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ユルリ島・モユルリ島

住所 根室市昆布盛
島への立入りは禁止されている

根室市観光協会

根室の由来は、語源は早くに忘れ去られ不明であるが諸説ある。江戸時代の記録には「子モロ」「根諸」などと記され、根室市では「根室国」を命名した松浦武四郎による「知床日誌」では、アイヌ語の「ニ・ムイ」(木・湾の意)を由来とし、この説を採用している。他にも「ニイモヲロ」(静かで樹木のあるの意)・「ニノヲロ」(ウニがあるの意)・「ニムオロ」(樹木繁茂する所の意)・「ネムロコタン」(池のある集落)・「メム・オロ・ペッ」(湧壺・そこにある・川の意)などとある。
昆布盛の由来は、「コムプモイ」(昆布・湾)の意。
ユルリ島の由来は、アイヌ語の「ウリリ・モシリ」(鵜の島)。モユルリというのは小さなユルリの意。

道道142号根室浜中釧路線から長節へ降りる高台から太平洋側の沖合に島が見える。右がユルリ島、左側がモユルリ島である。ユルリという地名は江戸期から見られ子モロ場所の持ち場だったようである。アイヌの住民が住んでいた記述も見られる。松浦武四郎が著した「初航蝦夷日誌には「ユルリ、周廻一リ廿三丁廿四間。此処陸地コンブモヱと纏廿三、四丁隔ちて通船懸ろ潤よろし。海岸深く海参、海草多し。又異国船も寛政渡来来す。実ニ此海湾汐行甚強しといへども船澗懸りはよろしき由也。」、同「ユルリ、周り凡二里と云り。其島周り岩磯にて上は平地。樹木赤楊少し有るのみ也。並びて、モユルリ、周り凡一里と云り。共に平島にして続。惣て岩なり。是むかしアツケシ土人海馬、水豹猟場のよし」と見える。
昆布盛との間をユルリ海峡と称している。緩島と表記されていた。花咲岬の沖合約7.5km、昆布盛地区からでも約2.6km離れている。ユルリ島は、面積2.1平方km(約200ha)、周囲約7.8km、海抜43.1m・標高42.2mの断崖に囲まれた平坦な台地状の島である。山は無い。

モユルリ島は、面積0.3平方km(約30ha)、周囲約3km、標高37m。隆起性海蝕台地。両島とも無人島で、住所は根室市昆布盛。

両島は、北洋の鳥の南限繁殖地であると共に、島中央部の高層湿原は希少な植物が多く生育しているとして、1963(昭和38)年10月ユルリ・モユルリ島海鳥繁殖地を北海道指定の天然記念物とする。1971(昭和46)年ユルリ島から人が去り無人島となる。1976(昭和51)年ユルリ島・落石岬が道自然環境保全地域に指定される。1982(昭和57)年年3月31日に「ユルリ・モユルリ鳥獣保護区」に指定、2001(平成13)年ユルリ島が環境省選定の「日本の重要湿地500」に選ばれる。上陸には根室市の特別な許可が必要。
また、野生化した馬が生息する島としても有名で、漁師がユルリ島へ移住したのは1950(昭和25)年。馬が移入されたのは1951(昭和26)年昆布漁の労力として持ち込まれた。現在も残っている馬はその子孫たちである。馬をこの島に導入したのは、海岸の崖を登って台地上に昆布を運ぶ必要があり大変な作業だったために馬を持ち込んだという。最も多い時で島には約6軒の番屋があった。1971(昭和46)年ユルリ島から人が去り無人島となる際に、本土に馬を放牧する土地をもたなかった漁師は、馬を島に残すことを決意する。その後、残された馬は世代を重ね野生化していった。平成の初めころには30頭前後の馬が生息していた。
しかしかつて島に住んでいた漁師の高齢化もあり、2006(平成18)年18頭の馬が生息していたが、種馬を含む4頭の馬が間引きされ、14頭の牝馬だけが残り、その後3頭まで減っていた。
2011(平成23)年ユルリ島の馬の歴史を記録するため、写真家の岡田敦氏が島の撮影を開始。それを機に徐々にユルリ島への関心が高まってゆく。ユルリ島の馬は2011年に12頭。2014(平成26)年5頭。
2017(平成29)年根室市総合文化会館にて講演会「写真家・岡田敦がとらえた根室の魅力」を開催。シンポジウム「ユルリ島はどうあるべきか」も開催された。「根室・落石地区と幻の島ユルリを考える会」設立。ユルリ島の馬は3頭。 2018(平成30)年「根室・落石地区と幻の島ユルリを考える会」がクラウドファンディングにて馬の購入資金を募る。9月ユルリ島に新たに3頭の馬(オス1頭・メス2頭、1歳の道産子)が持ち込まれる。

ちなみに、芦別市にある清水武男世界空撮写真館では、野生馬の島「ユルリ島」の空撮写真を多数展示しており、野生馬が20頭以上いた時の貴重な写真を見ることが出来る。
住所 芦別市西芦別町11番地6 TEL 0124-25-6006(にしあしの里) 休館日 月曜日・火曜日(変更有要確認)
開館時間 10時〜16時 料金 無料

昆布盛は、1967(昭和42)年から現在の字名。元は大字昆布盛村の一部。キモントウ、紋島、ユルリ島、昆布盛、コンブモリ、瀬臥牛(せふせうし)、セフシウス、チョウボシ、、ユルリ・モユルリ島はエトピリカ・チシマガラスなどの海鳥繁殖地となっている。江戸期から見られる地名でコンブモヱと表記されている。アツケシ場所に属した。コンフムイ・コンブイなどの表記もあった。1701(元禄14)年松前藩がキイタップ場所(霧多布場所・後の根室場所)を開き、アイヌと交易する。1754(宝暦4)年霧多布場所の小屋を根室ノッカマップに移す。1789(寛政元)年蝦夷地で和人に虐待されていたアイヌが蜂起するクナシリ・メナシの戦いが起こる。1799(寛政11)年幕府は東蝦夷地(箱舘から知床までの東海岸)を7ヶ年を限り仮直轄。南部藩がネモロ・クナシリ・エトロフに勤番所を設ける。チョウボシ(長節)にはこの頃からネモロ場所とアツケシ場所の境界とされ標柱があったとされている。1821(文政4)年幕府、蝦夷地を松前藩に返還。南部・津軽藩兵を撤退させる。1833(天保4)年ユルリ島の漁業権を巡りアッケシ場所とネモロ場所間に紛争起こる。1843(天保14)年3月根室国地方に大津波あり。46人死亡、家屋倒壊75戸、船61隻被害受ける。1845(弘化2)年松浦武四郎始めて東蝦夷地を知床まで探検し知床日誌を著す。 この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人和賀屋孫兵衛の手代を名乗って函館、室蘭、襟裳、釧路、厚岸、知床、根室、函館と探検した。1855(安政2)年幕府、松前・江差地方を除く全島を直轄。東蝦夷地は仙台藩の警備地となる。1856(安政3)年に建てた標柱には「従是東子モロ領西アツケシ領、箱館奉行御領所喜多野省吾持」と書かれてあった。松浦武四郎が著した「初航蝦夷日誌」には「コンブモヱ、小川有。番屋有。又右の方少し山ニ入小沼有るよし」、同「戊午日誌」には「コンフムイ、此処南に一ツの岩岬有、少しの湾に成る。コンフムイ実はコンフウシムイのよし。全昆布多く有るより号るとかや。番屋一棟、板蔵、茅蔵一棟、小休所一棟。是鮭番屋のよし也。是より砂浜まゝまた道よろし」と見える。

 1869(明治2)年8月蝦夷を北海道と改称し、11国86郡を画定する。釧路国厚岸郡に属する。1871(明治4)年5月開拓使庁を札幌に置き、函館・根室の開拓使出張所を出張開拓庁とする。1872(明治5)年昆布盛村の一部となる。1878(明治11)年5月根室〜浜中間の道路を南海岸に移し厚別駅逓を廃し、落石駅逓を置く。1879(明治12)年頃青森・岩手などから移住者がある。長切昆布が主産業となる。1881(明治14)年8月厚岸郡の落石・昆布盛を花咲郡へ編入する。コンブモヱ・シユムウシ・ユルリ・チョウフシなどからなる。成立時はコンブモリ村。1875(明治8)年にカナ書アイヌ名を漢字に改め「昆布盛村」と表記した。1882(明治15)年開拓使を廃し、函館・札幌・根室の三県を置く。4月根室県庁開庁し、諸々を開拓使より引き継ぐ。根室県に属する。1883(明治16)年落石・昆布盛にて昆布営業組合を組織する。1884(明治17)年6月屯田兵村を根室郡・花咲郡の一部に置くことが内定する。1885(明治18)年5月根室外九郡長和田正苗が屯田兵少佐に任ぜられる。1888(明治21)年9月根室郡に和田村を新設する。1889(明治22)年5月和田・落石・昆布盛の三村を合せ和田外二村戸長役場を開設する。1891(明治24)年昆布盛の戸数は34戸、168人。1894(明治27)年頃早くから拓けていた長節に児童教育所設置する。1895(明治28)年この頃南部・渡島国茅部地方から移住者が増える。1896(明治29)年昆布盛簡易教育所となる。1900(明治33)年和田外二村戸長役場に穂香(現・根室市)・幌茂尻・厚別の三村を加えて和田外五村戸長役場となる。この頃から昆布を原料とするヨード(ヨウ素といい、体になくてはならないミネラル)の製造が普及する。1901(明治34)年昆布盛簡易教育所は長盛尋常小学校となる。長節に八幡宮建立する。1904(明治37)年根室山開法寺(1873(明治6)年に根室弔祭所(後の根室山開法寺・弥栄町1丁目1番地)建立し、根室で最初の寺となった)に属する曹洞宗長盛説教所設置する。1906(明治39)年4月和田・落石・昆布盛・穂香・幌茂尻・厚別を割いて和田村と改め、二級町村制を施行する。和田村役場を置く。和田村の大字となる。1910(明治43)年の昆布盛の戸数は83戸、541人。この頃から漁業不振により転出者が続く。瀬臥牛(現・根室市浜松)神社建立する。明治末期には長節湖南端に弁天が祀られていた。

 1913(大正2)年長盛小学校は閉校となり和田小学校の分教場となる。1914(大正3)年5月大日本水産株式会社が昆布盛で捕鯨事業を開始する。人口も増えて活気が戻るが、遠浅だったこともあり、食用処理の不都合がありその後霧多布へ移転している。6月大津滝三郎が8人乗りフォード自動車二台を購入し、市内や根室〜落石間を運行する。1916(大正5)年大津滝三郎(北日本養狐場)がユルリ・モユルリ島で養狐事業を開始する。1917(大正6)年和田小学校昆布盛特別教授場を設置する。1920(大正9)年11月国有鉄道(後の根室本線)の厚床〜西和田間を延伸開業、初田牛・別当賀・落石・西和田の各駅を新設。1921(大正10)年8月西和田〜根室間延伸開業により全通する。花咲駅・根室駅を新設。1926(大正15・昭和元)年和田村役場を西和田駅前に移転する。大日本水産株式会社は霧多布に移転する。大正末期には養狐事業は廃止。ユルリ島にて馬の放牧がおこなわれた。

 1927(昭和2)年和田小学校昆布盛特別教授場は廃止となる。カニ缶詰工場が設置され人口が増える。1930(昭和5)年西国三十三観音霊場として観音像安置する。林間歩道も完成する。1933(昭和8)年落石小学校昆布盛分校として開校する。1938(昭和13)年11月長節湖が落石漁業協同組合に払下げられる。1954(昭和29)年昆布盛漁港が第一種漁港に指定される。1957(昭和32)年8月根室町と和田村を合併し、根室市が誕生する。根室市大字昆布盛の一部となる。1960(昭和35)年6月長節湖湖水祭開催する。ユルリ島西部に無人灯台設置する。1961年(昭和36年)2月日本国有鉄道の昆布盛駅として開業。1962(昭和37)年落石漁港が第二種漁港に指定される。長節湖を含む野付風蓮道立自然公園に指定される。1963(昭和38)年10月ユルリ・モユルリ島海鳥繁殖地を北海道指定の天然記念物とする。1964(昭和39)年落石地区で高師小僧(土中で生成される褐鉄鉱の固まり)が大量に発見される。1966(昭和41)年落石漁協にユルリ島を払下げられる。1967(昭和42)年大字が廃止され字昆布盛・浜松・長節となる。1970(昭和45)年の世帯数は52戸、299人。1974(昭和49)年落石漁協にてワカサギ1億匹、ニジマス1種3万尾の孵化・放流を行う。1976(昭和51)年ユルリ島・落石岬が道自然環境保全地域に指定される。


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