北海道応援サイト!がんばれ北海道!!

根室車石

住所 根室市花咲港

根室市観光協会

根室の由来は、語源は早くに忘れ去られ不明であるが諸説ある。江戸時代の記録には「子モロ」「根諸」などと記され、根室市では「根室国」を命名した松浦武四郎による「知床日誌」では、アイヌ語の「ニ・ムイ」(木・湾の意)を由来とし、この説を採用している。他にも「ニイモヲロ」(静かで樹木のあるの意)・「ニノヲロ」(ウニがあるの意)・「ニムオロ」(樹木繁茂する所の意)・「ネムロコタン」(池のある集落)・「メム・オロ・ペッ」(湧壺・そこにある・川の意)などとある。
花咲の由来は、アイヌ語の「ポロ・ノッ」(大きな岬)。花咲は和名で、岬の鼻先と言うことから花咲があてられたという。
道道310号花咲港線の車石入口バス停付近(車石の看板有)から花咲岬駐車場方向へ約1.7km。駐車場があるのでそこから徒歩で海岸方向へ。

車石は、花咲岬に広く点在する「ホイールストーン」と呼ばれ、最大6mの物もある独特な形状(放射状節理構造の玄武岩で、車輪のように丸く形成される)の石を直訳したもので、1939(昭和14)年9月国の天然記念物にも指定されている。学術的にとても貴重で、根室では外せない観光スポットとなっている。
駐車場から岬方向に歩くとまず目に入るのが花咲岬突端に立つ赤と白に塗られた四角形の灯台。「日本の灯台50選」にも選ばれている。
重要港湾である花咲港を見下ろす岬の上に建つ花咲灯台は、白地に赤横帯1本塗。コンクリート造り。地上から灯頂までの高さ10m、海面から灯火部分まで31m。光達距離は15.5海里(約29km)。管轄は、海上保安庁第一管区海上保安本部。
1890(明治23)年11月花咲灯台落成し、11月〜3月まで点灯する。1951(昭和26)年に改築。1952(昭和27)年8月霧信号所の鳴笛が開始。霧信号所は2010(平成22)年3月に廃止。


遊歩道をさらに下っていくと野鳥観察舎(ハイド)が見えてくる。バードウォッチ時に鳥を脅かすことなく見られるようにと設置されているもので、根室市では各地に設置されている。寒い日は風よけにもなる。なんでもイギリスが発祥なんだとか。
ここから見える崖地にはオオセグロカモメのコロニーがあるんだとか。ちょっとよく分かりませんでした。他にもヒメウウミウウミネコなども見られるようである。

この観察舎から木道を通って少し下の断崖のほうへ降りることができる。ゴツゴツした岩に打付ける波の音がなんとも心地いい。木道から海岸のほうに進むと北側の海岸線を眺望する展望地もある。さらに下に降りていくと国の天然記念物「根室車石」がある。
海岸線は節理となっていて木道がなければ転びそうだ。大きな半円形の岩は直径6mにも及ぶ(人が多くて遠巻きでしか写真が撮れませんでした)そうで、これだけの規模のものは世界でも珍しいとのこと。ここの摂理は層雲峡などの柱状節理と違って横方向に走っており、枕を並べたように見えるので枕状節理と言う。



案内板
国指定天然記念物 根室 車石
所在地 根室市花咲港
指定年月日 昭和14年9月7日指定
管理者 根室市教育委員会

 車石は、根室半島花咲岬附近一帯に広く分布し、方沸石を含み、アルカリ分に富む玄武
岩質岩石中にみごとな放射状節理の発達した球状岩体です。
 その形成当時は、白亜紀(6千万年〜1億3千万年前)といわれた時代でアンモナイト・
イノセラムスなどの動物が、住めるような今より暖かい海でした。その海底の地下深くより
千度以上もの温度をもったマグマが上昇し、海水を含んだ泥(根室層といわれている)の
附近で水平に方向をかえ溶岩となって泥の中へ侵入してきました。そこで泥の中の海水は、
この溶岩をどんどん冷やしていきます。表面は、冷やされるため、はじめは柱状節理とい
われる柱のようになった割れ目が出来ますが内部はまだ溶けており、後方からおくられる
溶岩によって先に進んでいき先端部より海水が侵入し内部を急冷します。
 そして最後には球状の「車石」を多数つくります。このような溶岩を「枕状溶岩」とい
い、この半島での岩質は粗粒玄武岩といわれており一般に長径1〜2メートル、最大で6
メートルにおよぶものがあります。このような火成岩の典型的な放射状節理構造は何も少
なく学術上貴重であり太平洋に面する断崖に球状岩体の多数重なる様は、一大奇観であり
ます。
   根室市教育委員会

花咲港は、根室南東部、根室半島太平洋側にある。江戸期から「ハナザキ」という地名がみられる。市街地にある花咲町とは別である。ネモロ場所の持ち場であった。1615(慶長20・元和元)年根室・千島地方の蝦夷ラッコ皮などを松前との交易に持参する。1624〜1643(寛永年間)年松前藩が厚岸場所を開設し、運上屋を設ける。1701(元禄14)年松前藩がキイタップ場所(霧多布場所・後の根室場所)を開き、アイヌと交易する。1754(宝暦4)年キイタップ場所を割いてクナシリ場所を開く。霧多布場所の小屋を根室ノッカマップに移す。1774(安永3)年飛騨屋久兵衛は伐木業から漁業へ事業の転換を図り、絵鞆(現・室蘭)厚岸、霧多布、国後、メナシの四場所を期間20年で請負った。1789(寛政元)年蝦夷地で和人に虐待されていたアイヌが蜂起するクナシリ・メナシの戦いが起こり、真相調査のため青島は最上徳内を同行させ、徳内4度目の蝦夷地上陸となる。飛弾屋を免じ、村上伝兵衛に場所請負を命ず。1794(寛政6)年運上屋をノッカマップより根室へ移し、根室領と称す。1799(寛政11)年幕府は東蝦夷地(箱舘から知床までの東海岸)を7ヶ年を限り仮直轄。南部藩がネモロ・クナシリ・エトロフに勤番所を設ける。1802(享和2)年幕府、東蝦夷地を本格的に直轄、箱舘に蝦夷奉行所を設置。1807(文化4)年蝦夷地(北海道)全島幕府直轄となる。南部・津軽藩に増兵をうながし、秋田・庄内に出兵させ、ネモロに南部藩130人、クナシリに南部藩340人を派兵する。色丹島のアイヌが当地へ移住させられる。この時の世帯数は15戸、105人。番屋・蔵などがあった。1808(文化5)年クナシリ・エトロフその他に在勤の南部藩は仙台藩と交代する。1810(文化7)年高田屋嘉兵衛根室場所請負。1818(文政元)年根室場所を高田屋単独の請負となる。1821(文政4)年幕府、蝦夷地を松前藩に返還。南部・津軽藩兵を撤退させる。1831(天保2)年高田屋金兵衛密貿易の嫌疑により失脚し、藤野喜兵衛場所請負となり、根室8、花咲1、野付14、標津3、目梨5、計31ヶ所の漁場を引き継ぐ。1840(天保11)年松前藩はネモロ場所の藤野喜兵衛場所請負を止め、山田屋文右兵衛門に請負わせる。1843(天保14)年3月根室国地方に大津波あり。46人死亡、家屋倒壊75戸、船61隻被害受ける。1844(天保15・弘化元)年ネモロ場所の山田屋文右兵衛門請負い終了する。1850(嘉永3)年松浦武四郎が著した「初航蝦夷日誌」には「ハナサキ、岩石峨々たる此岬を廻りて漁小屋一軒。夷人小屋有。弁天社。非常備米蔵等有。海参、鰯、鯡、扞に鮭漁も有るよし聞り。是より子モロ運上屋のうしろ山越道有。凡弐り」とある。1854(嘉永7・安政元)年アイヌの住人は12戸、47人。番屋・子モロ場所の出張漁小屋一、板蔵、茅蔵3があり、このころコマイ・鱒の漁場で子モロから出稼ぎに来るものがあった。。1855(安政2)年幕府、松前・江差地方を除く全島を直轄。東蝦夷地は仙台藩の警備地となる。1856(安政3)年に松浦武四郎が著した「竹四郎廻浦日記」には「ハナサキといへる処にも番屋一棟、板蔵四棟、雑蔵二棟、弁天社一棟有。又土人も昔は三十軒余有りし由。今は漸々九軒残る斗り也、人別四十八人有」。1859(安政6)年に著した「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」では「ハナサキ番屋え着しぬ・・・・・番屋一棟、茅屋今は半腐朽したり。前に去年立しと云柾の昼休所一ツ有・・・・・近年までは惣応に漁も有りて、板蔵二棟、二階蔵二棟、雑蔵二棟、弁天社等有りしが、近年不漁に付、当時ホニヲイえ移し、また近年までシコタン島に居りし土人、此処え引越し来り住せしが、是も今子モロえ引こしたりとかや・・・・ホロノツ、此処近年まで鮭番屋有り由、今はなしと云」と見える。

 1869(明治2)年6月開拓使を設置する。8月蝦夷を北海道と改称し、11国86郡を画定する。松本十郎を開拓判官に任命する。開拓使所管のうち目梨、標津二郡は熊本藩の支配となる。10月根室松ヶ枝町に開拓使出張所を設け、旧仙台藩陣屋にて人民願い訴訟を取り扱う。所管は根室、花咲、野付三郡で千島国紗那郡は仙台藩、国後郡を秋田藩が支配する。花咲郡の色丹島は増上寺支配となる。根室国花咲郡に属する。1870(明治3)年場所請負の名称を廃し、漁場持ちとする。3月漁場持ちの柳田藤吉他3人に根室・花咲両郡の漁場33ヶ所の許可をする。6月花咲・根室・野付三郡を東京府支配とする。10月東京府支配を止め根室出張所に属する。7月管内の郡境を定める。10月色丹島の増上寺の支配を免じ、稲田邦直に支配させる。1872(明治5)年1月根室・千島・釧路・北見国の斜里・網走・常呂・紋別を根室出張所開拓使庁の統括とする。3月根室管内の村名を定め、ハナサキ村となる。管内に戸長を置く。5月初めて戸口調査を行う。9月根室出張開拓使庁を根室支庁に改める。根室国・釧路国・北見国東部四郡・千島国五郡を統括する。1875(明治8)年3月管内町村及び港湾のカナ書アイヌ名を漢字に改め、花咲村と表記するようになる。大字を附する。1876(明治9)年花咲郡には、花咲村・友知村・歯舞村・沖根婦(現・根室市双沖)・沖根辺(現・根室市双沖)・婦羅理(現・根室市歯舞)・珸瑤瑁(現・根室市珸瑤瑁)がある。1879(明治12)年船舶改所、倉庫を花咲村海岸に建設する。花咲には3戸。1881(明治14)年8月厚岸郡の落石・昆布盛を花咲郡へ編入する。1882(明治15)年開拓使を廃し、函館・札幌・根室の三県を置く。4月根室県庁開庁し、諸々を開拓使より引き継ぐ。1883(明治16)年広島県人14戸が入植する。共同運輸会社が冬季に函館〜花咲間航路を開設する。流氷で閉ざされる根室港の副港の役割を担い賑わった。1885(明治18)年1月花咲郡の色丹島を千島国に編入し、色丹郡・斜古丹村を置く。根室・花咲郡内に屯田用地が決定する。長さ45間(約81m)の埠頭を築く。花咲郡の世帯数は97戸、418人。1890(明治23)年11月花咲灯台落成し、11月〜3月まで点灯する。世帯数は11戸、47人。1894(明治27)年3月大地震が起こる。被害戸数877戸、負傷者は4名。1895(明治28)年花咲に験潮所を設けて潮汐観測を開始する。湾の北側に集落ができる。世帯数は33戸、106人。1896(明治29)年私立の学校が開校する。1900(明治33)年7月根室町に一級町村制を施行し、根室町大字花咲村となる。花咲簡易教育所は花咲尋常小学校となる。1910(明治43)年1月根室缶詰株式会社(山口だと思われる)を創業する。鱒、鮭、ホッキ貝を原料とした。

 1912(明治45・大正元)年の世帯数は49戸、220人。1919(大正8)年11月国有鉄道(根室本線)の厚岸〜厚床間を延伸開業、糸魚沢・茶内・浜中・姉別・厚床駅を新設。1920(大正9)年11月厚床〜西和田間を延伸開業、初田牛・別当賀・落石・西和田の各駅を新設。1921(大正10)年、8月西和田〜根室間延伸開業により全通する。花咲駅・根室駅を新設する。
 1927(昭和2)年花咲港の修築工事着工する。1928(昭和3)年オワッタラウス(現・根室市宝林町)に大東捕鯨会社の出張所を開設する。9月オワッタラウスに捕鯨場を設ける。この年の捕獲数は32頭。鯨油・缶詰工場もあった。1932(昭和7)年オワッタラウスにて海軍飛行場の第一期工事着工。11月町内地番改正し、大字を廃し字花咲港となる。1933(昭和8)年11月根室飛行機不時着陸場を花咲港に作る。1938(昭和13)年花咲港築港工事始まる。1939(昭和14)年9月根室の車石が天然記念物に指定される。1945(昭和20)年根室市街が米軍機により空襲され、死者199人、行方不明者170人、市街中心部の大半が焼失する。8月ソ連軍が択捉島に上陸する。9月には千島・歯舞島が占拠される。米軍駐留軍が公会堂に進駐する。9月ソ連が千島の領有を宣言し、南千島、歯舞諸島から脱出者が相次ぐ。11月北方水域にマッカーサー・ライン設定される。稲茂尻(色丹島)で島民がソ連軍に射殺される。国後島より脱出した漁船が根室沖で沈没し、18人死亡する。戦災者・引揚者のバラック建設始まる。1947(昭和22)年8月北方領土復帰根室国民大会開催する。北方島民残留者の本国引揚げが始まる。1949(昭和24)年4月花咲港南防波堤に灯台を設ける。1951(昭和26)年3月根室〜花咲港間にバス運行始まる。6月花咲灯台が鉄筋コンクリートに改築する。1952(昭和27)年8月花咲灯台の霧信号鳴笛開始する。1956(昭和31)年花咲半島の呼称を根室半島に統一する。1959(昭和34)年4月歯舞村が根室市と合併し、花咲郡は消滅する。1967(昭和42)年12月花咲港に石油備蓄基地完成する。1970(昭和45)年花咲港西浜埋立完了する。1978(昭和53)年、4月根室港・花咲港が重要港湾の指定を受ける。

Copyright (C) がんばれ北海道 All Rights Reserved.
inserted by FC2 system