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網走市立郷土博物館

住所 網走市桂町1丁目1番3号
TEL 0152-43-3090
開館時間 火曜日〜日曜日 9時〜17時、冬期間(11月〜4月)は16時まで
休館日 月曜日、国民の祝日、年末年始(12月31日〜1月5日)
入館料 大人120円、小中学生60円

一般社団法人 網走市観光協会

網走の由来は、アイヌ語の「チパ・シリ」(祭壇のある島)と呼ばれていたものが古語のため難解になり、「ア・パ・シリ」(我らの見つけた地)または「アパ・シリ」(入り口の地)となったとされる。
桂町の由来は、釧網本線近くの道ばたに桂の木の老木があり、稲垣吉慎氏がこの木を大切にし、桂ケ岡という名をつけた。その後桂町と字名が変わっている。
国道244号線の南6条東2の交差点から、釧網本線の踏切を渡り網走運動公園方向に約290mほどを斜めに右折、約120mほどを右折。看板があるので分かりやすいだろう。

この辺りは、桂ヶ岡砦阯(かつらがおかちゃしあと)といわれ、網走市のJR釧網本線に面した舌状台丘陵地(北側が断崖になって東方向に張り出した)の、桂ヶ岡公園内にあり、1935(昭和10)年12月24日に国の史跡に指定された。

この建物は、1936(昭和11)年11月「北見郷土舘」として、北海道を代表する建築家「田上義也」氏の設計で建設、開舘したもので北海道で最も歴史の古い博物館のひとつである。
当時の米村喜男衛名誉館長が長年にわたり収集した考古、民族資料3000点が提供され、それが基礎となり開館にこぎつけた。
1948(昭和23)年4月、網走市に移管され北見郷土館が網走市立郷土博物館となる。1961(昭和36)年11月には別館が増築された。
主な展示資料は、明治・大正期の公文書、藤野家の調度品、アイヌや縄文時代などの出土品、開拓期の農機具、漁業・林業資料、大正〜昭和期の生活用具、動物の剥製などが展示されている。
1階では、海の動物、森の自然、林・水辺の自然、特別展室となっており、オホーツク海に棲息する海の動物たちや海や湖、草原、森林、高山など、生育地ごとの特徴的な鳥類、北海道の動物、昆虫、網走周辺の主な植物などを展示している。
2階では、旧石器・縄文・続縄文、擦文文化などの解説、オホーツク文化・擦文・アイヌ文化出土品や解説、明治・大正以降の開拓の歴史文化など学ぶことが出来る。他にも休憩室が2階にある。
また、網走市立郷土博物館の分館として「モヨロ貝塚館」が、1965(昭和40)年に建てられたが、改築のため2011(平成23)年閉館。2013(平成25)年5月1日「モヨロ貝塚」の発見から100年の記念すべき年にモヨロ貝塚館リニューアルオープン。館内では、発掘調査から明らかになった暮らしを、「住居」「墓」「貝塚」のテーマごとに展示・紹介している。

案内板
網走市立郷土博物館
 昭和十一年十一月三日、当時の社団法人北見教育会が地方の
振興と文化の発展を目的に「郷土博物館」として開設、開館し
たものです。
 開館にあたっては、故米村喜男衛名誉館長(網走市名誉市民)
が長年にわたり収集した考古、民族資料三千点が提供されそれ
が基礎となりました。
 昭和二十三年四月、網走市に移管され昭和三十六年十一月に
は創設二十五周年を記念して別館が増設され展示内容の充実が
図られました。
 建物は、木造二階建で、正面中央の赤いドームが特徴的な洋
風建築であります。北海道を代表する建築家 田上義也氏
(1899年〜1991年)により設計されました。
田上氏は師事したアメリカの建築家フランク・ロイド・ライト
の影響を受けながらも北海道の気候風土に根ざした建築をつく
り続け、北海道近代建築のパイオニアと称される一方で、
ヴァイオリンの演奏やオーケストラの指揮を執るなどの多才な
一面を見せました。
 いまや北海道の中でも最も歴史の古い博物館の一つとし
て、網走の豊かな「自然」と古代から現代に至る「歴史」
を展示開設し、郷土のあり方を探ろうとしています。

1602(慶長7)年、世界地図に「亜馬是里」の文字あらわれる。
1685(貞享2)年、宗谷場所が開設される。(場所は、対アイヌ交易のため和人が訪れる所定の場所)
1750(寛延3)年、村山伝兵衛、ソウヤ場所を請負う。
1756(宝暦6)年、浜屋与三右衛門ら3人が、ソウヤ場所を請負う。
1775(安永4)年、ソウヤ場所を飛騨屋久兵衛が請負う(村山伝兵衛が8年間下請けする)
1782(天明2)年、飛騨屋久兵衛が宗谷斜里場所を請け負う。
1785(天明5)年、最上徳内が、金山を開く目的で蝦夷地を調査する。
1789(寛政元)年、国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村上伝兵衛に場所請負を命ず。
1790(寛政2)年、ソウヤ場所からカラフト場所独立、シャリ場所を分設し村山伝兵衛、斜里場所運上屋差配人となる。
1796(寛政8)年、村山伝兵衛の場所請負没収、ソウヤ・シャリ・カラフトの3場所、小山屋権兵衛の請負となる。
1797(寛政9)年、小山屋にかわり板垣豊四郎が3場所を請負う。
1800(寛政12)年、ソウヤ・シャリ・カラフトの3場所、松前藩の直営とし柴屋長太夫に任せる。
1801(享和元)年、エゾ地御用掛松平信濃守忠明一行、西エゾ地巡検途上にアバシリに立ち寄る。シラヌカ駐在の八王子同心が、シベチャ〜シャリ間の山道を開鑿する。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。宗谷・斜里警備の津軽藩兵水腫病にかかり翌春へかけて死亡者多数におよぶ。
1808(文化5)年、会津、仙台藩の兵が蝦夷地に派遣される。柏屋喜兵衛(後の藤野)ほか、共同で宗谷・斜里場所の請負となる。
1812(文化9)年、藤野喜兵衛、アバシリ川河口右岸に弁天社を創祀する。ご神体は弁財天で、のち町民が譲受けて厳島神社となる)。
1815(文化12)年、宗谷・斜里場所藤野喜兵衛の単独請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島クナシリ場所を請負う。
1821(文政4)年、幕府は、東・西蝦夷地を松前藩に返領する。
1833(天保4)年、藤野家、箱舘に支店をおき柏屋猪兵衛と称する。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が樺太探険の帰途、宗谷より枝幸・紋別・網走・斜里の各地に宿泊を重ね、知床半島突端に達し再び宗谷に戻る。
1854(安政元)年、幕府、箱舘奉行をおく。
1857(安政4)年、箱舘奉行・堀織部正利煕北海岸を巡検、従者・仙台藩の玉虫左太夫「入北記」にアバシリ・シャリ地方の役アイヌ人名など記す。
1858(安政5)年、藤野家、本店を箱舘に移し、福山(現・松前)を支店とする。
1859(安政6)年、蝦夷地を分領し、アバシリ・珊内(サンナイ)は幕府直轄領、シャリ・モンベツは会津藩領、ソウヤ・リシリ・レブンは秋田藩領となる。
1862(文久2)年、シャリ・モンベツにおける藤野家の場所請負を罷免される。アバシリは幕領のため存続となる。
1864(元治元)年、藤野家が、アバシリ川河口右岸に稲荷社を創祀する。(明治28年にオショップ(現・鱒浦)に移築)
1869(明治2)年、蝦夷を改めて北海道とし、11国86郡を定め、北見国網走郡となる。9月北見国を分領(網走・斜里郡は名古屋藩領、網尻・常呂郡は広島藩領、宗谷・枝幸・礼文は金沢藩領) 10月場所請負人の名目を廃し、漁場持と改める。
1871(明治4)年、4月札幌に開拓使庁をおき、函館・根室の開拓出張所を出張開拓使庁と改める。 7月開拓判官松本十郎が、はじめて北見国内を巡検する。 12月藤野伊兵衛、北見国東部及び根室国標津・目梨両郡の漁場持を命じられる。
1872(明治5)年、3月開拓使庁が北見国4郡の村名を定め、網走郡はトヲフツ・ナヨロ・モコト・ニクリバケ・イチャニ・アバシリ・モヨロ・ノトロの8村となる。(網走市の開基となる)9月出張開拓使庁を開拓使根室支庁と改める。
1873(明治6)年、アバシリ村に開拓使根室支庁網走出張所をおき、紋別・常呂・網走・斜里の各郡と、釧路国網尻郡を所轄、紋別郡に分局をおく。
1874(明治7)年、9月モコト村から釧路国境ペケルチシに至る官設道路を開鑿。
1875(明治8)年、5月網走郡内の8村に漢字名をあて、アバシリ村は網走村となる。9月北見国アイヌ人に対するオムシャ全廃する。
1876(明治9)年、アイヌに苗字をつけさせ、待遇上の差別を取り除き、特別保護を廃止。
1879(明治12)年、この年、瀬川惣之助がはじめて網走村で越冬する。(自由移住者第1号となる)
1880(明治13)年、網走村に開拓使、網走・斜里・常呂・紋別郡役所(網走外三郡役所)開庁する。9月知床硫黄山大爆発、硫黄噴出3日間におよぶ。
1881(明治14)年、釧路国網尻郡(現・津別、美幌)を北見国網走郡に編入する。11月網走村網走川河口部右岸に市街地を区画して「北見町」と命名、宅地の払い下げ開始。
1882(明治15)年、開拓使を廃し、函館・札幌・根室の3県をおく。最寄村で町田孫六が川向の橋のたもとを開墾し、網走で初めて野菜栽培による営農を試み成功する。(馬鈴薯、大根、麻など)猪股周作が果樹栽培を試みる。
1886(明治19)年、1月3県を廃して北海道庁設置、函舘・根室に支庁をおき、網走外三郡役所は従来どおり4郡を管轄する。
1887(明治20)年、釧路監獄署により釧路〜網走間の道路開鑿に着手。
1889(明治22)年、8月知床硫黄山爆発して溶解硫黄の流出、噴煙をあげる。 北見国の植民地選定に着手する。 藤野家、汽船芳野丸を購入し函館・根室・網走間の定期航海を行う。8月網走測候所設置する。
1890(明治23)年、4月最寄村ベナタンナイに釧路監獄署囚徒外役所の造営に着手し、7月釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所(現在の網走刑務所の前身)が開設される。11月硫黄山〜網走間の道路完成「釧路道路」と呼ばれる。網走郡内で水稲試作。釧路から標茶経由網走まで電信回線架設する。
1891(明治24)年、4月網走分監による網走〜上川間の道路開さく着工し、同年末完成「中央道路」と呼ばれる。6月釧路集治監網走分監と改め、8月北海道集治監網走分監となる。
1892(明治25)年、3月中央道路沿いの越歳・端野・相内・留辺蘂・上佐呂間・野上・下白滝・白滝に駅逓開設する。
1893(明治26)年、7月網走村オショップ(現・鱒浦)に藤野家が牧場開設する。11月能取村ノトロ(現・美岬)に原鉄二郎が牧場開設する。
1896(明治29)年、寺永法専師、自坊にて免囚保護事業を始める。(1907(明治40)年寺永慈恵院と改める)吉田甚松、最寄村レブンシリ(嘉多山)で水稲の試作に成功。
1897(明治30)年、5月北光社移民団が網走港に上陸、野付牛村(現・北見市)の北光社農場へ向かう。 5月北海道集治監網走分監閉鎖となる。6月網走港に船便で屯田兵の第1陣が到着。
1898(明治31)年、8月北海道集治監網走分監が再開するも10月廃監となる。
1901(明治34)年、北海道集治監網走分監再開する。
1902(明治35)年、シレト岬を迂回するポンモイ道路を開鑿する。4月網走郡網走村、北見町、勇仁村(いさに)、新栗履村(にくりばけ)を合併し2級町村制施行、網走郡網走町となる。
1903(明治36)年、網走監獄に改称する。
1904(明治37)年、2月網走監獄の囚徒16名脱獄し、うち2名が行方不明となる。
1908(明治41)年、8月広島県厳島神社の分霊を迎えニクル(桂町)に網走神社創祀する。
1909(明治42)年、大字網走村大曲〜呼人間の湖岸道路開鑿工事に着手。4月網走監獄全焼する。(明治45年復旧する)
1912(大正元)年、10月網走〜野付牛間に鉄道開通し、網走本線(網走〜十勝池田間)全通する。
1913(大正2)年、9月米村喜男衛来住し、理髪業(米村バーバーショップ)のかたわら網走地方の考古学的調査・研究はじめる。
1915(大正4)年、4月能取村・藻琴村を廃して網走町に併合、1級町村制施行。9月網走に初めて電気が通る。
1921(大正10)年、4月網走町大字網走村の1部及び大字最寄村の1部を分離して女満別分村。
1922(大正11)年、10月網走監獄を網走刑務所と改める。12月釧網線敷設工事着工。
1924(大正13)年、1月俳人臼田亜浪来遊吟詠。11月釧網線網走〜北浜間開通する。
1925(大正14)年、9月網走支庁長渡辺勘一、「天都山」を命名。11月釧網本線網走〜斜里間開通する。
1928(昭和3)年、5月網走漁業組合、藻琴湖から網走湖へシジミ移殖する。
1930(昭和5)年、3月網走築港工事竣工する。6月北見鉄道会社、止別〜小清水間開業する。
1931(昭和6)年、9月釧網線全通する。
1932(昭和7)年、10月石北線全通する。
1935(昭和10)年、10月湧網東線の網走・卯原内間開通する。12月文部省、網走町桂ヶ岡砦阯(チャシ)を史蹟に指定。
1936(昭和11)年、10月湧網東線(網走〜常呂間)開通、西線(中湧別〜中佐呂間間)は17日開通する。11月北見郷土館開館する。12月文部省、網走町最寄貝塚を史蹟指定する。
1945(昭和20)年、7月米軍機、網走を空襲。(網走地方の犠牲者14名)9月ソ連軍、千島列島を占領する。
1947(昭和22)年、2月網走町から東藻琴分村東藻琴村(現・大空町)を分村する。市制施行し、網走市となる。
1948(昭和23)年、1月米村喜男衛によるモヨロ貝塚発掘調査報告会開く。9月第2次モヨロ貝塚発掘調査始まる(10月8日終了)。北見郷土館が網走市立郷土博物館となる。
1951(昭和26)年、11月天都山頂に展望台完成。
1953(昭和28)年、10月湧網東・西線(網走〜中湧別間)全通し、湧網線となる。
1956(昭和31)年、6月網走市オホーツク水族館が開館。11月道道北見〜網走線(旧・中央道路)改良工事本年度分完了する。
1959(昭和34)年、2月涛沸湖の湖口掘りあげ水路開削する。
1963(昭和38)年、水没遺跡の網走湖底遺跡で国内初の潜水発掘調査が行なわれる。
1966(昭和41)年、2月第1回オホーツク流氷まつり開幕する。6月モヨロ貝塚館開館する。
1973(昭和48)年、6月映画「男はつらいよ」シリーズ11作目「忘れな草」の網走ロケ開始(12〜17日)
1978(昭和53)年、4月網走港重要港湾指定される。
1975(昭和50)年、7月オロッコの人権と文化を守る会発足。9月呼人で温泉(43℃)湧出。
1983(昭和58)年、3月ポンモイ柱状節理を網走市指定天然記念物に指定。7月博物館網走監獄開館する。
1985(昭和60)年、4月オホーツク流氷館開館する。
1987(昭和62)年、3月湧網線廃止となる。
1988(昭和63)年、1月卯原内鉄道記念館開館する。
1989(平成元)年、1月博物館「網走監獄」の移築工事完了。
1991(平成3)年、2月北海道立北方民族博物館が開館。
1994(平成6)年、6月オートキャンプ場「てんとらんど」オープンする。
1997(平成9)年、1月流氷観光砕氷船「おーろらT・U」の営業運行始まる。
2002(平成14)年、8月網走市オホーツク水族館が閉館となる。
2006(平成18)年、2月全編オホーツクロケ映画「子ぎつねヘレン」の完成披露上映会が25日、網走市民会館で開かれた。7月モヨロ貝塚の発掘が1日〜9月中旬まで7号住居址(し)と10号住居址などの発掘。
2009(平成21)年、1月道の駅 流氷街道網走オープン、メイン施設はみなと観光交流センター。
2015(平成27)年、8月オホーツク流氷館リニューアルオープンする。旧オホーツク流氷館は解体開始。
網走市史、上巻・下巻参考

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