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浅利古城子句碑

住所 網走市呼人78 ホテル網走湖荘敷地内

一般社団法人 網走市観光協会

網走の由来は、アイヌ語の「チパ・シリ」(祭壇のある島)と呼ばれていたものが古語のため難解になり、「ア・パ・シリ」(我らの見つけた地)または「アパ・シリ」(入り口の地)となったとされる。
呼人の由来は、アイヌ語の「イ・オピ・ト」(別れ出ている湖)に由来し、網走湖の地形に起因するものとされている。

国道39号線沿いにあり、網走市街地から約6.0kmほど。
古城子は53歳の壮年で他界したが、1948(昭和23)年「国敗れて山河あり、われ此処に観光の鍬を下す」と宣言し、網走湖畔に基礎を作る。湖畔に建つホテル「網走湖荘」の創業者であり、網走を道立公園から国定公園に昇格させるなど網走の観光を進めた先駆者でもある。
句を詠んだのは、1957(昭和32)年の初夏、句碑の建てられた辺りから網走湖を望んで詠んだそうだ。
碑は、1972(昭和47)年10月17日十七美会、呼人同志会、観光後援友の会によって建立された。

一陣の青嵐
見えて遥かなる
   古城子

碑文
故浅利栄一(古城子)戦後荒廃の故山に
帰り「国敗れて山河あり。山紫水明の郷
土網走、その生きる道は、観光あるのみ」
と喝破す。「われ此処に観光の鍬を下す」
とささやかなる草庵を結び、網走湖荘と
名づく。これ観光網走の出発点である。
爾来二十有五星霜、網走観光躍進のうち
に、網走開基百年を迎え故人の十七回忌
を期しここにその遺業を讃えて顕彰句碑
を建立する。 昭和四十七年十月十七日
網走の碑参考

網走湖荘は、1947(昭和22)年5月に創業。建物は1964(昭和39)年と1967(昭和42)年に建設、改築した本館、1973(昭和48)年の第一新館、1982(昭和57)年の第二新館、1989(平成元)年の大浴場棟の四つで構成されている。
このうち玄関やフロントなどの本館が、創業五十年を契機に増改築している。
すべての客室の段差解消やスロープ取り付けなどバリアフリーに配慮し、従業員へのホスピタリティを向上させるなどハードとソフトの両面からお客様をもてなす心遣いを忘れない。
温泉は日帰り入浴も可能。
日帰り入浴 12時〜22時(閉館23時)
入浴料 大人500円、小人200円 泉質 ナトリウム-塩化物泉(アルカリ性低張性高原泉)旧泉質名 弱食塩泉泉温
源泉温度 57℃、天然温泉(放流・循環併用式・加温している)
大浴場、 サウナ、露天風呂、貸切風呂、貸切露天風呂がある。
適応症 神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、疲労回復、きりきず、慢性皮膚病、虚弱児童、慢性婦人病、リウマチ性疾患など


1947(昭和22)年、5月浅利栄一氏は、敗戦の失望の中で自然を愛し網走観光開発を決意し「網走湖荘創設の心」を起草する。
1948(昭和23)年、10月網走湖畔の茂みに15坪の草庵を構え、貸席として業をはじめ公衆のレクレーションの場とする。
1953(昭和28)年、6月浴場、別館等90坪を増築し、旅館としての発足する。
1956(昭和31)年、10月栄一、高血圧心臓弁膜症のため急逝。
1957(昭和32)年、5月長男清一氏は、道教育委員会を退職し、跡を継いだ。
1959(昭和34)年、7月有限会社を組織し、清一が代表取締役となる。ユースホステルの活動に共鳴し、ホステル契約をする。
1962(昭和37)年、4月日本観光旅館連盟会員となる。
1973(昭和48)年、6月組織を株式会社として浅利清一代表取締役に就任。
1981(昭和56)年、9月1000mほど掘削し温泉湧出する。湧出温度は52度。毎秒120リットルの湧出。
1991(平成3)年、12月国際観光ホテル整備法に基づき政府登録国際観光旅館となる。
1999(平成11)年、11月網走湖荘創業50年・新本館落成記念披露。
2004(平成16)年、1月「第29回プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」に選ばれる。


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