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和田屯田兵碑

住所 根室市東和田977-1(和田神社境内内)

根室市観光協会

根室の由来は、語源は早くに忘れ去られ不明であるが諸説ある。江戸時代の記録には「子モロ」「根諸」などと記され、根室市では「根室国」を命名した松浦武四郎による「知床日誌」では、アイヌ語の「ニ・ムイ」(木・湾の意)を由来とし、この説を採用している。他にも「ニイモヲロ」(静かで樹木のあるの意)・「ニノヲロ」(ウニがあるの意)・「ニムオロ」(樹木繁茂する所の意)・「ネムロコタン」(池のある集落)・「メム・オロ・ペッ」(湧壺・そこにある・川の意)などとある。
和田の由来は、大隊本部長和田正苗氏の名を取って「和田」とした。
道道142号根室浜中釧路線沿いにあり、JR根室本線の西和田駅から根室市街地方向に約1.5km左手の神社境内。

碑は、1889(明治22)年6月に建立された。この碑の向い側には「和田開基100年記念碑」1986(昭和61)年6月建立。が立っているのですが写真撮るの忘れたみたいです。石碑には「天よ聴け地よ讃え 広い荒野が今豊かに潤っているのは四百四十の魂ははるかにこの百年を想う」というような内容が書かれています。
屯田兵碑は、屯田兵が扶助期間3ヵ年満期となったことを記念して建立したものである。石碑の題字は屯田兵本部長永山武四郎氏、碑文は第一中隊長篠崎彦二氏、揮毫は兵村本部会計課長山鹿直身氏(当時の役職)によるもの。
石碑の詳細は分からないが、屯田兵入地の経緯や困難を伴った3年間の兵農の任務遂行とその実績。「今後自立の道を歩むにおいても、郷土北辺の安全と発展を念頭に、初心を忘れずに精励しなければならない」とする「屯田魂」の決意が刻まれている。当所は公園地(現・東和田会館)に建てられていたが1934(昭和9)年に現在地に移転した。

案内板
根室市指定文化財(史跡)
和田屯田兵碑
 この碑は、和田屯田の業績を後世に伝
えるために、一八八九(明治二二)年に
現在の根室市西浜町一〇丁目の海岸から
屯田兵総出で自然石を運び、当時の東和
田公園予定地に建立したのもである。
 題字は、当時の陸軍少将永山武四郎、
撰文は、陸軍屯田兵大尉(第一中隊長)
篠崎彦二である。
 一九三四(昭和九)年には、この和田
神社境内に移設された。
 以上のように、この碑は和田屯田の歴
史を伝える重要な史跡である。
指定年月日 昭和五〇年七月二九日
管理者 根室市教育委員会

1884(明治17)年6月和田地区(根室郡・花咲郡の一部)を屯田兵制度により開拓すると事となり準備を進める。当時鬱蒼とした原始林だったところに根室市街地から道路を開削。16戸を一区画とする幹線道路と支線道路を整備し、兵村区画を設置する。1885(明治18)年根室・花咲郡内に屯田用地が決定する。5月根室外九郡長和田正苗が屯田兵少佐に任ぜられる。6月屯田兵仮事務所を根室県庁内に設置する。11月には大隊本部が設置され、屯田兵の受け入れと業務統括を担った。本部長には和田正苗が着任する。兵屋建設に着手する。
 北方警備と根室開拓の任を受けて、1886(明治19)年6月和田正苗大隊長他、新潟・福井・石川・秋田・山形・青森・鳥取の士族220戸、1083名が入地(東和田)。屯田兵村内に八幡神社を創祀する。屯田兵少佐和田正苗氏は屯田兵第二大隊長に任ぜられる。1887(明治20)年4月和田屯田兵村に郵便受取所を開設する。1888(明治21)年5月鳥取・福岡・広島の士族120戸が屯田兵として根室村に移住。9月根室郡に和田村を新設する。1889(明治22)年5月和田・落石・昆布盛の三村を合せ和田外二村戸長役場を開設する。6月和田兵村公園予定地に屯田兵記念碑を建立する。穂香村キトナイシ岬アッケシトウ海岸から搬出した自然石を使う。7月福岡・石川・鳥取・愛知・滋賀・静岡・三重・京都・東京の士族100戸を和田村(西和田)に入る。440戸、2208人となった。この当時の根室市街地の戸数が1389戸、15540人だったことから当時の和田は根室にとって大きな発展となる期待が大きかったことが伺える。
兵村は中央部の東側に220戸の地区を屯田歩兵第二大隊第一中隊。西側の220戸地区を同第二中隊とした。後に一中隊を「東和田」、二中隊を「西和田」と称した。
 和田の屯田兵村に入植したのは全員道外からの人で士族(いざというときに即戦力となると見込まれていたから)だった。しかし士族は元が武士だったこともあり、開墾や農作業には素人だったため入地後はかなり苦労したようである。ちなみに、出身県は鳥取82・石川71・福岡78・新潟53・福井49・秋田34・山形22・青森20・広島16・愛知8・滋賀3・他4の1都1府13県にも上った。
入地後は、碁盤の目のように区画され整然とした土地には、東西両地区の中心に市街地を設け、役場・郵便局・駐在所・医師の官舎が置かれ、旅館、雑貨店、鍛冶屋などの商店が30軒ほどあった。兵村には他にも、屯田兵練兵場・集会所・公園予定地・射的場・小学校なども置かれた。
屯田兵村では、畑作農業を計画され、畑では小麦・麻・蕎麦・馬鈴薯・粟・大麦・裸麦・蔬菜類が作付けされたが、どの作物も収穫量は少なかったようである。収穫した農作物を根室市街に売りに行っても思うようには売れず、収益は少なかった。3ヵ年の生活扶助期間(食料や金品を支給し保証する)を過ぎた屯田兵の生活は困窮した。この原因と考えられるのは根室の寒冷な土地柄と、開拓の為に木々を伐採したことによる海からの潮風や海霧が直接畑に流れ込み、農作物が被害を受けた事。肥料を使わずに耕作を続けたことで土地が痩せたこと。適切な作物だったのかなど調査不足も否めないと思われる。
 学校は、1886(明治19)年10月第一中隊に公立第一和田小学校が開設。1888(明治21)年10月には第二中隊に公立第二和田小学校が開設。しかし設置した学校には教師の配置は無く、兵村家族から推薦と言う形で先生となり授業を行ったようである。学校の維持管理も地元民の負担だった。1890(明治23)年4月鹿島牧場が和田屯田兵村に譲与され、屯田共有牧場となる。1891(明治24)年10月屯田兵司令官永山武四郎が和田屯田兵村を巡視する。1893(明治26)年6月和田村屯田兵共有牧場より軍馬40頭を購入し、石狩国沼見村(現・美唄市)へ輸送する。1894(明治27)年10月和田共有牧場が山県勇三郎に譲り山県根室牧場と改称する。1895(明治28)年3月和田屯田兵に動員令が下り臨時第七師団に編入される。和田屯田兵が日清戦争従軍の為花咲港から出征する。5月和田屯田兵は東京に滞在していたが講和が成立して帰村する。1896(明治29)年6月和田尋常小学校が新築落成する。第二中隊にあった学校は第一中隊の学校に統合となり、公立和田尋常小学校となる。1897(明治30)年4月屯田兵第四大隊本部を北見国常呂郡に移す。1899(明治32)年4月和田八幡神社を和田神社と改称する。1900(明治33)年7月根室町に一級町村制を施行する。和田外二村戸長役場に穂香(現・根室市)・幌茂尻・厚別の三村を加えて和田外五村戸長役場となる。1904(明治37)年8月第七師団に動員令下り、在郷軍人、後備屯田兵も充員召集される。9月屯田兵条例廃止となり屯田兵制度終了となる。11月和田屯田兵の初代隊長和田正苗し郷里の鹿児島で死去。1906(明治39)年4月和田・落石・昆布盛・穂香・幌茂尻・厚別を割いて和田村と改め、二級町村制を施行する。和田村役場を置く。
 1895(明治28)年の日清戦争、1897(明治30)年屯田兵第四大隊本部を北見国常呂郡に移す。1904(明治37)年日露戦争など屯田兵が出征したことなどもあり、離農・離散が進んでいくことになり、明治末期には150戸にまで減っていく。一部の人は酪農にこの土地は適しているとして成功しているのは福井県人の松浦忠順。和田隊長は特例として彼に牛5頭を預け牛飼いを任せ和田酪農の原点となる。


1615(慶長20・元和元)年、根室・千島地方の蝦夷ラッコ皮などを松前との交易に持参する。
1624〜1643(寛永年間)年、松前藩が厚岸場所を開設し、運上屋を設ける。
1644(正保元)年、幕府が松前藩の領地図を基に、北方領土を含む「正保御国絵図」を作成。
1701(元禄14)年、松前藩がキイタップ場所(霧多布場所・後の根室場所)を開き、アイヌと交易する。
1731(享保16)年、エトロフ・クナシリのアイヌが初めて松前に来る。
1754(宝暦4)年、キイタップ場所を割いてクナシリ場所を開く。霧多布場所の小屋を根室ノッカマップに移す。
1774(安永3)年、飛騨屋久兵衛は伐木業から漁業へ事業の転換を図り、絵鞆(現・室蘭)厚岸、霧多布、国後、メナシの四場所を期間20年で請負った。しかし国後場所の酋長ツキノエの妨害に遭い正規の交易は1782(天明2)年となる。
1785(天明5)年、最上徳内が、山口鉄五郎隊に人夫として属し、師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)調査に随行し、釧路から厚岸、根室まで探索し、地理やアイヌの生活や風俗などを調査し、千島、樺太あたりまで探検、アイヌに案内されてクナシリへも渡る。
1786(天明6)年、徳内は蝦夷地での活躍を認められ単身で再びクナシリへ渡り、エトロフ、ウルップへも渡り、アイヌを仲介にロシア人と交友してロシア事情を学び江戸へ帰還する。
1789(寛政元)年、蝦夷地で和人に虐待されていたアイヌが蜂起するクナシリ・メナシの戦いが起こり、真相調査のため青島は徳内を同行させ、徳内4度目の蝦夷地上陸となる。飛弾屋を免じ、村上伝兵衛に場所請負を命ず。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが西別に上陸し、根室湾に越冬する。
1794(寛政6)年、運上屋をノッカマップより根室へ移し、根室領と称す。
1796(寛政8)年、村山伝兵衛は根室、国後場所を罷免される。
1796(寛政9)年、小林宗九郎、熊野屋忠右衛門、根室場所請負人となる。
1798(寛政10)年、老中の戸田氏教が大規模な蝦夷調査を立案し蝦夷上陸となる。幕臣の近藤重蔵の配下として最上徳内らが、択捉島に領有宣言を意味する「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。
1799(寛政11)年、高田屋嘉兵衛、国後・択捉島間に航路を開く。幕府は東蝦夷地(箱舘から知床までの東海岸)を7ヶ年を限り仮直轄。夏、松平信濃守忠明らが東えぞ地を巡視、標津川をさかのぼり釧路川に出る。幕府道路を開削し、野付と厚別に通行屋できる。南部藩がネモロ・クナシリ・エトロフに勤番所を設ける。
1800(寛政12)年、伊能忠敬東蝦夷地を測量して作図する。
1801(享和元)年、幕府、石川忠房奉行に根室、標津、知床を巡視させる。
1802(享和2)年、幕府、東蝦夷地を本格的に直轄、箱舘に蝦夷奉行所を設置。
1803(享和3)年、4月間宮林蔵が東蝦夷地、南千島の測量をする。
1804(文化元)年、エトロフ島で始めて越冬した松田仁三郎は、帰路漂流し標津へ上陸し二日逗留。
1806(文化3)年、高田屋嘉兵衛が金刀比羅神社創祀する。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。南部・津軽藩に増兵をうながし、秋田・庄内に出兵させ、ネモロに南部藩130人、クナシリに南部藩340人を派兵する。
1808(文化5)年、クナシリ・エトロフその他に在勤の南部藩は仙台藩と交代する。
1810(文化7)年、高田屋嘉兵衛根室場所請負。
1811(文化8)年、6月露将ゴローニンほか7人捕えられて、野付を経て松前へ護送する。
1812(文化9)年、根室場所を材木屋七郎右エ門の請負となる。国後場所は米屋藤兵衛が請け負う。野付水道にて高田屋嘉兵衛露艦に捕えられ、カムチャッカに抑留される。
1815(文化12)年、高田屋金兵衛ネモロ場所請負となる。
1816(文化13)年、根室場所を高田屋喜兵衛、伊達林右エ門、栖原半助、亀屋武兵衛の共同請負となる。
1817(文化14)年、藤野喜兵衛千島国後場所を請負う。
1818(文政元)年、根室場所を高田屋単独の請負となる。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還。南部・津軽藩兵を撤退させる。
1831(天保2)年、高田屋金兵衛密貿易の嫌疑により失脚し、藤野喜兵衛場所請負となり、根室8、花咲1、野付14、標津3、目梨5、計31ヶ所の漁場を引き継ぐ。
1833(天保4)年、ユルリ島の漁業権を巡りアッケシ場所とネモロ場所間に紛争起こる。関東屋喜四郎、中村新三郎、浜田屋兵右衛門がエトロフ場所の請負を命じられる。
1837(天保8)年、エトロフ場所経営不振により、西川准兵衛、藤野喜兵衛、岡田半兵衛に請負わせる。
1840(天保11)年、松前藩はネモロ場所の藤野喜兵衛場所請負を止め、山田屋文右兵衛門に請負わせる。
1841(天保12)年、エトロフ場所は直差配の名目で伊達林右衛門、栖原仲蔵が請負う。
1843(天保14)年、3月根室国地方に大津波あり。46人死亡、家屋倒壊75戸、船61隻被害受ける。
1844(天保15・弘化元)年、ネモロ場所の山田屋文右兵衛門請負い終了する。
1845(弘化2)年、松浦武四郎始めて東蝦夷地を知床まで探検し知床日誌を著す。 この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人和賀屋孫兵衛の手代を名乗って函館、室蘭、襟裳、釧路、厚岸、知床、根室、函館と探検した。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が2回目の蝦夷地探査をする。このときは松前藩医西川春庵の下僕「雲平」として、江差から宗谷、樺太南部、紋別、知床、知床半島突端に達し再び宗谷に戻り、千歳、江差と巡る。
1849(嘉永2)年、根室場所藤野喜兵衛の請負となる。始めて「標津場所」の名称を用いる。松浦武四郎は3回目の蝦夷地探査をする。函館から船で国後島、択捉島へ渡り詳細に調査する。
1855(安政2)年、幕府、松前・江差地方を除く全島を直轄。東蝦夷地は仙台藩の警備地となる。日露通好条約を結び、国境を択捉島とウルップ島の間に決める。
1865(元治2・慶応元)年、場所請負の藤野喜兵衛が弁天島に市杵島神社の社殿を私費で再建する。

1868(慶応4・明治元)年、5月箱館裁判所を五稜郭に開庁し、その所管となる。9月明治と改元する。
1869(明治2)年、6月開拓使を設置する。8月蝦夷を北海道と改称し、11国86郡を画定する。松本十郎を開拓判官に任命する。開拓使所管のうち目梨、標津二郡は熊本藩の支配となる。10月根室松ヶ枝町に開拓使出張所を設け、旧仙台藩陣屋にて人民願い訴訟を取り扱う。所管は根室、花咲、野付三郡で千島国紗那郡は仙台藩、国後郡を秋田藩が支配する。根室、別海に官立病院を設置する。11月千島国択捉郡を彦根藩の支配とする。12月振別郡を佐賀藩、蘂取郡を高知藩、花咲郡の色丹島は増上寺支配となる。藤野喜兵衛が根室駅逓取扱人となる。藤野家の漁場責任者として、佐藤久右衛門が根室花咲町2丁目に住む。
1870(明治3)年、2月従来函館へ納めていた運上金を根室役所に納入する。場所請負の名称を廃し、漁場持ちとする。蘂取郡の高知藩支配を止める。3月漁場持ちの柳田藤吉氏が自費で渡島、東北地方より27戸を移住させる。藤野喜兵衛が13戸を函館、福山より移住させる。柳田藤吉他3人に根室・花咲両郡の漁場33ヶ所の許可をする。4月根室近傍宅地を区画し、希望者に貸与する。5月振別郡の佐賀藩支配と標津・目梨二郡の熊本藩支配を免じ、蘂取・振別を仙台藩の支配となる。6月花咲・根室・野付三郡を東京府支配とする。10月東京府支配を止め根室出張所に属する。7月管内の郡境を定める。幌茂尻〜厚別駅までの道路開削する。10月色丹島の増上寺の支配を免じ、稲田邦直に支配させる。
1871(明治4)年、2月藤野喜兵衛に野付郡の漁場持ちを命ずる。4月柳田藤吉が岩手県、青森県、松前、函館より7戸19人を招来する。5月開拓使庁を札幌に置き、函館・根室の開拓使出張所を出張開拓庁とする。5月標津・目梨郡を仙台藩支配とする。8月標津・目梨・振別・紗那・蘂取の仙台藩、択捉郡の彦根藩、国後郡の秋田藩、花咲郡色丹の稲田邦直の各支配を免ずる。12月松本判官が釧路・根室・千島・北見国斜里・網走・常呂・紋別へ巡視命ぜられる。
1872(明治5)年、1月根室・千島・釧路・北見国の斜里・網走・常呂・紋別を根室出張所開拓使庁の統括とする。3月仙台県より標津・目梨を請取る。秋田県より国後郡を請取る。3月根室管内の村名を定める。4月彦根県より択捉郡を請取る。仙台県より振別・紗那・蘂取を請取る。管内に戸長を置く。5月初めて戸口調査を行う。7月納沙布岬に灯標を設置する。3月から9月末まで点灯する。8月別海〜標津間の道路開削する。9月根室出張開拓使庁を根室支庁に改める。根室国・釧路国・北見国東部四郡・千島国五郡を統括する。
1873(明治6)年、1月岩村通俊が罷免され、根室在勤の松本十郎氏が大判官に命ぜられる。7月松本大判官が札幌本庁在勤となる。11月根室支庁を松ヶ枝町に落成し移転する。12月金刀比羅神社を本町に移転遷座する。藤野喜兵衛が食用として南部より和牛八頭を移入し、花咲町一丁目で飼育する。
1874(明治7)年、11月根室支庁は官吏巡回の際の賜物及びオムシャを廃止する。12月根室〜浦河〜苫小牧を往復する郵便路線が開通する。
1875(明治8)年、1月根室郵便局を梅が枝町二番地に開局する。3月管内町村及び港湾のカナ書アイヌ名を漢字に改める。大字を附する。5月樺太千島交換条約調印する。10月温根沼に木材囲場を官設する。クリル諸島の管轄は開拓使本庁とする。野沢房廸、松本安宅他に根室の町区画を測定させ本町、花咲町、梅が枝町を設定する。11月根室病院が弥栄町に落成する。私立消防組を組織する。
1876(明治9)年、1月泊、別海に郵便局を設置する。根室支庁がアイヌ人が相対賃銭で稼働することを認める。得撫島以北の諸島を千島国に編入し、新知・占守・得撫の三郡を置き開拓使本庁の直轄とする。別海〜標津〜北見国、別海〜国後への郵便路線開通する。6月根室遊郭の区画を定め移転させる。7月根室市街に鳴海町5丁、有磯3丁、松ヶ枝町3丁、弥栄町4丁、常盤町3丁、緑町5丁を増設する。7月根室支庁はアイヌ人に姓氏をとなえさせる。弁天島竿灯と納沙布灯標の点灯期間を4月〜12月まで変更する。9月松本大判官が職を辞する。
1877(明治10)年、6月納沙布灯標を灯台に改築する。光線五里に達する。金刀比羅神社が根室一円の公認神社となる。8月弥生町を新設する。遠太北岸(風蓮湖湖口に近い根室側砂嘴先端近くの内湾側だろうが浸食により分からなくなっている)渡船場を設ける。
1878(明治11)年、1月官立花咲学校を公立に改める。3月蒸気罐を備えた官設の鰊搾粕器械所が出来る。初田牛駅逓に郵便局を創設する。5月根室〜浜中間の道路を南海岸に移し、厚別駅逓を廃し、落石駅逓を置く。6月納沙布灯台に霧鐘を設けて1分間に12回打鐘する。7月別海に官設缶詰所落成する。8月千島国得撫・新知・占守を根室支庁の所管となる。9月紗那に官設缶詰工場新築する(翌年竣工)。ハッタラ川の水を防火用水として引き込む。占守島の原住民に日本人として入籍を許す。三菱会社が函館〜根室間の定期航海を開始する。柳田藤吉が色丹島にて初めて昆布を採取する。開拓使牧畜場から初めて根室市街地に牛乳を販売する。
1879(明治12)年、6月遊郭を弥生町に設ける。7月松ヶ枝町1丁目に観象台を設け1日3回気象観測を行う。郡区編成により根室・花咲・野付・目梨・標津・国後・得撫・新知・占守の郡役所は根室に、振別・択捉・紗那・蘂取の郡役所は振別に置く。10月国後郡泊村に学校を仮設する。高木佐吉が弥生町3丁目に芝居小屋「伊勢座」を開場する。
1880(明治13)年、3月根室市街家屋増加に伴い用水不足となり、弥生町3丁目の湧水を水道敷設のため土地高低を実測。4月目梨・振別・蘂取に官設の缶詰工場を新築する。6月国後島シュマヌプリが噴火して鉱業所の硫黄に延焼する被害が出る。三井銀行出張所を根室市街地に設けて官金の出納を行う。7月郡役所、戸長役場が開庁する。8月落石郵便局を置く。三菱会社が根室に出張所を置く。根室に総代3人を置く。択捉島紗那村に高橋直孝所有の漁小屋を仮施設として学校を開設する。9月国後郡泊村の学校は国後学校と称する。国後・浜中・釧路・択捉に公立学校を設ける。根室港内築地する。
1881(明治14)年、1月根室別に官設の木挽き器械所開業する。弁天島灯竿、納沙布灯台点灯期間が3月〜翌年1月までとなる。3月浄土宗の寺を根室に建立する。5月金刀比羅神社は市街地発展の為根室別琴平丘に社殿を造営し遷宮する。7月野付・標津・目梨に総代人1人置く。8月厚岸郡の落石・昆布盛を花咲郡へ編入する。根室寄留某、落石村ボーキリメにて石炭試掘を行う。9月根室にて腸チフスが流行する。弥生町に日蓮宗説教所を設ける。西ハッタラ(現・ハッタリ川付近ではないかと思われる)にて岩手県人の岩崎織之助が農業を営み農家開基となる。蒸気罐を備えた官設の鰊搾粕器械所が廃止となる。
1882(明治15)年、1月根室の竹内大次郎他に厚岸郡散布村(現・厚岸郡浜中町散布)の炭鉱三ヶ所の試掘を行う。2月根室支庁庁舎が全焼し、梅が枝町にある花咲学校内に仮庁舎を設ける。開拓使を廃し、函館・札幌・根室の三県を置く。2月根室観象台を根室測候所と改称する。4月根室県庁開庁し、諸々を開拓使より引き継ぐ。6月花咲学校に間借りしていた根室県庁仮庁舎が全焼する。根室郡幌茂尻村(現・根室市幌茂尻)に広島県人63戸が団体移住するが、湿地帯だったことからとても農業のできる土地ではなく、10月だったこともあり厳寒の冬を越せないことから国に嘆願書を出し、根室県がこの人々を雇ったり、米や金を貸し与えるなどの救済策を取って難を逃れる。
1883(明治16)年、2月択捉島の蘂取川水源の湖水とクリセトの間から噴火が起こる。5月標津に病院を置く。
1884(明治17)年、5月遠太に駅逓を設置する。6月屯田兵村を根室郡・花咲郡の一部に置くことが内定する。7月占守島の原住民17戸・97名を色丹島に移住させる。10月花咲町1丁目に電信局を設ける。札幌〜根室間の電信開通する。12月蘂取郡蘂取村に戸長役場を設置する。根室監獄署、厚岸監獄支所が落成する。共同運輸会社が根室〜網走間の航海を開始する。色丹島に正ハリスト教会を創立する。
1885(明治18)年、1月花咲郡の色丹島を千島国に編入し、色丹郡・斜古丹村を置く。根室・花咲郡内に屯田用地が決定する。2月択捉島振別村に郵便取扱所を置く。5月根室外九郡長和田正苗が屯田兵少佐に任ぜられる。6月屯田兵仮事務所を根室県庁内に設置する。8月花咲港に波止場を築設する。9月留辺斯に駅逓を設置する。10月日本郵船会社が根室に出張所を置く。11月振別外三郡役所を紗那に移し、紗那外三郡役所と改称する。振別村に戸長役場を設置する。根室市街地の区域を広め、清隆・平内・定基・松本・光和の五町を増設する。命名は高官の名にちなむ。択捉島の留別に戸長役場を置く。熊谷豊次郎が南部より牛30頭を移し、ハッタラ沢にて屠場を新設して肉屋を営む。
1886(明治19)年、1月函館・札幌・根室の三県と北海道事業管理局を廃し、北海道庁を札幌に置き、函館・根室に支庁を置く。2月根室外九郡長に松下兼清が就任する。3月北海道庁、函館・根室支庁開庁する。5月振別郵便局に改称する。日本郵船会社が毎年5月〜11月まで月三回の択捉島紗那航路が開かれる。6月新潟・福井・石川・秋田・山形・青森・鳥取の士族220戸を根室村に移し、屯田兵第二大隊第一中隊と称する。屯田兵村内に八幡神社を創祀する。7月内保・ソキヤ・蘂取・紗那に駅逓を置く。根室測候所が花咲町6丁目に移転する。択捉島別様川に渡船場を設ける。紗那村に曹洞宗の寺が許可される。留別に駅逓を設置する。屯田兵少佐和田正苗氏は屯田兵第二大隊長に任ぜられる。7月三井物産会社が国後郡島登硫黄山及び一菱内硫黄山を譲り受ける。8月振別村戸長役場を留別村に移し、留別村外四ヶ村戸長役場と称する。根室監獄署が根室村に新築落成し移転する。12月根室支庁廃止となり、択捉・紗那・蘂取り・振別は紗那外三郡役所の管轄となる。根室別に千島・琴平の二町を置く。
1887(明治20)年、2月別海缶詰所を滋賀県人の藤野辰次郎へ払い下げる。紗那缶詰所を函館区の栖原角兵衛へ払い下げる。根室測候所は根室支庁から北海道庁の所管となる。3月鹿島万兵衛が官営の根室牧畜場の懇成地200町歩(約198ha)牛110頭・馬475頭の払下げを受けて鹿島牧場を開設する。4月和田屯田兵村に郵便受取所を開設する。5月択捉島蘂取に郵便局を置く。千島国色丹島に斜古丹村をを設けて6月に戸長役場を置く。9月神道大社根室教会所を設立する(後の根室出雲神社)。12月根室木挽所を野川祐吉に払い下げる。ハリスト正教会が根室で布教を開始する。碓氷酒造店が創業する。
1888(明治21)年、1月大日本帝国水産会社を東京に設立し、根室に出張所、択捉に派出所を置く。2月根室郵便局が電信局と合併し、根室郵便電信局と改称する。3月択捉島留別に郵便局を置く。劇場「常盤座」が常盤丁丁目に新築落成する。5月鳥取・福岡・広島の士族120戸が屯田兵として根室村に移住し、第二大隊第二中隊を編成する。9月根室郡に和田村を新設する。根室別に弁天・汐見町を新設する。
1889(明治22)年、5月和田・落石・昆布盛の三村を合せ和田外二村戸長役場を開設する。6月和田兵村公園予定地に屯田兵記念碑を建立する。穂香村キトナイシ岬アッケシトウ海岸から搬出した自然石を使う。7月福岡・石川・鳥取・愛知・滋賀・静岡・三重・京都・東京の士族100戸を和田村に移し、屯田兵第二大隊第二中隊に入る。8月柳田藤吉が淡路島の漁民80人を根室に移す。
1890(明治23)年、3月根室・紗那の庁立病院を廃止する。4月鹿島牧場が和田屯田兵村に譲与され、屯田共有牧場となる。6月根室・紗那に北海道病院出張所を置く。9月根室に執達吏役場を置く。10月落石岬灯台が落成し点灯開始する。公立標津病院を廃止する。11月花咲灯台落成し点灯する。別海・標津に電信開通する。西別鮭人工孵化場を設置する。
1891(明治24)年、5月根室弥生町で大火が起き、193戸を焼き遊郭が全滅する。6月柳田藤吉が得撫島開拓の許可を受けて着手する。道庁内田瀞らが殖民地選定、地質調査の為得撫島に至る。7月水野貞子が緑町1丁目にて私立女子小学校を開校する。8月根室監獄署を北海道庁監獄署根室支所となる。9月温根沼厳島神社の創立が許可される。10月屯田兵司令官永山武四郎が和田屯田兵村を巡視する。
1892(明治25)年、1月山口与作が本町の海岸を埋め立てる(2363坪程度)。5月ゲラムイ岬(国後島最南端の岬)に灯台落成し点灯する。7月嵯峨啓蔵が弥生町1丁目に寄席「柳亭」を開く。10月根室測候所が地方天気予報を実施する。根室酒造組合を創立する。束沸(国後島東沸)、瀬石(国後島)に駅逓を置く。
1893(明治26)年、3月根室郵便電信局が新築落成し移転する。4月日本銀行が根室に出張所を開設する。6月和田村屯田兵共有牧場より軍馬40頭を購入し、石狩国沼見村(現・美唄市)へ輸送する。7月花咲町3丁目に劇場「根室座」が開かれる。11月年萠(択捉島)に駅逓を置く。根室成田不動尊堂落成する。千島海底電線を根室ハッタラ〜国後郡泊村ノエット間に敷設する。
1894(明治27)年、3月大地震が起こる。被害戸数877戸、負傷者は4名。6月弥生町3丁目に劇場「常盤座」の落成式を挙げる。択捉島グヤに駅逓を置く。10月和田共有牧場が山県勇三郎に譲り山県根室牧場と改称する。11月遠太南岸に渡船場開通する。色丹教育所を設置し、千島アイヌに対して小学簡易科の教育を開始する。
1895(明治28)年、3月和田屯田兵に動員令が下り臨時第七師団に編入される。和田屯田兵が日清戦争従軍の為花咲港から出征する。5月和田屯田兵は東京に滞在していたが講和が成立して帰村する。6月留夜別・秩刈別の一部を割いて大滝村(国後島)を置く。7月択捉島乙今丑村ポロスに駅逓を置く。8月留夜別村と大滝村に戸長役場を設置する。10月根室大火が起こり8町を焼き、焼失戸数は889戸となる。11月択捉島入里節・テイネ・別飛に駅逓を置く。花咲に験潮所を設けて潮汐観測を開始する。12月根室英語学校を根室実修学校と改称する。
1896(明治29)年、5月昆布盛に簡易教育所を開設する。6月和田尋常小学校が新築落成する。8月私立女子小学校廃校となる。根室水道が竣工し、沿道の各町に給水開始する。9月糸櫛別に駅逓を置く。11月温根沼に橋を設ける。植内(国後島)に駅逓を置く。泊に駅逓を置く。
1897(明治30)年、3月真言宗智山派清隆寺が寺号公称許可となり弥生町6丁目番外地(開創は1892(明治25)年、現・根室市松本町2丁目2)に堂宇を建立する。真宗大谷派別院根室支院が公称許可となる。択捉島内保に尋常小学校創立する。4月根室に税務管理局と税務署を置く。紗那に税務署を置く。根室三吉神社が創立許可となる。4月屯田兵第四大隊本部を北見国常呂郡に移す。7月根室出雲神社が新築落成する。8月標津〜国後間の海底電線敷設する。9月国後〜択捉間の海底電線敷設する。10月泊・紗那で電信業務開始する。11月根室外九郡役所、紗那外三郡役所を廃し、根室支庁・紗那支庁を置く。12月根室で大火、8町に延焼し焼失戸数662戸となる。
1898(明治31)年、1月根室・千島国外五か国に徴兵令を施行する。東梅に浄土宗大雄寺公称許可となる(現・根室市東梅31)。3月柳田藤吉以下七名にて根室銀行創立する。4月聯隊区司令部を根室から釧路に移し釧路聯隊区司令部と改称する。6月根室実修学校が花咲町5丁目に新築落成する。11月根室支庁舎を花咲町6丁目に新築落成する。西別・標津原野に植民区画する。
1899(明治32)年、4月和田八幡神社を和田神社と改称する。7月乳呑路(国後島)に駅逓を置く。11月国後島アトイヤ岬灯台点灯する。
1900(明治33)年、7月根室町に一級町村制を施行する。和田外二村戸長役場に穂香(現・根室市)・幌茂尻・厚別の三村を加えて和田外五村戸長役場となる。友知(現・根室市)外五村戸長役場を置く。嵯峨啓蔵が「常盤座」を買収し「根室座」として開場する。金刀比羅神社が大祭を行い御旅所を設ける。9月日本郵船の函館〜根室、根室〜網走、根室〜紗那間の航路を道庁命令航路として継続する。10月釧路に北海道鉄道部釧路出張所を置き、釧路〜根室・網走・帯広に至る各鉄道線路の新設工事に業務を分掌させる。風蓮原野に殖民地を区画する。
1901(明治34)年、1月根室町内を数部に分ける。2月網走区裁判所の開庁により北見四郡をその所管とする。6月春刈古丹(羅臼)・羅臼に駅逓を置く。中標津原野に殖民地を区画する。7月古丹消(国後島)に駅逓を置く。8月春別原野に殖民地を区画する。10月忠類原野に殖民地を区画する。11月友知外五村戸長役場を歯舞村に移し、歯舞外五村戸長役場と改める。市杵島神社(現・根室市弁天島2番地)が暴風で倒壊する。
1902(明治35)年、3月根室実修学校廃校となる。8月紗那に二等測候所を置く。11月根室税務管理局を廃止する。白糠泊(国後島)に駅逓を置く。12月水晶島に郵便局を置く。
1903(明治36)年、4月根室郵便電信局を根室郵便局と改称する。7月根室測候所に暴風信号標を実施する。薫別(現・標津町薫別)に駅逓を置く。8月紗那外二村戸長役場を開庁する。12月紗那支庁を廃して根室支庁に合併する。
1904(明治37)年、3月柳田藤吉が第一回衆議院議員に当選する。4月紗那税務署を廃して根室税務署に統合する。8月第七師団に動員令下り、在郷軍人、後備屯田兵も充員召集される。9月屯田兵条例廃止となり屯田兵制度終了となる。11月和田屯田兵の初代隊長和田正苗し郷里の鹿児島で死去。
1905(明治38)年、4月札幌塩務局を設置し、根室出張所を置く。町内部制を改正し50部となる。10月根室警察署花咲5丁目に新築移転する。
1906(明治39)年、1月網走の山田慎所有の製軸所を山県勇三郎が山田牧場全てを譲り受けて山県製軸工場と改称する。しかし山県氏はある事件のために逃避行となる。このときに山県牧場を分散して、野坂・中川・田中・巽・高松・浜崎牧場等にした。神戸の大日本燐寸軸木株式会社の経営となる。2月根室・千島の鰊刺網漁業許可となる。4月和田・落石・昆布盛・穂香・幌茂尻・厚別を割いて和田村と改め、二級町村制を施行する。和田村役場を置く。落石村・昆布盛村を根室郡に編入する。歯舞神社を創建する。前田鴻が金刀比羅神社内に臥牛山書屋を設ける。
1907(明治40)年、4月山形勇三郎らが社団法人北海道競馬会を創立する。6月根室女子職業学校開校する。9月札幌塩務局根室出張所を廃止する。12月風蓮川・別当賀川に渡船場設ける。
1908(明治41)年、2月根室三吉神社が全焼する。7月根室町役場庁舎を常盤丁3丁目8番地に新築落成する。10月根室測候所が庁舎前に新築移転する。11月弁天島灯竿を灯台に改築する。アセチレンガスの灯火となり同ガス使用の始めとなる。12月納沙布岬電笛信号所新築落成する。
1909(明治42)年、3月劇場「根室座」全焼する。5月柳田藤吉函館にて死去。8月歯舞に駅逓を置く。
1910(明治43)年、1月根室缶詰株式会社を創業する。6月根室港開港する。根室税関支署開庁し、輸出は水産物に限られた。9月別当賀・奥行臼に駅逓を置く。10月荒川音次郎が常盤丁2丁目に寄席「常盤亭」を開く。12月根室町・根室〜釧路間の電話が開通する。山県牧場が根室牧場と改称する。色丹アイヌの北千島への出稼ぎを廃止する。春別に農事試作場を設ける。
1911(明治44)年、9月梅が枝町1丁目に嵯峨啓蔵が「根室劇場」を新築落成する。11月秋田木材株式会社根室電気部が開業式を挙げて点灯する。色丹島千島アイヌに対し、官費撫育費をもって各漁船、漁具を購入し漁業による生活独立を指導する。

1912(明治45・大正元)年、7月市杵島神社(現・根室市弁天島2番地)暴風で倒壊していたが社殿を新築落成し、遷座式を挙行。8月久遠山実成寺(現・日蓮宗實成寺、根室市常盤町2丁目26)寺号公称を許可。9月根室牧場を合資会社に改める。11月根室見番を常盤町1丁目に創立する。12月珸瑤瑁(ごようまい・納沙布岬にほど近い)の海岸から「横死七十一人之墓」を引きあげる。根室材木株式会社が創立する。真言宗智山派清隆寺が寺号公称許可となり弥生町4丁目に新築移転(現・根室市松本町2丁目2)する。
1913(大正2)年、4月紗那・厚岸の裁判所を廃止する。根室船材株式会社創立する。
1914(大正3)年、4月根室実業学校に寄宿舎を開設する。5月大日本水産株式会社が昆布盛で捕鯨事業を開始する。6月大津滝三郎が8人乗りフォード自動車二台を購入し、市内や根室〜落石間を運行する。根室病院分院を弥生町に開設する。
1915(大正4)年、3月根室魚菜市場株式会社が創業する。4月歯舞外五村に二級町村制施行し歯舞村役場を置き、歯舞・友知・沖根婦(現・根室市双沖)・沖根辺(現・根室市双沖)・婦羅理(現・根室市歯舞)・珸瑤瑁(現・根室市珸瑤瑁)を大字とする。庁立根室実業学校の水産科を廃し、庁立根室商業学校と改称する。6月落石無線電信局がペトロパウロフスク(カムチャツカ半島南東部の都市)間、最初の国際無線電信業務を開始する。根室実業学校の寄宿舎を隣接地に移転する。
1916(大正5)年、2月北海道拓殖銀行が花咲町1丁目に根室出張所を設置する。3月根室地方裁判所を釧路に移し、釧路地方裁判所根室支部を置く。大津滝三郎がユルリ・モユルリ島で養狐事業を開始する。4月北海道水産試験場根室支場を設置する。根室運送株式会社創業する。
1917(大正6)年、1月水間三右衛門が紗那郡紗那村で鉄鉱試掘を行う。
1918(大正7)年、7月新妻忠太郎が本町1丁目に映画館「東館」を新築する。11月スペイン風邪が流行し死者が多数出る。
1919(大正8)年、1月納沙布・落石・アトイヤ岬の灯台を気象観測所に指定する。2月根室にて個人病院開業する。8月金刀比羅神社の例大祭を8月にする。11月国有鉄道(根室本線)の厚岸〜厚床間を延伸開業、糸魚沢・茶内・浜中・姉別・厚床駅を新設。蒲沢吉三郎が千島町にて硝子工場を作り、漁業用浮き球などを製造する。
1920(大正9)年、6月金刀比羅神社に桜を50本植樹する。10月和田〜根室間の建築鉄道が運行される。11月厚床〜西和田間を延伸開業、初田牛・別当賀・落石・西和田の各駅を新設。12月弥生町で大火108戸を焼失する。
1921(大正10)年、8月西和田〜根室間延伸開業により全通する。花咲駅・根室駅を新設、滝川〜根室を根室本線と改称する。根室築港起工式挙行。9月大町桂月が根室商業学校にて講演する。書会も開催される。
1923(大正12)年、4月振別郡を紗那郡に合併する。11月根室銀行が安田銀行に合併される。薫別孵化場が開設される。弥生町9丁目の遊郭から出火し、187戸焼失し4人死亡。12月落石無線電信局の送信所を改築し、受信所を根室に移す。
1924(大正13)年、6月根室郵便庁舎から出火し、57戸を焼失する。12月厚床〜標津間に馬鉄軌道敷設する。
1925(大正14)年、5月根室税関支署が新築落成する。8月落石無線電信局が全焼する。紗那購買組合が設立される。落石無線電信局で北樺太オハ(現・樺太島北端の東岸に位置するロシア連邦サハリン州の市)との通信に成功する。根室築港第一期竣工する。

1926(大正15・昭和元)年、4月厚床〜風蓮間に植民軌道を敷設する。7月秋田木材株式会社電気部が発電所を新設する。8月金刀比羅神社の額堂竣工する。12月根室郵便庁舎新築落成する。和田村役場を西和田駅前に移転する。
1927(昭和2)年、3月町内の運送会社が合併し根室通運社を設立する。4月根室拓殖鉄道株式会が創立する。8月根室拓殖鉄道15.5kmの建設工事始まる。10月根室港第二期工事着工する。歯舞・花咲・落石港の修築工事着工する。許可移民が根室原野に大挙して入地する。
1928(昭和3)年、4月成田タカが私立根室裁縫女学校を開校する。オワッタラウス(現・根室市宝林町)に大東捕鯨会社の出張所を開設する。5月碓氷酒造店(現・碓氷勝三郎商店・根室市常盤町1丁目6)にラムネ・シトロンの製造許可が下りる。7月根室刑務所が廃止となる。8月根室〜帯広間の市外電話回線開通する。根室自動車会社開業する。9月オワッタラウスに捕鯨場を設ける。
1929(昭和4)年、8月植民軌道根室線にガソリンカー導入する。9月根室酪農組合設立し、集乳所を建設しバター製造も開始する。10月根室拓殖鉄道会社の根室〜婦羅理(現・根室市歯舞)間が開通する。12月婦羅理〜歯舞間延伸開業する。
1930(昭和5)年、5月根室〜厚床間の市外通話開通する。6月根室競馬が公認となり年二回開催される。11月納沙布灯台をコンクリート造りに改築する。
1931(昭和6)年、2月町営の船入澗工事着工する。8月根室町公会堂、根室町役場が新築落成する。9月第二朝日館から出火し47戸が焼失する。町内にて乗合バス運行が始まる。
1932(昭和7)年、6月弥生町防波堤工事着工。7月船入澗完成する。10月根室町が秋田木材株式会社より町内電気事業を買収し、町営電気局を開設する。オワッタラウスにて海軍飛行場の第一期工事着工。11月町内地番改正し、大字を廃し36町名となる。
1933(昭和8)年、7月色丹郡斜古丹村を色丹村と改称する。10月大阪商船が根室〜大連間の航路開く。11月根室飛行機不時着陸場を花咲港に作る。12月厚床〜西別間が標津線として開業し、奥行臼・西別駅を新設する。根室種馬所設置する。
1934(昭和9)年、7月北海道鮭鱒孵化場国後支場、択捉支場開設する。8月根室臨港鉄道を敷設し(根室駅〜海岸町2300m)貨物駅新設される。幌筵島(千島列島の北東部にある島で、ロシア名はパラムシル島)摺鉢湾に水産試験場北千島出張所を開設する。10月標津線の西別〜中標津間が延伸開業し、春別・中標津駅を新設する。択捉島天寧に海軍飛行場の建設始まる。日本鉱業株式会社と茂世路鉱業株式会社が国後島で硫黄採取事業に着手する。
1935(昭和10)年、6月温根沼の厳島神社造営(現・根室市温根沼213)する。根室〜泊間に電話開通する。12月根室・千島郷土文化研究会発足する。海軍飛行場の第一期工事完成する。
1936(昭和11)年、9月紗那信用組合設立する。10月標茶〜計根別間が標茶線として開業し、西春別・計根別駅を新設し、殖民軌道標茶線廃止となる。
1937(昭和12)年、4月貝殻島に灯台を新設する。10月計根別〜根室標津間が延伸開業し全通する。標茶線に標津線を編入して標津線となる。当幌・上武佐・川北・根室標津駅を新設し、殖民軌道計根別線廃止となる。北千島に根室支庁出張所を開設する。
1938(昭和13)年、8月根室カニ缶詰工場が合同の株式会社を設立する。10月中央気象台根室測候所となる。11月長節湖が落石漁業協同組合に払下げられる。12月根室警察署が新築落成する。花咲港築港工事始まる。
1939(昭和14)年、9月根室の車石が天然記念物に指定される。11月中央気象台根室測候所が札幌管区気象台の所管となる。千島町で大火、78戸焼失する。
1940(昭和15)年、1月厚床駅でホタテ弁当の販売許可が下りる。北洋の鮭鱒漁業が北緯51度まで出漁許可が下りる。2月サカイツツジの自生地(落石岬)が天然記念物に指定される。10月北千島要塞司令部編成する。
1942(昭和17)年、7月択捉島留別沖にて運輸船「日正丸」他3隻が米国潜水艦に攻撃され沈没する。10月町営電気事業が北海道配電株式会社に併合し、厚岸〜根室間の工事着工する。
1943(昭和18)年、2月北海道電力根室変電所が運転を開始する。5月碓氷酒造店の「北龍」改め「北の勝」販売する。8月南千島防衛に千島第三守備隊配備される。10月根室保健所開設する。11月小樽海運局根室支所開設する。道東防衛の為第三警備司令部を設置する。根室町に陸軍病院設置される。根室港北防波堤完成する。牧の内(現・根室市牧の内)海軍飛行場建設に着手する。
1944(昭和19)年、2月仙台の第四二師団が中部千島に派遣決定する。幌筵島の日本軍が艦砲射撃を受ける。3月歩兵1600人が乗船した「日蓮丸」が南千島海域で米国潜水艦より撃沈される。私立根室裁縫女学校廃校となる。10月根室保健所が大正町に移転する。根室信用組合が花咲町に移転する。
1945(昭和20)年、2月色丹島に無線方位信号所開設する。5月根室港北防波堤灯台点灯する。7月北海道新聞根室支局が花咲町に移転する。根室市街が米軍機により空襲され、死者199人、行方不明者170人、市街中心部の大半が焼失する。8月ソ連軍が択捉島に上陸する。9月には千島・歯舞島が占拠される。米軍駐留軍が公会堂に進駐する。9月ソ連が千島の領有を宣言し、南千島、歯舞諸島から脱出者が相次ぐ。11月北方水域にマッカーサー・ライン設定される。稲茂尻(色丹島)で島民がソ連軍に射殺される。国後島より脱出した漁船が根室沖で沈没し、18人死亡する。戦災者・引揚者のバラック建設始まる。
1946(昭和21)年、2月ソ連が樺太南部と千島全域をハバロフスク地方に編入の旨を宣言する。4月米国は「ソ連の千島領有は平和条約で決定」の旨を表明する。5月根室種馬所を根室主畜牧場に改称する。6月箱館税関根室支署再開する。マッカーサー・ライン拡張の覚書交付される。7月北海道附属島嶼復帰懇請委員会発足する。8月拓殖銀行根室支店が本町3丁目に新築移転する。米国がソ連の北海道北部の占領提案を拒絶。
1947(昭和22)年、2月弁天島の灯台を廃止する。7月道議会が歯舞諸島・択捉島・国後島の日本復帰の請願決議可決する。8月北方領土復帰根室国民大会開催する。北方島民残留者の本国引揚げが始まる。11月別当賀サケマス捕獲場開設する。歯舞地区の電化が進む。
1948(昭和23)年、12月占領軍が納沙布付近の漁業水域を明示する。
1949(昭和24)年、4月花咲港南防波堤に灯台を設ける。6月根室電報電話局開局する。9月槍昔(風蓮湖に突き出した半島状の地形)地区に入植者が入る。
1950(昭和25)年、4月根室高等学校が男女共学となる。5月和田村など開拓農家58戸が離農する。7月開町五〇周年、開港四〇周年記念式典挙行。歯舞築港起工式挙行。この年拿捕漁船が続出し、安全操業の声があがる。国籍不明機がたびたび根室上空侵犯する。沖根婦漁港が第一種漁港に指定する。
1951(昭和26)年、3月根室〜花咲港間にバス運行始まる。6月花咲灯台が鉄筋コンクリートに改築する。落石港が第一種漁港に、歯舞港が第四種漁港に指定される。9月マッカーサー・ラインが消滅し、推定危険線が設定される。中央劇場開館する。
1952(昭和27)年、3月十勝沖地震にて死者28人、行方不明者5人、815戸が被害に遭う。根室地方に集中豪雨あり170戸浸水する。根室交通が市内バスの運行始まる。4月根室漁業無線局落成する。8月花咲灯台の霧信号鳴笛開始する。公民館を常盤町に移転する。10月全国町村議長会が千島・歯舞群島の返還を決議する。11月根室・和田・歯舞に教育委員会発足する。根室にハイヤー会社できる。
1953(昭和28)年、2月根北線の建設が決定する。12月には再び札幌工事局による測量が開始された。珸瑤瑁漁港が第一種漁港の指定を受ける。根室〜花咲間に電話ケーブル敷設する。
1954(昭和29)年、8月根室町の上水道工事着工する。10月弥生町にカトリック教会開設する。昆布盛漁港が第一種漁港に指定される。
1955(昭和30)年、1月航空自衛隊根室レーダーサイト隊の第一陣が着任する。10月集中豪雨にて400戸浸水し災害救助法発動される。
1956(昭和31)年、2月南極観測船乗組員の訓練を根室海域で開催する。花咲半島の呼称を根室半島に統一する。4月根釧パイロットファーム事業開始し、入植が始まる。抑留漁船員62人がソ連より釈放され帰還する。10月根室海上保安署が海上保安部に昇格する。歯舞群島の日本返還を明記した日ソ共同宣言に両国が調印し、地元民が返還の喜びに湧く。12月根室測候所の新庁舎落成する。国鉄根室〜厚床間にレールバス運行する。
1957(昭和32)年、2月千島居住者連盟が北方領土墓参に関する嘆願書を関係方面に差し出す。5月米国務省が「歯舞・色丹。南千島は日本領土」との声明を発表する。根室上水道通水式挙行。8月根室町と和田村を合併し、根室市が誕生する。9月明治乳業厚床工場で落成式挙行。11月斜里(現・知床斜里)〜越川間開業する。歯舞のイソモシリ灯台が点灯する。
1958(昭和33)年、1月市杵島神社が暴風雨によって倒壊する。2月根室と釧路の缶詰工場が合同で、日本合同缶詰工場を設立する。5月ソ連との合議により貝殻島灯台が復旧し点灯する。
1959(昭和34)年、3月劇団グルッペ旗揚げする。4月歯舞村が根室市と合併する。5月根室地方にタンチョウツル13羽の生息を確認する。7月国鉄根室駅新築落成する。9月NHK根室通信部開設する。根室拓殖鉄道が廃止となる。10月根室のレーダーサイトを自衛隊が運用開始。11月根室病院落成式挙行。タンネ沼(現・根室市牧の内)水源地を禁猟区に設定する。
1960(昭和35)年、1月ソ連外相が歯舞群島・色丹島を返還せず」と通告してくる。3月根室でノリの養殖実験開始する。3月歯舞地区の簡易水道完成し通水する。4月第二東映劇場開館する。5月チリ沖地震にて津波発生し、死者11人、行方不明者41人、漁船296隻転覆と被害甚大。6月長節湖湖水祭開催する。12月根室高等学校新築落成する。
1961(昭和36)年、2月日本最東端の国鉄東根室駅が利用開始する。8月金刀比羅神社創紀一五〇年祭執行。ソ連の副首相が「北方領土返還は日米安全保障条約の解消後」と発表する。10月温根沼橋が鉄橋に架橋される。
1962(昭和37)年、1月根室支庁の庁舎新築落成する。落石漁港が第二種漁港に指定される。2月沖根婦漁港が第一種漁港に指定される。4月関税法施行により北方四島を当分の間外国扱いとする。5月根室〜釧路間の国道が一級に昇格する。市街地の学校で完全給食実施。市営の屠殺場新築落成する。根室護国神社の神殿落成(根室市平内町1丁目48)する。12月風蓮湖の白鳥が7053羽を確認する。野付風蓮道立自然公園に指定される。
1963(昭和38)年、3月友知港が第一種漁港の指定を受ける。5月根室合同海産物株式会社設立する。6月北海道銀行根室支店を梅が枝町に開店する。8月浜中町の一部を根室市に編入する。10月ユルリ・モユルリ島海鳥繁殖地を北海道指定の天然記念物とする。
1964(昭和39)年、3月ノッカマップ灯台(現・根室市牧の内)が点灯する。5月北方領土墓参にソ連から承認の通告。7月抑留漁船員51名を色丹島にて引取る。落石地区で高師小僧が大量に発見される。9月北方墓参が実現し、元住民や遺族などが水晶島・色丹島を周り慰霊祭を行う。10月根NHK根室テレビ中継局開局する。10月納沙布岬灯台そばに高碕達之助顕彰碑を建立する。穂香海岸が海水浴場に指定される。
1965(昭和40)年、2月職業訓練センターが完成する。3月東映劇場閉館となる。6月チシマザクの保存会が発足する。9月市内地番改正し、牧ノ内・桂木・月ヶ丘地域を分割し、西浜・月岡・宝林・駒場・明治・北浜・昭和となり、市部字名を廃止する。根室港駅と臨港線が廃止となる。10月厚床駅舎落成する。11月春国岱橋竣工する。12月北方資料館新築落成。
1966(昭和41)年、8月沈没船「浦河丸」の調査始まる。11月落石無線局が自動化で無人となる。
1967(昭和42)年、7月根室市文化財に「温根元チャシ」「寛政の乱和人殉難墓碑」「チャルコロモイチャシ」を指定する。12月花咲港に石油備蓄基地完成する。
1968(昭和43)年、1月歯舞地区の地番改正し、引臼・婦羅理・取戸石を廃し、豊里・双沖が誕生する。根室華道協会発足する。4月寛政蝦夷の乱和人殉難碑を納沙布岬に移転し慰霊祭を挙行。8月根室市開基百年記念式典挙行。12月和田屯田被服庫が道の文化財に指定される。
1969(昭和44)年、1月珸瑤瑁獅子神楽が市の無形文化財、旧根室牧場大金庫が有形文化財に指定される。2月厚床簡易水道通水する。
1970(昭和45)年、9月歯舞港東防波堤灯台が点灯する。北方墓参団が勇留(歯舞群島の島の一つ)・多楽(歯舞群島の島の一つ)・国後島の墓参に出発する。12月根北線の斜里〜越川間が廃止となる。開業からわずか13年であった。花咲港西浜埋立完了する。
1972(昭和47)年、2月納沙布岬に「望郷の家」が竣工する。4月根室測候所を廃止して釧路測候所に移行する。10月温根元灯台が点灯する。12月港湾合同庁舎が落成する。
1973(昭和48)年、6月根室地方にてタンチョウツル97羽が確認される。7月根室市役所の庁舎落成する。国後島の爺爺岳が噴火する。択捉島の焼山が噴火する。10月ソ連に抑留されていた漁船員44名が釈放され帰国する。
1974(昭和49)年、7月北方墓参が再開する。
1975(昭和50)年、7月和田屯田兵碑が根室市史跡に指定される。風蓮湖白鳥観測ステーション完成する。
1976(昭和51)年、6月北方同盟の総会にて北方領土返還のスローガンを「島を還せ」に変更する。柳田家寄贈の恵比須像を市の文化財に指定する。8月西月ヶ丘遺跡群が国の史跡指定を受ける。9月日本合同缶詰工場が倒産する。ユルリ島・落石岬が道自然環境保全地域に指定される。
1977(昭和52)年、4月根室測候所は釧路気象台系列に入る。根室市200海里対策事業始まる。5月貝殻島のコンブ漁がソ連の入漁拒否にて禁漁となる。天皇海山群(北太平洋の西側にある海山群)へ調査船が根室港から出港する。6月根室市総合運動広場が完成する。7月ソ連側から北方墓参を認めない旨の連絡が入る。9月ソ連国境警備隊が根室海峡に12海里法を適用する通告が入る。10月北映劇場新築落成する。
1978(昭和53)年、4月根室港・花咲港が重要港湾の指定を受ける。8月望郷の岬公園命名式挙行。
1979(昭和54)年、2月汐見町などの地番改正される。7月根室測候所100年記念。
1980(昭和55)年、8月納沙布岬で北方館の落成式挙行。シンボル像の起工式行う。11月牧ノ内に三番川ダム竣工式挙行。12月水産ビル海岸町に新築落成する。弁天島で青銅器発掘する。
1981(昭和56)年、2月市内の一部町名と丁目の新設、分割と地番整理実施する。8月貝殻島のコンブ協定が妥結し出漁が決まる。9月納沙布岬に「四島のかけ橋」完成し、シンボル像点火記念式典挙行。
1982(昭和57)年、西月ヶ岡遺跡から続縄文時代の土器が出土する。
1983(昭和58)年、4月「根室半島チャシ跡群」が国の文化財の指定を受ける。10月友知漁港開港式挙行。
1986(昭和61)年、6月和田屯田兵村開基百周年記念式典挙行。出雲神社創始百年記念祭執行。8月金刀比羅神社境内に高田屋嘉平衛の銅像を建立する。金刀比羅神社創祀180年例大祭執行。北方墓参団再開し水晶島・色丹島に向かう。新別当賀サケマス孵化場完成する。
1987(昭和62)年、7月納沙布岬に「平和の塔」完成する。

1989(昭和64・平成元)年、4月標津線全線廃止し、バス転換となる。
1999(平成11)年、根室護国神社廃社となり、ご祭神は旭川市の「北海道護國神社」に合祀。
根室市史年表参考

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