村史・東藻琴村史第二巻参考

 
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