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高碕達之助先生顕彰碑

住所 根室市納沙布

根室市観光協会

根室の由来は、語源は早くに忘れ去られ不明であるが諸説ある。江戸時代の記録には「子モロ」「根諸」などと記され、根室市では「根室国」を命名した松浦武四郎による「知床日誌」では、アイヌ語の「ニ・ムイ」(木・湾の意)を由来とし、この説を採用している。他にも「ニイモヲロ」(静かで樹木のあるの意)・「ニノヲロ」(ウニがあるの意)・「ニムオロ」(樹木繁茂する所の意)・「ネムロコタン」(池のある集落)・「メム・オロ・ペッ」(湧壺・そこにある・川の意)などとある。
納沙布の由来は、アイヌ語の「ノッシャム」(則崎の際の意)、元は岬ではなく岬そばにあったコタン(アイヌの集落)の名だった。納沙布は1968(昭和43)年から現在の町名で、元は根室市大字珸瑤瑁の一部だった。
道道35号根室半島線納沙布望郷の岬公園前のバス停そばに駐車場があるのでそちらを利用するといいだろう。納沙布灯台前に設置されている。

高碕達之助氏は、1882(明治15)年に設立した「現・一般社団法人大日本水産会」という団体の会長を務め、戦後千島列島全域がソ連の実効支配下におかれ、不当な拿捕などで根室沖での操業ができなくなったことからソ連と交渉を重ね「日ソ民間漁業協定」の締結に導いた功労者である。
当時の日ソ漁業交渉では安全操業問題も話し合うことを提案し続けてきたが、ソ連側の回答では「ソ連領域」と位置づけられていた。しかし日本側は領土問題とは別個に取り扱うことを希望していたが、ソ連側より平和条約が締結されていないことを理由に、安全操業問題を話し合う条件にないと通告されたが高碕氏は根気強く交渉を続けた。 政府代表として、時には大日本水産会会長として北方領土付近の漁の安全操業のために尽力した。
1963(昭和38)年貝殻島周辺水域でのコンブ漁は、大日本水産会とソ連側が協定の締結を目指すことになった。6月に行われた出漁式には根室の政治家や漁業者代表などが出席したが、高碕氏は病床にて出席は叶わなかったがその時の新聞を見て喜んだという。
1964(昭和39)年秋、高碕氏の功績を讃え。後世に永く伝えようと地元の沿岸漁民などから浄財を集め、納沙布岬に関係者によって高さ4.8mの「高碕達之助先生顕彰碑」が建立された。

碑文
 この海を父祖伝来の漁場として生きてきた根室地方の漁民は、第二次
世界大戦の結果、千島周辺の漁場を失い、昭和二十年以来忍従と困苦
の生活をしいられてきた。
 このときに当たり、大日本水産会長高碕達之助先生は、早くから漁
民の窮状を広く内外に訴えられ、病身をも押してソビエト連邦政府と
交渉を重ね、ついに善隣友好の道を開かれた。かくして昭和三十八年六月、
ようやく日ソ民間漁業協定の締結をみることとなった。
 再びこの海に生活の場を得たわれらの感激はきわまりない。しかるになん
ぞ、先生には昭和三十九年二月二十四日、忽然として七十九歳の生涯を終えられる。
ああ巨星落つるの感、まことに痛恨かぎりない。
 ここに北海道水産業界はその功績をたたえ、その遺徳をしのび関係
者一同の総意により、思い出の地、ここ納沙布岬に顕彰の碑を
建立する。
昭和三十九年十月
社団法人 北海道水産会
会長理事 川端元治

納沙布は1968(昭和43)年から現在の町名で、元は根室市大字珸瑤瑁の一部だった。ノサップ・コタンスレート・ヲンネモト。珸瑤瑁は古くはゴヨマイ・コヨマエと呼ばれていた。納沙布岬と歯舞諸島の間は珸瑤瑁水道(海峡)と呼ばれている。珸瑤瑁の由来はコヨマイ島(現・カブ島)から。アイヌ語の「コイ・オマ・イ」(波・ある・所)に由来する。他にも「コヨマイペツ」(波浪の中にある川)に由来する説もあるという。コヨマエは江戸期から見られる地名で、ゴヨマイサキの地名は天明年間から見られるようで、当時から航海の難所として知られていた。松浦武四郎が著した「初航蝦夷日誌」には「コヨマヘベツ、此処岡の方少し高ミ于樹木。又小流有る也・・・。此処地より凡弐丁沖所々ニ岩磯有。コヨマヘ瀬戸と云也。大船〇(舟辺に風・音読みハン)方致(到)而なん所のよし云伝ふ也」とある。同「戊午日誌」には「コヨマエ、此辺海岸峨々たる巌壁。下転太石、海面より打付る浪甚だしきによつて号・・・此前に、カバブケモシリと云島有。カハフケは低きが故に浪が冠ると云儀なり・・・・トリトエウシと云。此処の奥に赤楊多し。其より起るなり。トリトヱとは、土人小屋の樽木様成ものに遺ふ木也」とあり、現・カブ島が当時はカバブケモシリと呼ばれていた。
 1754(宝暦4)年キイタップ場所を割いてクナシリ場所を開く。霧多布場所の小屋を根室ノッカマップに移す。1789(寛政元)年蝦夷地で和人に虐待されていたアイヌが蜂起するクナシリ・メナシの戦いが起こり、その後蜂起軍をなだめ説得が成功し、国後の131名、メナシの183名、合計314名が投降し、反乱参加者をノカマップ(野釜布、現・根室市東部)に護送した。報告を受けた松前藩も鎮圧に赴き、7月264人の鎮圧隊をノカマップに上陸させた。1812(文化9)年4月「寛政蝦夷の乱」(クナシリ・メナシの戦い) の犠牲者71人を供養するため「横死七十一人之墓」と刻まれた高さ約119cm。幅約80cm。厚さ約30cmの墓碑を作るがその後行方不明(安置されたか輸送中だったかも不明)となった。1843(天保14)年3月根室国地方に大津波あり。46人死亡、家屋倒壊75戸、船61隻被害受ける。1845(弘化2)年松浦武四郎始めて東蝦夷地を知床まで探検し知床日誌を著す。 この時の身分は、幕吏ではなく江差の商人和賀屋孫兵衛の手代を名乗って函館、室蘭、襟裳、釧路、厚岸、知床、根室、函館と探検した。1856(安政3)年藤野家では、ゴヨウマイに昆布場1ヶ所設ける。
 1869(明治2)年根室国花咲郡に属する。1870(明治3)年3月漁場持ちの柳田藤吉がゴヨマイ・トリトヱウスに昆布場を持っていた。1872(明治5)年3月根室管内の村名を定める。ゴヨマイ村が発足。1875(明治8)年3月管内町村及び港湾のカナ書アイヌ名を漢字に改める。大字を附する。珸瑤瑁村に変更。コヨマエ・ノツシヤフ・ヲン子モト・サンコタン・ノツカマフ・歯舞諸島のヲラドキ(オドケ島)・モンモシリ(萌茂尻島)・アキルル(秋勇留島)・ユウル(勇留島)・ハルカルモシリ(ハルカリモシリ島)・イタシベイソ(海馬島)・スイショウ(水晶島)・シボツ(志発島)・タラク(多楽島)などからなる。成立時はゴヨマイ村と称した。1875(明治8)年3月管内町村及び港湾のカナ書アイヌ名を漢字に改める。大字を附する。珸瑤瑁村と表記する。1876(明治9)年弁天島竿灯と納沙布灯標の点灯期間を4月〜12月までとする。1877(明治10)年6月納沙布灯標を灯台に改築する。光線五里に達する。この頃から移住者が増えていく。1878(明治11)年6月納沙布灯台に霧鐘を設けて1分間に12回打鐘する。1881(明治14)年弁天島灯竿、納沙布灯台点灯期間が3月〜翌年1月までとなる。1882(明治15)年4月根室県庁開庁し、諸々を開拓使より引き継ぐ。根室県に属する。1886(明治19)年北海道庁を札幌に置き、函館・根室に支庁を置く。1891(明治24)年の珸瑤瑁の世帯数は15戸、76人。1894(明治27)年3月大地震が起こる。被害戸数877戸、負傷者は4名。1895(明治28)年珸瑤瑁の世帯数は50戸、195人(定住者は20戸程度)。この頃歯舞諸島にも出稼ぎ者があったが夏季だけで冬季間は番人を数名置くだけだった。1897(明治30)年12月根室で大火、8町に延焼し焼失戸数662戸となる。1899(明治32)年珸瑤瑁簡易教育所設置。1900(明治33)年7月根室町に一級町村制を施行する。1901(明治34)年11月友知外五村戸長役場を歯舞村に移し、歯舞外五村戸長役場と改める。1906(明治39)年歯舞神社を創建する。1907(明治40)年珸瑤瑁尋常小学校となる。1908(明治41)年12月納沙布岬電笛信号所新築落成する。1909(明治42)年8月歯舞に駅逓を置く。
 1912(大正元)年12月珸瑤瑁(ごようまい・納沙布岬にほど近い)の海岸から「横死七十一人之墓」を引きあげる。発見後「寛政の乱和人殉難墓碑」を珸瑤瑁の墓地入口に安置する。1915(大正4)年4月歯舞外五村に二級町村制施行し歯舞村役場を置き、歯舞・友知・沖根婦(現・根室市双沖)・沖根辺(現・根室市双沖)・婦羅理(現・根室市歯舞)・珸瑤瑁(現・根室市珸瑤瑁)を大字とする。歯舞村の大字となる。この頃は昆布生産が主流だった。1917(大正6)年歯舞村では馬245頭飼育している。牧場の経営は4軒。1923(大正12)年珸瑤瑁神社を建立する。
 1927(昭和2)年歯舞・花咲・落石港の修築工事着工する。許可移民が根室原野に大挙して入地する。1929(昭和4)年10月根室拓殖鉄道会社の根室〜婦羅理(現・根室市歯舞)間が開通する。12月婦羅理〜歯舞間延伸開業する。1930(昭和5)年11月納沙布灯台をコンクリート造りに改築する。1945(昭和20)年根室市街が米軍機により空襲され、死者199人、行方不明者170人、市街中心部の大半が焼失する。8月ソ連軍が択捉島に上陸する。9月には千島・歯舞島が占拠される。米軍駐留軍が公会堂に進駐する。9月ソ連が千島の領有を宣言し、南千島、歯舞諸島から脱出者が相次ぐ。11月北方水域にマッカーサー・ライン設定される。稲茂尻(色丹島)で島民がソ連軍に射殺される。国後島より脱出した漁船が根室沖で沈没し、18人死亡する。戦災者・引揚者のバラック建設始まる。1947(昭和22)年7月道議会が歯舞諸島・択捉島・国後島の日本復帰の請願決議可決する。8月北方領土復帰根室国民大会開催する。北方島民残留者の本国引揚げが始まる。11月歯舞地区の電化が進む。1959(昭和34)年4月歯舞村が根室市と合併する。根室市の大字となる。根室拓殖鉄道が廃止となる。1967(昭和42)年7月根室市文化財に「温根元チャシ」「寛政の乱和人殉難墓碑」「チャルコロモイチャシ」を指定する。1968(昭和43)年「寛政の乱和人殉難墓碑」を現在地に移設する。1月歯舞地区の地番改正し、引臼・婦羅理・取戸石を廃し、豊里・温根元・納沙布・珸瑤瑁1〜3丁目・水晶島・秋勇留島・勇留島・志発島・多楽島となるが歯舞群島関係域は実質的な行政権が及んでいないのが現実となっている。8月根室市開基百年記念式典挙行。1970(昭和45)年納沙布の世帯数は35戸、200人。1972(昭和47)年2月納沙布岬に「望郷の家」が竣工する。1975(昭和50)年監視用の望楼を円型コンクリート製に建て替える。1978(昭和53)年8月望郷の岬公園命名式挙行。1979(昭和54)年納沙布灯台横にレーマークビーコン電波を出す鉄塔を建設する。望郷の家完成する。1980(昭和55)年8月納沙布岬で北方館の落成式挙行。シンボル像の起工式行う。周辺の整備が行われ、望郷の岬公園となる。1981(昭和56)年9月納沙布岬に「四島のかけ橋」完成し、シンボル像点火記念式典挙行。1982(昭和57)年納沙布の世帯数は37戸、203人。1983(昭和58)年4月「根室半島チャシ跡群」(ポンモイチャシ他)が国の文化財の指定を受ける。1987(昭和62)年7月納沙布岬に「平和の塔」完成する。
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