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ポー川史跡自然公園

住所 標津郡標津町字伊茶仁2784
TEL 0153-82-3674
開園期間 4月29日〜11月23日
定休日 開園期間中は無休
開園時間 9時〜17時(入園は16時30分まで)
入園料 ビジターセンター内は無料。一般330円、高校生・大学生110円、中学生以下は無料

標津町観光協会

標津町の由来は、アイヌ語の「シ・ペッ」(大きな川)(本流)から。松浦武四郎が著した知床日誌によれば、「シベツはシベツヲの訛り、鮭有る義なり」とあり、ヲは尻の意で川口を現すが、鮭有る義に関してはわからない。
伊茶仁の名前の由来は、アイヌ語の「イチャン・. ウニ」(鮭、鱒が産卵のために掘る穴)というアイヌ語で、古くはイジャニ、ヱシャニ、イチャノロとも言い、江戸期から見える地名。その後イチヤニ村、1875(明治8)年から伊茶仁村と標記した。
ポー川とは、標津町を流れ根室海峡に注ぐ河川で、標津町字川北付近に源を発し、湿地帯を流れ、標津町伊茶仁で根室海峡に注いでいる。 ポー川の由来はよく分かってはおらず、松浦武四郎の戊午女奈之日誌では、この川の名はフルホクとあり「フルホク。小川なり。此辺一面の平地也。然るに此処に少しの坂有て其傍を川が通ると云儀によって号るとかや」と書かれている。「フル・ポク」(丘の・下)、和人にはフルポと聞こえ、ポーと転訛したのではないかというのが有力だそうだ。
国道244号線沿いにあり標津町市街地から約3.4kmほど。

ポー川史跡自然公園は、歴史民俗資料館と開拓の村を備えた公園入口エリアと、約1万年に及ぶ人類の足跡を刻む国指定史跡「伊茶仁カリカリウス遺跡」、氷河期の生き残りといわれる湿原性植物が花を咲かせる国指定天然記念物「標津湿原」からなる、総面積630haの広大な保護区域で、標津町の自然・文化・歴史などが学べる公園である。
ビジターセンター内は無料であるがその先に進むならば入園料を払う。ビジターセンター内は「歴史民俗資料館」っとなっており、標津の開拓時代の資料が展示され、標津湿原や、国史跡伊茶仁カリカリウス遺跡に関する資料のほか、標津町の歴史を物語る資料が数多く展示・解説されている。

江戸時代末期の標津の様子を描いた、標津番屋屏風の複製(本物は新潟県西厳寺所蔵)を展示している。
会津藩領の中心となった標津の、現・標津神社付近にあった標津番屋(通行屋兼)を中心に秋鮭漁の様子を、藩の絵師である、星暁邨(ほし ぎょうそん)が1864(元治元)年に描いた屏風の複製を展示公開している。



会津藩御陣屋御陣屋御造営日記も所蔵されている。(標津町指定文化財)

他にも鳥類などの剥製や、土器、北辺防衛会津藩士顕彰碑に関する資料なども展示されている。
ほかにも開拓村があり、資料館の裏手には開拓時代の農家、学校、番屋などが移築整備され、町の歴史を物語る公園と言えよう。



糸櫛別駅逓の石碑

案内板
糸櫛別駅逓所の石碑
 駅邸は、旅行者の宿泊、移動の際の乗馬、荷物運搬のための馬や人
足を提供した官設の施設で、道路網や輸送機関の未発達な北海道に
おいて、開拓に大きな役割を果たしました。
 糸櫛別駅逓所は、標津から根北峠を越えて斜里に通ずる道沿いの
駅逓の一つで、標津から4里6町(16.7km)の位置に明治29年に設
置されました。駅逓の取扱人は谷村瀧之進で、定雄、正義と親子三代に
引き継がれ、昭和20年ごろ廃止となりました。その後、昭和38年ご
ろまで旅館として経営が続けられました。
 石碑は、明治29年に駅逓の井戸を掘った時に出た大石に瀧之進
命名の駅逓名を彫ったもので、平成10年10月に瀧之進の曾孫にあ
たる谷村武夫氏から標津町に寄贈されたものです。

標津から斜里への峠越えに瑠辺斯に官設の駅逓があっただけで、峠を越えるのは大変困難だったようである。
1896(明治29)年開駅の糸櫛別逓所は瑠辺斯と標津の中継地として標津から約16.7kmの位置に作られた。
以前は、国道244号線沿いに駅逓所跡の看板があったが、1998(平成10)年谷村龍之進の曾孫より標津町に寄贈され、道路の拡幅工事のため現在は、ポー川史跡自然公園で展示されている。
ちなみに、糸櫛別とはアイヌ語の「エトク・ウシ・ペツ」(水源・にある・川)で、原野の先の方にいる川という意味。中割と言われていた時期もあるようだ。

竪穴住居の復元
 円形の竪穴住居は今から3,500年前の縄文時代のもの。方形の竪穴
住居は今から1,000年前の擦文時代のものを想定して復元しています。
 この2つの竪穴住居は、日高管内平取町ニ風谷のアイヌ資料館の萱野茂氏
と仲間の人達によって昭和55年8月に復元されました。萱野氏達は伝統的
なアイヌ文化のチセ(家)をたくさん建てており、その経験を生かして竪穴
住居が復元されました。
規模        使った材料
地上高 2.8m    木材 径 7cm×3.5m 6本  かや 径30cm 76把
直径  4.8m       径 5cm×3.5m 40本 シナ縄 1巻10m 50巻
深さ  0.6m       径 2cm×3.5m 40本 ヌマガヤすだれ 5枚
床面積 18.0平方m    径 30cm×1.2m 8本


伊茶仁教育所

 この町の学校は、明治十年(一八七七)初代
戸長槇宗説が自宅で寺子屋教育を行ったの
がはじまりであります。この学校は、明治
二十三年私塾として開かれ大正八年に廃校と
なった「伊茶仁教育所」の名称をつかいました
が実際はこの地方の原野開拓が盛んになった
(大正元年-同十年)時代に建てられた。”開拓
学校”のすがたを再現しようとしたものであ
ります。(完全な型ではありません)
 内部には、当時の楽しい学校生活が想い出さ
れるよう考えました。
 今後「教育資料展示館」としての活用も考
えたいと思います。
 ご協力ご利用をお願いします。
昭和五十六年十二月二十日建設
標津町 標津町教育委員会


農家の復元家屋


さらに奥に進むと、網蔵と漁業番屋がある。

網蔵
 名前のとおり網を入れておく
蔵です。
 番屋に附属した建物の一つで
近くには舟を入れておく舟蔵と
塩造の魚を入れておく塩切蔵や
色々な道具を入れておく雑蔵
などがありました。
その他番屋の周囲には舟を引き
揚げるカクラサン・にしんを煮て
カス・油とるにしんがま
網や魚を干す干場で一つの漁場が
成り立っていました。
昭和五十八年十二月二十四日建設
標津町 標津町教育委員会

漁場番屋

 この漁業番屋は標津町伊茶仁奥村久蔵氏の
番屋をモデルにして建てられています。
 建築年代、明治初期のもので昔から漁師の
番屋は中央、土間が通りぬけ左右に番屋が
分かれる同じ形のものでした。番屋で働く
人も日本海側のにしん漁とはちがい一〇〜二〇
の少人数でにしん御殿と言われるような大き
な建物ではありません。この建物の特徴は
梁のかた方に独特のものがあります。材が
斜めにかけられた登りばりと梁を四段にして
わたした四段ばりが交互にある点とその梁に
束を立てて屋根を支えている点にあります。
こうした型式のものは道内にはなく貴重です。
 本町の漁業は○○○代の中頃○○「場所請負
制度」により請負人によって開かれてきました。
ニシン・サケ・マスなどが漁獲の主なもので
漁期だけ移動してくる季節的なものでした。
 明治十年以後一般の漁業者に漁場が開放
されましたが漁場経営にかかわ○○道具など
を借りて行う○○制度が続きました。
昭和○○○年○○月二十四日建設
標津町 標津町教育委員会
(一部読めないため○で表示しております)

この先は、学校の裏から標津湿原に架けられた木橋を渡ると、国の史跡伊茶仁カリカリウス遺跡がある。 見学して回ると往復、自転車で約1時間はかかるだろう。自転車をレンタルすることもできるのでビジターセンターで聞いてみるといい。
湿原から一段登った台地の上には、1500以上の竪穴式住居跡が続く場所にでる、そのうちの一部が復元され住居などが展示されている。
この遺跡は縄文時代続縄文文化擦文文化オホーツク文化などのアイヌ文化の遺跡で、遺跡のある周辺は雑木林に覆われており、虫も多いので虫除けスプレーは必須。靴もスニーカーなどが望ましいだろう。熊も時々出没するようで、遺跡までの道は立ち入り禁止になり、湿原途中までしか行けないこともあるようだ。

ポー川史跡自然公園では、各種体験プログラムも用意されている。
事前予約が必要な体験プログラムと予約なしでも体験できるものがあるのでHPを参考にしてほしい。
予約が必要な体験プログラムは、10日前までに申込まなければならない。むかしのくらし体験コース・縄文リバーパスツアー・縄文フットパスツアーなどが予約が必要な体験プログラムである。

伊茶仁は、江戸期から見える地名で、古くはイジャニ、ヱシャニ、イチャノロと言った。その後イヂヤニ村と呼んだ。東蝦夷地、はじめアツケシ場所で後にキイタップ場所。ネモロ場所となった。イチヤニ村は、1875(明治8)年から伊茶仁村と標記した。1789(寛政元)年国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村山伝兵衛に場所請負を命ず。1845(弘化2)年松浦武四郎が著した「初航蝦夷日誌」には「エシヤニ、川有。巾八間斗。漁小屋有。夷人小屋も有」、「廻浦日誌」には「イチャニ村は近年迄は十三軒有。当時七軒、人別三拾六人有」と見える。1855(安政2)年幕府、松前・江差地方を除く全島を直轄。東蝦夷地は仙台藩の警備地となる。1859(安政6)年11月会津藩領地となる。
 1869(明治2)年8月蝦夷を北海道と名づけ、11国86郡を設定。場所請負人を廃止し、漁場持と改称。開拓使物産掛の管理下におく。伊茶仁は根室国標津郡に属する。1872(明治5)年9月根室出張所を改め、根室支庁と称す。標津、目梨を仙台県より請取り、根室支庁管轄とする。イチヤニ・カエバイ・チシ子がイチヤニ村となる。1873(明治6)年7月根室支庁出張所を野付におき、目梨、標津、野付三郡を管轄する。1875(明治8)年3月町村名を従来の仮名であったものを本字に改める。標津郡(標津村、伊茶仁村)目梨郡(忠類村、薫別村、植別村)。6月野付出張所を廃し、支庁直轄となる。この頃から移住者が増えていく。1879(明治12)年7月根室郡役所の管轄となる。戸長役場を標津に設け、標津、伊茶仁、2ケ村を統治。標津町の開基となる。1880(明治13)年6月標津郡、目梨郡へ戸長1人配置。標津、目梨両郡戸長役場と被称、標津村、伊茶仁村、薫別村、崎無異村、忠類村、植別村の6ヶ村統治。1886(明治19)年1月3県1局を廃し北海道庁を設置。標津は根室支庁管轄となる。この時の伊茶仁の世帯数は6戸、19人。1891(明治24)年世帯数は55戸、275人。藤田静行が私塾を開く。1892(明治25)年標津小学校伊茶仁分校となる。1903(明治36)年缶詰工場が開設する。遠藤勇馬ら9人で共同牧場を開設、翌年藤野牧場となる。1909(明治42)年伊茶仁川においてサケの密漁を取締るための看守を置く。
 1919(大正8)年標津〜中標津間開削道路完成。1920(大正9)年伊茶仁の世帯数は37戸、200人。1923(大正12)年4月二級町村制が施行、標津村となる。標津外5ケ村戸長役場を標津村役場に改称する。標津村の大字となる。
 1929(昭和4)年8月字の名称改正し字伊茶仁となる。1932(昭和7)年世帯数は40戸、211人。1933(昭和8)年10月標津線の西別〜厚床間鉄道開通。1934(昭和9)年10月西別〜中標津間鉄道開通。1936(昭和11)年10月標茶〜計根別間鉄道開通。1937(昭和12)年10月計根別〜根室標津間鉄道開通し、標津線全通する。根北線鉄道起工。殖民軌道廃止。1940(昭和15)年根北線鉄道敷設中止。1946(昭和21)年7月標津村の一部を分割し、中標津村とする。1958(昭和33)年1月町制施行標津町となる。標津町の行政字となる。1965(昭和40)年世帯数は53戸、317人。1972(昭和47)年伊茶仁にて遺跡の調査が開始。1979(昭和54)年3月伊茶仁カリカリウス遺跡が国史跡、標津湿原が国の天然記念物の指定を受け、公園整備始まる。1980(昭和55)年3月標津町歴史民俗資料館落成。1980(昭和55)年9月ポー川史跡自然公園オープン。
 1989(平成1)年4月JR標津線廃止、標津線代替バス運行。
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