四号駅逓跡住所 北見市留辺蘂町丸山丸山峠北見観光協会 道道103号留辺蘂浜佐呂間線を佐呂間町方面に向かい、丸山峠頂上手前にある碑で説明板はない。 駅逓は網走から旭川までの間に12箇所あり、留辺蘂四号駅逓をアイヌはルペシュペと呼んでいた。 花園にあった五号駅逓を佐路間、武華駅逓の上には富士見駅逓があった。 1892(明治25)年、岩手県人千葉新太郎が四号駅逓取扱人として入植する。 その後現在の市街一円を牧場として払い下げてもらい、千葉農場と称していた。 1891(明治24)年、中央道路開削に網走監獄の囚人を使役する。 1892(明治25)年、3月16日開駅、管理人・北村七平、取扱人・千葉新太郎 1895(明治28)年、人馬の継立てを行い始める。 1897(明治30)年、佐路間峠にあった四号駅逓を川向(現・宮下町)に移転、部落形成は川向から始まった。 駅逓の宿泊の部分は宿屋とし、郵便・荷物を運ぶ部分を郵便局に分離して留辺蘂郵便局を開設する。 このときの初代局長は次女の夫千葉能章で、千葉能章は後に町会議員議長を歴任、留辺蘂の功労者とされる。 1899(明治32)年、武華原野1号線以西の区画割が行なわれる。 1923(大正12)年3月31日廃駅となる。 道道103号留辺蘂浜佐呂間線(ほっかいどうどう103ごう るべしべはまさろません)は、北見市と佐呂間町を結ぶ主要道道である。 中央道路の経路は、上川〜北見峠〜遠軽〜佐呂間町栄〜丸山峠〜留辺蘂〜北見〜緋牛内〜卯原内〜網走である。 国道・道道として改良・現存しているのは、国道333号〜道道103号〜国道39号〜道道104号。 釧路集治監網走外役所(現・網走刑務所)は、中央道路(北見道路)の開削工事のために設置。 過酷な労働を強いられた囚人に多くの犠牲者がでて、ここ北見道路の工事では、従事した囚人1115人のうち238人が死亡したと言われている。 留辺蘂・生田原間で犠牲になった命は16人とも言われている。 北見道路が別名「囚人道路」と呼ばれるのは、多くの囚人の犠牲の上に出来た道路だったからといえる。 駅逓とは、宿場から宿場へ荷物を送り届けることで、宿(しゅく)つぎ。馬つぎとも言われた。 当時開拓のために北海道にやってくる人や、旅をしている人に宿泊所として使われたり、または人や馬を貸し出したりしていて、北海道独特の制度だったそうで、郵便の仕事も取りあつかっていた。 運営には半官半民の請負制がとられ、運営者は取扱人(とりあつかいにん)と呼ばれた。 北海道内には全部で238駅、配置されていた馬の数は2835頭にもなったそうだ。 1946(昭和21)年には制度自体が廃止になった。 大きな地図で見る |