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標津サーモン科学館

住所 標津郡標津町北1条西6丁目1番1-1号
TEL 0153-82-1141 
開館期間 2月1日〜11月30日まで、(5〜10月は無休で、2、3、4、11月は水曜日休館)、12月〜1月末までは閉館となるので注意。
開館時間 9時30分〜17時(入館受付は16時30分まで)
入館料 一般は650円、小中学生は200円

標津サーモン科学館

標津町観光協会

標津町の由来は、アイヌ語の「シ・ペッ」(大きな川)(本流)から。松浦武四郎が著した知床日誌によれば、「シベツはシベツヲの訛り、鮭有る義なり」とあり、ヲは尻の意で川口を現すが、鮭有る義に関してはわからない。
国道244号線道道863号川北茶志骨線から川北方向へ約1.3kmを右折し100mほど。

標津町立の科学館で「サケ」の水族館である。世界に生息しているサケの仲間18種、30種類以上を展示し、サケ科魚類展示数は国内最大級の施設で、1991(平成3)年9月に開館した。
館内には、ケイジの標本や標津川の鮭が遡上する魚道となっているガラス張りの水路が設けてあり、サケの誕生から産卵までサケの生涯を観察することができる。(魚道水槽は季節によって見られる魚が変わるので何度行っても楽しめる)



大水槽は、サーモン科学館のメイン水槽の一つで海水の大型水槽。ここにはホッケなどの根室海峡に生息する魚たちも展示している。


中水槽では、シロザケ、カラフトマスの未成魚、サクラマス、ミヤベイワナ、レイクトラウトなどを展示している。
魚道水槽では、標津川の鮭が遡上する魚道となっているガラス張りの水路が設けてあり、 2〜8月はシロザケの稚魚、ヤマメ等の群泳が見られ、9〜10月は川との間の水門が解放され、標津川に回帰したシロザケ、カラフトマス 、サクラマスの遡上の様子がガラス越しに見られる。
11月にはシロザケの産卵行動が観察でき、運が良ければ産卵の瞬間が見られるかも?


川の広場では、幻の魚イトウの生態がわかる「イトウコーナー」、イトウやチョウザメへのえさやり体験、「チョウザメ指パク体験」など楽しい体験が出来る。
チョウザメ指パク体験は、指をエサだと思い、食いついてくるが、歯がないので全く痛く無かった。でも最初はかなり勇気が必要だったのは言うまでもない・・・・。
この水槽で展示されているチョウザメは、ダウリアチョウザメというサメで大型になる種である。この水槽にいるチョウザメの親は根室海峡で漁獲された体長2mもある固体で、外の水槽で展示されているそうだ。



サケ展示室では、サケの生態、サケの回遊、標津のサケ漁業、サケと人間をテーマに写真をパネルなどで解説している。


展望室もあり、天気が良ければ地上30mの高さから、知床連山、標津川、北方領土である国後島、標津周辺の雄大な景色が一望できる。


標津町は、1958(昭和33)年1月町制施行標津町となる。江戸期から見られる地名で、はじめはアツケシ場所、後にキイタップ場所、ネモロ場所。1700(元禄13)年元禄御国絵図を幕府に献上。この図に「ちべ内」と記載。標津が文献に表われた初めとなる。1701(元禄14)年厚岸場所の奥地を分離して、霧多布場所を設ける。1789(寛政元)年国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。このときメナシ領徒党の23人はシベツの住民だったという。飛弾屋を免じ、村上伝兵衛に場所請負を命ず。1799(寛政11)年幕府は東蝦夷地(箱舘から知床までの東海岸)を7ヶ年を限り仮直轄。標津川をさかのぼり釧路川に出る野付に通行屋できる。このころシベツは鮭漁が盛んだった。1845(弘化2)年松浦武四郎始めて東蝦夷地を知床まで探検し知床日誌を著す。1849(嘉永2)年藤野喜兵衛の請負となる。始めて「標津場所」の名称を用いる。1850(嘉永3)年松浦武四郎が著した「初航蝦夷日誌」には「シベツ、此処番屋有。此川源はクスリ領より来るよし也・・・漁小屋、夷屋五軒。扞ニ弁天社、板蔵等有。秋味漁よろし」とある。1856(安政3)年アイヌの住民は25軒、116人。定居番人は、漁方、大工、木挽、鍛冶、その他と18名。春は鯡漁。夏・秋は鮭漁に従事した。1859(安政6)年11月会津藩領地となる。このころ健康なアイヌはノツケやネモロなどに出稼ぎに出され、住人は女子供老人ばかりだったという。1864(元治元)年字ホニコイに会津陣屋を建設。

 1869(明治2)年10月根室開拓使に出張所を設ける。12月山田屋寿兵衛より漁場を引きあげ、開拓使物産掛の管理下におく。熊本藩支配となる。根室国標津郡に属する。1871(明治4)年5月標津、目梨2郡を仙台藩支配とする。1872(明治5)年藤野伊兵衛、標津、目梨両郡の漁場持となる。8月別海〜標津間8里47間新道完成。標津、目梨を仙台県より請取り、根室支庁管轄となり標津村の一部となる。江戸期からのシベツ・モサフト・シユラ・サンボツキ・トヱビラ・チナナ・アシタロマツフ・チラヱワタラ・ケ子カブト・ホンケ子カ・カンチウシ・ホンケ子タイ・ケ子ワツカナイからなる。成立時はシベツ村。1873(明治6)年7月根室支庁出張所を野付におき、目梨、標津、野付三郡を管轄する。1874(明治7)年9月開拓使雇ヘント・ライマン地質調査のため標津へ一泊、翌日養老牛温泉を視察して斜里へ至る。1875(明治8)年3月町村名を従来の仮名であったものを本字に改める。標津郡(標津村、伊茶仁村)目梨郡(忠類村、薫別村、植別村)。6月野付出張所を廃し、支庁直轄となる。世帯数は27戸、130人。アイヌは19戸、97人。1877(明治10)年標津に村役場をおく。このころから移住者が増えていく。初代戸長の慎氏が自宅にて寺子屋式教授を行う。1879(明治12)年7月根室郡役所の管轄となる。戸長役場を標津に設け、標津、伊茶仁、2ケ村を統治。標津町の開基となる。1880(明治13)年3月忠類川に渡船場を設く。取扱人小桜長蔵。6月標津郡、目梨郡へ戸長1人配置。標津、目梨両郡戸長役場と被称、標津村、伊茶仁村、薫別村、崎無異村、忠類村、植別村の6ヶ村統治。忠類より薫別に至る道路開く。1882(明治15)年2月開拓使根室支庁を廃し、根室県をおき根室県の管轄となる。1884(明治17)年10月野付郡茶志骨村を編入。標津外6ヶ村戸長役場となる。1885(明治18)年新斜里山道(国道244号線)開削する。遠藤勇馬がホニコイに入植する。1886(明治19)年1月3県1局を廃し北海道庁を設置。標津は根室支庁管轄となる。1900(明治33)年9月標津神社創設。1901(明治34)年植別村を分割。12月標津に駅逓をおく(宮嶋旅館)。1911(明治44)年世帯数は187戸、867人。この年原野に入植が始まったが道内一円に一度入植したが再度標津に入植したものが多かった。

 1913(大正2)年4月古多糠に藤巻一治団長以下23戸の越後団体入地。1914(大正3)年松実孝太郎等奈良団体川北へ入植。1916(大正5)年8月西村武重養老牛温泉の開発に着手。1919(大正8)年標津〜中標津間開削道路完成。1921(大正10)年上標津駅逓所開設し取扱人を佐藤儀七とする。この頃の世帯数は1205戸、5669人。1922(大正11)年計根別駅逓所開設し取扱人を香川良雄とする。1923(大正12)年4月二級町村制が施行、標津村・伊茶仁村・薫別村、茶志骨村・崎無異村・忠類村・薫別村が合併し標津村となる。標津外5ケ村戸長役場を標津村役場に改称する。川北・武佐・中標津・計根別地区に市街地が形成される。1925(大正14)年〜1927(昭和2)年にかけて厚床より中標津を経て標津に至る殖民軌道根室線が順次開通していく。

 1926(昭和元)年12月標津〜中標津間拓殖軌道開通。翌年より運用開始。中標津〜計根別間に軌道敷設。木材の搬出が盛んとなる。1928(昭和3)年上標津地区に77戸入植。市街地で大火で52戸焼失する。世帯数は2025戸、1万510人。1929(昭和4)年8月字の名称改正し、大字を廃止。茶志骨・崎無異・薫別・古多糠・忠類・伊茶仁・標津・川北・武佐・開陽・俣落・西竹・養老牛・上標津・計根別・当幌・中標津・俵橋を編成。養老牛地区に95戸入植。1930(昭和5)年3月標津市街の一部中標津火力発電により点灯。1933(昭和8)年12月厚床〜西別間が標津線として開業し、奥行臼・西別駅を新設する。1937(昭和12)年10月計根別〜根室標津間鉄道開通し、標津線全通する。根北線鉄道起工。殖民軌道廃止。1940(昭和15)年根北線鉄道敷設中止。1946(昭和21)年7月標津村の一部(武佐・開陽・俣落・西竹・養老牛・上標津・計根別・当幌・中標津・俵橋)を分割し、中標津村とする。1958(昭和33)年1月町制施行標津町となる。1962(昭和37)年12月野付、風蓮道立自然公園指定。1979(昭和54)年3月伊茶仁カリカリウス遺跡、標津湿原が国の指定を受け、公園整備始まる。1980(昭和55)年9月ポー川史跡自然公園オープン。
 1989(平成元)年4月JR標津線廃止、標津線代替バス運行。1991(平成3)年9月標津サーモンパークオープン。
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