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屈斜路湖「砂湯」

住所 川上郡弟子屈町字美留和(屈斜路湖畔砂湯)
駐車場 向い側に無料の駐車場がある

弟子屈なび

川上郡とは、1869(明治2)年8月蝦夷を北海道と名づけ、11国86郡を設定。釧路国および川上郡が設置され開拓使が管轄する。1879(明治12)年7月に郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画として川上郡が発足。当時の郡域は、標茶町・弟子屈町の2町から標茶町の一部(チャンベツ地区)を除いた区域。
弟子屈町の由来は、アイヌ語の「テシカ・カ」(岩盤、梁・の上)から。
屈斜路の由来は、江戸時代の探検書・古地図には「クスリ・トー」(アイヌ語で温泉、薬の湖の意)と書かれていたが、この付近に集落があり、アイヌ語で「クッチャル」(沼・喉口)湖水が釧路川となって流れだすクッチャルに「屈斜路」の字を当てたもの。
美留和とは、アイヌ語の「ビルワ」または「ペルワアンベツ」(泉池がある川)。松浦武四郎が著した「戊午日誌(戊午東西蝦夷山川取調日誌)」には、ヘリワ・・・・・此川の奥弐十丁計に一つ沼有、其上に一ツの丸山しによって号る」とある。
砂湯の由来は、砂を掘ると温泉が出てくることに由来するとのこと。この付近ではアイヌ語で「ポロモイ」(大きい入り江)、「ポンポロモイ」(ポロモイより小さい入り江)、「テシカウシレト」(岩盤の岬)、「アッカルイチャンチャラ」(おひょう・はぐ・鮭鱒の産卵場・入口)などの地名などがあったようだ。
屈斜路湖の湖畔を走る道道52号線沿いにあり、弟子屈町字屈斜路の国道243号交差点 から川湯温泉方向に約8.4kmに駐車場がある。

道東の阿寒国立公園にある屈斜路湖は日本最大のカルデラ湖。屈斜路湖の湖と接する波打ち際が「砂湯」である。実際に砂浜を掘ると温泉が出てくる珍しい場所で屈斜路湖畔の景勝地。屈斜路湖の湖畔には他にもたくさんの観光地が点在し、あちこちで温泉も湧き出しているのである。
大きな無料駐車場が完備されており、24時間トイレ、レストハウス(お土産店)、食堂、スワンボート(手漕ぎや貸しボートもある)場、キャンプ場もある。
湖畔で砂を少し手で掘ってみると、温泉が湧き出てくる。熱いお湯(50度近い温泉)が湧く所もあるので注意してほしいが、あまり暖かくならない場所もあるようである。熱い場合は湖の水で薄める。足湯を作る程度なら簡単に出来るし、スコップも貸し出している。ボート場のそばには、常設の足湯(無料)施設もあるがタオルは持参すること。
泉質は、弱アルカリ性単純温泉とのこと。ちなみにレストハウスの中にも飲泉用の温泉があり、そこの泉質はナトリウム・炭酸水素塩泉と表示がある。源泉温度は59.2℃、PH6.6。
屈斜路湖は、冬季になると結氷するがこの砂湯あたりは地熱があることから湖の湖面が凍らないので時期になるとハクチョウなどが羽を休めに来る。ちなみにハクチョウのエサも販売されるのでエサをやりながら足湯に入り絶景を堪能するのも格別だろう。


湖畔のキャンプ場は、キャンプをしながら水遊びや足湯、ボートやカヌーを楽しむ利用者で週末になるといっぱいになるほど人気のキャンプ場である。
テントサイトは湖畔に面した砂地と草地だが、テントなどの搬入に道道に車を止めて運ぶ人がいるので通行には注意が必要である。炊事場、トイレ、自販機などがある。
TEL 管理棟015-484-2254
営業期間 6月下旬〜9月中旬
チェックインは13時・チェックアウトは翌日の11時
料金 大人500円、小中学生300円

美留和は、1947(昭和22)年〜現在の字名で、元は弟子屈村大字屈斜路村の一部。1895(明治28)年に美留和原野の殖民地区画を設置する。1898(明治31)年からは御料林に編入する。1902(明治35)年から入植が始まるが定着はしなかったようである。弟子屈〜川湯までの囚人道路が開削される。1908(明治41)年から翌年にかけて富山県人が御料移民として23戸入植する。他7戸入植する。1909(明治42)年美留和簡易教育所開設するが翌年人口減少により一時閉鎖する。
 1912(明治45・大正元)年に美留和簡易教育所再開する。1914(大正3)年美留和尋常小学校となる。この頃造材ブームで景気が上がる。
 昭和初期には北海道サケマスふ化場十勝支場釧路事業所開設される。1929(昭和4)年8月釧網線(後の釧網本線)標茶〜弟子屈間延伸開業し、磯分内、南弟子屈、弟子屈の駅を設置する。1930(昭和5)年8月弟子屈〜川湯間延伸開業し、美留和、川湯の駅を設置。1931(昭和6)年美留和〜札友内(現・弟子屈町札友内)間の道路開削される。1932(昭和7)年から翌年にかけて美留和原野に東北地方から76戸の入植。第二次世界大戦後は木炭の生産が盛況となり、貨物土場は木炭の山だった。この頃は畑作と馬産、製炭で生計を立てる家が多かった。馬産地でもあったが離農者が相次ぎ1965(昭和40)年頃から未利用土地を統合した酪農家が増えた。
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