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春別発祥の地

住所 野付郡別海町尾岱沼5番地(道の駅 おだいとうに隣接する)

別海町観光協会

野付の由来は、アイヌ語の「ノッケウ」(あご)から。昔ここへ大きな鯨が流れ寄り、その下顎がこの埼(さき)になったという説と砂嘴の形状から名づけられたという説がある。
別海の由来は、アイヌ語の「ベッ・カイェ」(川の折れ曲がっているところ)から。元禄年間には「べけるる」、安政年間には、「ヘッカイ」と呼ばれ、1872(明治5)年に別海となった。
尾岱沼の由来は、アイヌ語の「オタ・エト」(砂・岬)を和人が「オダイトー」と発音、漢字で「尾岱沼」と書かれるようになる。語尾の「トゥ」tuを「ト−」to(湖・沼)とまちがえて、「沼」の字を当てて読んでいる。
国道244号線沿いにあり、尾岱沼市街地から約4km、標津町市街地から約17.7kmほど。本別海市街地から約17.2kmほど。

道の駅 おだいとうは、国道244号沿いの海を望む絶好のロケーションに位置し、冬から春にかけて数百羽の白鳥が飛来する「白鳥台」に隣接している。メイン施設は、別海北方展望塔で、開駅は2011(平成23)年4月である。
道の駅の駐車場から本別海方向に約130mほど進んだ敷地内に碑がある。

碑文
眼前に国後島、北に知床
連山を望み、北海の東端
のこの地に先人が居を定
む。原始林を拓き、海に
活を求め、酷寒と斗い、
苦難窮乏に耐え、共存融
和の郷を築いた。
海山に汗し、産業をおこ
して一世紀、この偉業に
深甚なる謝意を憶う。
今茲に、開基百年にあた
り、先人の偉大なる業績
を讃え、春別の地名と共
にこれを記念し、本碑を
建立する。
昭和六十三年九月建立
春別町内会

道の駅敷地内のこの碑から道の駅方向に進むと、右手に北方領土返還を願い建設された「叫びの像」がある。
北方四島の返還を実現させるべく建立されたこの像は、山形県の実業家である鈴木傅六氏が別海町に寄贈したもの。
「たとえ何代かかっても北方四島を取り戻す」という国民総意を表すため、老女が息子、孫を両脇に従え、すさまじい迫力で「返せ」と叫ぶ姿が込められている。
高さ2.4メートルの像の先には、北方四島をイメージした高さ16mのポールが立ち、像とポールの間の距離は、野付半島から国後島までの最短距離16kmにちなんで16mとなっている。


白鳥台

道の駅 おだいとうでもある、春別川河口の高台が白鳥台と呼ばれている。
海の向こうには野付半島を望むことができ、11月〜3月にかけてオオハクチョウなどの渡り鳥が飛来し間近に楽しむことができる。
また、厳冬期の朝、光の屈折により稀に発生する「四角い太陽」を観測することができる数少ないビューポイントでもある。
それと2月の第2日曜日には「おだいとう白鳥まつり」が行われ、雪像を作ったり、冬の味覚や各種ゲームが楽しめるイベントが行われる。
白鳥に扮して氷の上に裸足で立ち、立っていられる時間を競う「楽寒!白鳥の湖ゲーム」、雪の中に埋められたホタテの貝殻を探し、時間内に掘り当てた枚数分の活ホタテがもらえる「雪中ホタテ潮干狩り」など家族連れで楽しめるイベントがある。

尾岱沼は、別海町の北東部に位置し、東は野付湾に面する。野付半島と対峙する漁業地帯でもある。尾岱沼港を中心として市街地を形成し、内陸では酪農を営む。春別川河口は白鳥台と称し、冬季には白鳥の越冬地ともなっている。元は別海町大字平糸村の一部だった。1872(明治5)年3月野付郡内に、別海村、平糸村、野付村、茶志骨村、根室郡内に西別村が誕生する。8月別海〜標津間8里47間新道完成。本別海の部落形成が始まる。1879(明治12)年7月別海に戸長役場が設置され、走古譚、西別、平糸、野付、別海の五村を統轄し、別海外4ヶ村戸長役場と称する。1885(明治18)年3月春別に駅逓所を開設、取扱人に玉熊重吉となる。1887(明治20)年尾岱沼に大橋喜代松が漁業をして住み始める。1889(明治22)年蝋山吉次郎がチカ・エビなどの瀬引網を始める。1892(明治25)年春別に寺子屋式の私設教育所を設置する。1900(明治33)年春別原野植民区画される。1906(明治39)年には駅逓取扱人だった小沢七十郎が牧場経営を始める。1909(明治42)年の戸数は春別で45戸、尾岱沼が50戸。1911(明治44)年曹洞宗平糸説教所(現・野付郡別海町尾岱沼潮見町の護国寺)設置する。当時は春別が当地の中心だったが明治末期に山本・大隅缶詰所が相次いで尾岱沼地区にできたことで漁業の中心は尾岱沼地区になっていった。1858(安政5)年頃に建立した弁天社を野付神社(現・野付郡別海町尾岱沼潮見町123番地)とする。
 1923(大正12)年1月走古譚村、西別村を野付郡に編入し、茶志骨村が標津郡標津村の一部となる。4月二級町村制の施行により、別海村、平糸村、野付村、根室郡西別村、走古潭村、厚別村の区域をもって別海村が誕生する。根室郡と野付郡の境界を風蓮湖口の中央とする。
 1934(昭和9)年10月村役場を本別海地区から西別地区(現・別海地区)に移転する。野付半島一帯の道立公園認定を申請。戸数は春別12戸、75人、尾岱沼は98戸、583人。1951(昭和26)年尾岱沼漁港が第二種漁港に指定される。1962(昭和37)年野付風蓮道立自然公園に指定される。1971(昭和46)年4月町制施行、別海町となる。6月森永乳業別海工場操業開始。町営バスの路線運行開始。1972(昭和47)年1月区画整理による新字名番地が施行される。1973(昭和48)年トドワラ遊歩道整備される。
 ちなみに春別は、アイヌ語の「シュムペッ」(溺死川の意)に由来し、春別川流域、江戸期から見られる地名である。松浦武四郎が著した「東蝦夷日誌」には「名儀、油川と云義也。昔し鯨を取、油を絞りしが故に此名有と」とある。「初航蝦夷日誌」には「シユンペツ、川有。鮭鱒上るよし、川有。巾五十間。此処ノツケ湖の口也。川口凡二十五間。傍ニ夷人小屋有るなり」とある。幕末あたりでは人家は無い。明治初期には根室国野付郡に属す。1872(明治5)年3月平糸村の一部となる。


1593(文禄2)年、蠣崎慶広、豊富秀吉に謁見し封彊禁制の朱印の書を得て蝦夷の島主と認められる。
1599(慶長4)年、慶広、蠣崎氏を松前氏に改め徳川家康に謁見する。
1604(慶長9)年、慶広、徳川家康に謁見し黒印の制書を得て、さらに強力な統治権を握る。
1624〜1643(寛永年間)年、松前藩が厚岸場所を開設し、運上屋を設ける。
1644(正保元)年、幕府が松前藩の領地図を基に、北方領土を含む「正保御国絵図」を作成。
1701(元禄14)年、厚岸場所の奥地を分離して、霧多布場所を設ける。
1754(宝暦4)年、和船が初めて納沙布水道をの難所を越え国後場所を開設する。
1774(安永3)年、霧多布外3場所を飛騨屋久兵衛に請負わす。クナシリ酋長人ツキノエ飛弾屋の交易船を妨害する。
1785(天明5)年、最上徳内、幕府の命により国後、択捉島へ向かい調査する。和人の越冬が始まる。
1789(寛政元)年、国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村山伝兵衛に場所請負を命ず。
1792(寛政4)年、ロシア使節ラックスマンが西別に上陸し、根室湾に越冬する。
1794(寛政6)年、運上屋をノッカマップより根室へ移し、根室領と称す。
1796(寛政8)年、村山伝兵衛は根室、国後場所を罷免される。
1796(寛政9)年、小林宗九郎、熊野屋忠右衛門、根室場所請負人となる。
1798(寛政10)年、近藤重蔵、最上徳内らが択捉島に渡り「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。
1799(寛政11)年、高田屋嘉兵衛、国後・択捉島間に航路を開く。幕府は東蝦夷地(箱舘から知床までの東海岸)を7ヶ年を限り仮直轄。夏、松平信濃守忠明東蝦夷地を巡視、標津川をさかのぼり釧路川に出る。幕府道路を開削し、野付と厚別に通行屋できる。
1800(寛政12)年、伊能忠敬東蝦夷地を測量して作図する。
1801(享和元)年、幕府、石川忠房奉行に根室、標津、知床を巡視させる。7月江戸よりの探検船凌風丸忠類沖に碇泊。標津で始めて引網を試みる。
1802(享和2)年、幕府、東蝦夷地を本格的に直轄、箱舘に蝦夷奉行所を設置。
1807(文化4)年、蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。択提島を荒らしたロシア船知床半島近くに現われる。
1810(文化7)年、高田屋嘉兵衛根室場所請負。
1811(文化8)年、6月露将ゴローニンほか7人捕えられて、野付を経て松前へ護送する。
1812(文化9)年、根室場所を材木屋七郎右エ門の請負となる。国後場所は米屋藤兵衛が請け負う。野付水道にて高田屋嘉兵衛露艦に捕えられ、カムチャッカに抑留される。
1815(文化12)年、高田屋金兵衛場所請負となる。
1816(文化13)年、根室場所を高田屋喜兵衛、伊達林右エ門、栖原半助、亀屋武兵衛の共同請負となる。
1818(文政元)年、根室場所を高田屋単独の請負となる。
1821(文政4)年、幕府、蝦夷地を松前藩に返還。
1831(天保2)年、高田屋金兵衛密貿易の嫌疑により失脚し、藤野喜兵衛場所請負となり、根室8、花咲1、野付14、標津3、目梨5、計31ヶ所の漁場を引き継ぐ。
1839(天保10)年、山田文右衛門場所請負となる。
1843(天保14)年、3月根室国地方に大津波あり。
1845(弘化2)年、白鳥宇右衛門、浜田兵四郎共同請負となる。松浦武四郎始めて東蝦夷地を知床まで探検し知床日誌を著す。
1849(嘉永2)年、根室場所藤野喜兵衛の請負となる。
1855(安政2)年、幕府、松前・江差地方を除く全島を直轄。東蝦夷地は仙台藩の警備地となる。日露通好条約を結び、国境を択捉島とウルップ島の間に決める。
1857(安政4)年、加賀伝蔵が野付半島オンネニクルにて畑作をする。
1859(安政6)年、11月別海は、西別川を境に南を仙台藩、北を会津藩領地とする。
1865(慶応元)年、山田屋寿兵衛漁場請負となる。
1869(明治2)年、8月蝦夷を北海道と名づけ、11国86郡を設定。場所請負人を廃止し漁場持と改称。10月根室開拓使に出張所を設け、根室、野付、花咲三郡を所轄。12月山田屋寿兵衛より漁場を引きあげ、開拓使物産掛の管理下におく。
1870(明治3)年、1月野付村に44人団体移住する。10月別海駅逓を藤野により取扱われる。
1871(明治4)年、諸藩分領が廃止され、開拓使に帰属される。
1872(明治5)年、3月野付郡内に、別海村、平糸村、野付村、茶志骨村、根室郡内に西別村が誕生する。8月別海〜標津間8里47間新道完成。9月根室出張所を改め、根室支庁と称す。本別海の部落形成が始まる。
1873(明治6)年、7月根室支庁出張所を野付におき、目梨、標津、野付三郡を管轄する。
1875(明治8)年、樺太千島交換条約成立。シュムシュ島からウルップ島までの18島の千島列島が日本領となる。5月村名は全て本字使用となる。
1876(明治9)年、9月走古譚村が発足する。
1879(明治12)年、7月別海に戸長役場が設置され、走古譚、西別、平糸、野付、別海の五村を統轄し、別海外4ヶ村戸長役場と称する。
1880(明治13)年、根室支庁管下、根室、厚岸、網走、振別の四郡役所が設けられる。
1881(明治14)年、遠太に駅逓所設置される。
1882(明治15)年、2月廃使置県により野付郡が根室県の直轄下におかれる。
1885(明治18)年、3月春別に駅逓所を開設、取扱人に玉熊重吉となる。
1886(明治19)年、1月北海道庁を設置。野付郡が根室支庁の管轄となる。西別村ヤマカシムイで佐々木忠太郎農耕始める。8月道庁技師内田瀞ら15名によって根室原野の調査を行う。12月野付郡は根室外九郡役所の管轄下となる。
1887(明治20)年、尾岱沼に定住者が出始める。
1890(明治23)年、根室、別海、羅臼間の定期航路が開かれる。
1896(明治29)年、西別原野に畠沢石太郎、渡辺仁太郎が入植する。
1897(明治30)年、11月郡役所が廃止され、根室支庁の管轄となる。
1906(明治39)年、12月和田村管轄の厚別村を編入し別海外5ヶ村戸長役場と改める。
1910(明治43)年、9月奥行臼に駅逓所を設置する。馬3頭与えられた。
1911(明治44)年、西別原野に畑中団体33戸、133人入植する。
1917(大正6)年、4月西別駅逓所を開設し、取扱人を相山虎次郎とする。風蓮原野に斉藤栄六が入植する。
1918(大正7)年、奥行臼駅逓の一部を改築。
1921(大正10)年、10月風蓮原野に駅逓所を開設し、取扱人を早坂善次とする。
1923(大正12)年、1月走古譚村、西別村を野付郡に編入し、茶志骨村が標津郡標津村の一部となる。4月二級町村制の施行により、別海村、平糸村、野付村、根室郡西別村、走古潭村、厚別村の区域をもって別海村が誕生する。根室郡と野付郡の境界を風蓮湖口の中央とする。標津郡と野付郡の境界はトーポロ川とする。
1924(大正13)年、10月中春別に駅逓所設置される。厚床〜西別間に殖民軌道敷設され、西別駅が開設。
1925(大正14)年、5月厚床〜西別間に殖民軌道運転開始。
1929(昭和4)年、10月西別〜中西別間に軌道敷設される。
1930(昭和5)年、4月中西別駅逓所開設される。5月上春別駅逓所開設される。6月奥行臼駅逓廃止。
1931(昭和6)年、10月西春別駅逓所開設される。西別神社建立される。
1933(昭和8)年、12月厚床〜西別間が標津線として開業し、奥行臼・西別駅を新設する。
1934(昭和9)年、10月村役場を本別海地区から西別地区(現・別海地区)に移転する。10月西別〜中標津間が延伸開業し、春別・中標津駅を新設する。11月殖民軌道上春別線開通。野付半島一帯の道立公園認定を申請。
1936(昭和11)年、10月標茶〜計根別間が標茶線として開業し、西春別・計根別駅を新設し、殖民軌道標茶線廃止となる。殖民軌道中春別線開通。
1937(昭和12)年、10月計根別〜根室標津間が延伸開業し全通する。標茶線に標津線を編入して標津線となる。当幌・上武佐・川北・根室標津駅を新設し、殖民軌道計根別線廃止となる。
1943(昭和18)年、5月西春別飛行場の建設が着手される。
1945(昭和20)年、日本がポツダム宣言を受諾し、終戦。その後ソ連軍が北方四島を不法占拠する。引揚者454戸3302人が開拓移民として入植する。
1947(昭和22)年、5月地方自治法の施行により北海道根室支庁の管轄となる。
1953(昭和28)年、12月中標津・別海が町村境界を決める。野付半島に灯台が設置される。
1955(昭和30)年、4月中標津との境界変更を行い、別海村の一部(現・協和・豊岡)が標津郡中標津町に編入。
1962(昭和37)年、12月野付風蓮道立自然公園に指定される。
1970(昭和45)年、簡易軌道奥行臼〜上風蓮間廃止となる。
1971(昭和46)年、4月町制施行、別海町となる。6月森永乳業別海工場操業開始。町営バスの路線運行開始。
1972(昭和47)年、1月区画整理による新字名番地が施行される。
1976(昭和51)年、12月西別駅を別海駅に改称し、駅舎を新築する。
1978(昭和53)年、10月別海町開基百年記念式典挙行。
1981(昭和56)年、4月文化センター郷土資料館開館する。
1982(昭和57)年、11月奥行臼駅逓が、別海町文化財に指定される。
1987(昭和62)年、4月国鉄分割民営化によりJR北海道に継承。
1989(平成元)年、4月標津線全線廃止し、バス転換となる。
1993(平成5)年、4月別海町郷土資料館オープン。
1994(平成6)年、6月北海道指定文化財に奥行臼駅逓指定される。
2010(平成22)年、4月根室支庁が廃止され、根室振興局の管轄となる。
2011(平成23)年、9月「旧奥行臼駅逓所」の名称で、国の史跡に指定される。
2014(平成26)年、保存・修繕作業に伴い、一時閉鎖。
2018(平成30)年、10月「旧奥行臼駅逓所」が修繕を終える。
別海町百年史別冊付録、別海町三十年史参考

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