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新酪展望台

住所 根室市湖南

根室の由来は、語源は早くに忘れ去られ不明であるが諸説ある。江戸時代の記録には「子モロ」「根諸」などと記され、根室市では「根室国」を命名した松浦武四郎による「知床日誌」では、アイヌ語の「ニ・ムイ」(木・湾の意)を由来とし、この説を採用している。他にも「ニイモヲロ」(静かで樹木のあるの意)・「ニノヲロ」(ウニがあるの意)・「ニムオロ」(樹木繁茂する所の意)・「ネムロコタン」(池のある集落)・「メム・オロ・ペッ」(湧壺・そこにある・川の意)などとある。
湖南の由来は、風蓮湖の南に位置することからついた。
国道243号国道44号の厚床1.2丁目交差点から根室方向へ約9.3kmの側道(看板無し)を左折し、さらに左折し厚床方向に約230m右手。

別海町の新酪農村展望台、浜中町の茶内酪農展望台と同様に広大なパイロットファームの牧場風景が広がる展望台だ。案内の標識や看板などは一切ないが、国道から鉄製の展望塔が見えるので分かりやすいだろう。
この展望塔は、1982(昭和57)年に完成した高さ10mの望楼鉄塔、通称「新酪展望台」である。標高は約20m。観光としての役割は低いらしく、観光客はほとんど居ない。入り口の草すら刈ってない。天気が良ければ絶景が広がるはずである。


湖南地区は、元は根室市大字厚別村の一部で1872(明治5)年根室郡アツウシベツ村となる。槍昔半島付近はかつて厚別(アツウシベツ)と呼ばれ、1877(明治10)年遠太北岸(とおぶと、現走古丹、風蓮湖湖口に近い根室側砂嘴先端近くの内湾側だろうが浸食により分からなくなっている)渡船場を設けるまでは、アツウシベツ(厚別)を経由していたが野付方面に出るには遠回りでぬかるんで歩きにくかったようである。この厚別には当時通行屋・番屋・倉庫などがあり、船を利用し、根室・国後・野付・西別方面へと渡る交通の要所でもあった。陸路は厚岸に至る道と、温根沼から昆布盛へ出て根室に向かう道路があった。明治時代に入ってから駅逓所(設置年は不明)や郵便局が開設されたが1879年(明治12年)に根室〜厚岸間が太平洋側を通る道になり、厚別駅逓所が落石に移転すると厚別は衰退し、その後無人地帯となり、槍昔半島へ至る道も放置されわずかな人が住むだけとなる。1906(明治39)年根室郡和田村大字厚別村となる。明治期後半頃から大正期にかけて薪炭材を売って生計を立てていたようである。
 昭和期には、厚別村各地に少数の畜産農家と厚別組合が営林署から土地を借りて馬の放牧をしていた。戦後の緊急開拓入植により1949(昭和24)年9月槍昔(風蓮湖に突き出した半島状の地形付近)地区に樺太や国後島などの引揚者23戸が入植する。この時の既存農家は3戸だった。1950(昭和25)年厚床小学校槍昔分校が開校する。1951(昭和26)年厚床中学校の分校も併設される。1952(昭和26)年槍昔小中学校として独立。1956(昭和31)年4月根釧パイロットファーム事業開始し入植が始まる。厚床小学校湖南分校が開校する。1957(昭和32)年8月和田村が根室町と合併し、根室市大字厚別村となる。根室市が誕生する。9月明治乳業厚床工場で落成式挙行。1959(昭和34)年には湖南分校が独立するがその後離農者があり生徒数が減少する。1967(昭和42)年1月大字の廃止に伴い、根室市湖南となる。1968(昭和43)年湖南小学校廃校となる。1970(昭和45)年戸数は24戸、82人。1971(昭和46)年に槍昔小学校は厚床小学校に統合されて廃校となる。1973(昭和48)年国営事業として根室区域広域農業開発事業(新酪農村建設事業)が着工する。この頃新酪農村の湖南地区が造成される。1975(昭和50)年の戸数は17戸、69人。1978(昭和53)年標津郡中標津町、野付郡別海町、根室市にまたがる根釧台地に新酪農村の建設を開始する。新酪農村建設の対象となったのは槍昔の南部の湖南地区にあたり、広大な牧場と、道路や用水の整備も行われ、1983(昭和58)年まで続けられ、合計222戸を建設し、1農家辺りの面積は約50ha、飼育乳牛は約70頭を超え大きく発展した。
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